第26話 曖昧な二人の距離感
凛の舞台公演が終わった次の日。
どこか心にぽっかり穴が空いたみたいな冬の午後だった。
天宮さんと俺は、駅前で待ち合わせた。
理由は特になかったけれど、用事が終わった後で自然と「ちょっと寄り道しようか」って、そんな流れになった。
駅前のコンビニでホットココアを買って、
歩き慣れた商店街を抜ける。
薄曇りの空、風は冷たくて、二人ともコートのポケットに手を突っ込んでいた。
「なんか、最近いろいろあったね」
俺がぽつりと言うと、天宮さんは少し微笑んだ。
「うん。凛ちゃんの公演、すごく良かったし……。
でも、なんか自分だけ取り残されてる感じがした」
「どうして?」
「……分かんない。ただ、
二人でいるときも、なんとなく“このままでいいのかな”って、考えちゃうことが増えてきたんだよね」
小さな公園のベンチに座ると、
天宮さんは缶のココアを両手で包み込みながら空を見上げた。
「ねぇ、“お試し交際”って……最初は楽しかったよね。
友だちの延長みたいで。
気軽で、失敗しても“戻れる”って思えて」
「うん。俺も、“失敗しても怖くない”って、
正直ちょっと逃げ道みたいに思ってた」
「でもさ」
天宮さんは視線を落とす。
「祐くんと一緒にいる時間が増えて、
どんどん“好き”って気持ちが本気になっていった。
でも“お試し”のままだから、
いざ本当の恋人みたいなことをするのは怖い――みたいな」
「分かる」
俺も頷く。
「俺も、天宮さんのことがどんどん特別になっていく。
でも、“本気”になるのが怖い。
今のままだったら、
もし何かうまくいかなくなっても“友だち”に戻れるって思っちゃってた」
二人の間に、言葉にならない沈黙が流れる。
公園の奥で小さな子どもが雪を踏みしめて走り回っている。
その声がやけに遠く、
自分たちの世界だけが切り離されたような気がした。
「祐くん、どうしてそんなに怖いの?」
「……たぶん、
傷つくのが怖いんだと思う。
もし“本気”になって、
そのうえで駄目になったら、
もう何も残らない気がして」
天宮さんは、
缶ココアをぎゅっと握ったまま、唇を少し噛んだ。
「私も同じこと考えてた。
祐くんといると楽しいし、ドキドキもする。
でも“お試し”のままなら、
全部“遊び”の延長で済ませられる。
でも、本当は、
ちゃんと“恋人”になってみたい気持ちもあるんだ」
俺は、天宮さんの横顔をじっと見つめる。
「……天宮さん、正直に言うと、
俺もこのまま“お試し”が続いたらいいなって思ったこともあった。
だけど最近、
それが逆に“寂しい”って思うようになった」
彼女がゆっくりこちらを見返す。
「寂しい?」
「うん。“お試し”のまま、
本気で好きって言えない自分が、
なんかズルい気がして」
天宮さんは少しだけ、涙ぐんだような声で言った。
「ずるいのは、私も一緒だよ。
怖くて、
本音が言えなくて、
それで“お試し”っていう言葉に甘えてた」
二人とも、ただ沈黙した。
白い息だけが、空にすっと溶けていく。
◇ ◇ ◇
「でも、
こうやって何でも言えるのが、
“お試し”の良さでもあると思う」
天宮さんが、そっと呟く。
「うん。無理に答え出さなくてもいいのかも。
怖いけど、今はこのままで――
もう少しだけ、曖昧なままでもいい?」
「……うん」
彼女は頷いて、
俺の袖を小さくつかんだ。
ふたりの距離は、相変わらず曖昧で、
だけどそれが今はたしかに優しくて、
心が少しだけ、あたたかくなった気がした。
◇ ◇ ◇
ベンチの隣、天宮さんはしばらく黙って缶ココアを口に運ぶ。
そのたびに、白い息がふわりと立ちのぼる。
「祐くんさ、もし“本気で付き合う”ってなったら、どうしたい?」
その問いは、何気ないようで、ずっと胸に溜めていた本音だったのだろう。
「うーん……」
正直、うまく答えが出ない。
俺は考え込む。
“本気で付き合う”って何だろう。
今までだって、一緒に過ごす時間は特別だった。
でも、どこか“仮の恋人ごっこ”という安心感の上に成り立っていた気がする。
「正直、あんまり想像できないかも」
俺は素直に打ち明ける。
「でも、天宮さんのことが特別だってことは、はっきりしてる。
本気になったら、たぶん、
もっとちゃんと好きだって伝えたり、
デートも今みたいな“ごっこ”じゃなく、
本物として過ごしたいなって思う」
天宮さんはそっとこちらを見る。
「……私もね、
お試しのままじゃ物足りないって思うこと、増えてきた。
でも、怖いのも本当で――
たまに、祐くんの隣にいる自分が、本当に恋人になったらどうなっちゃうんだろうって、ドキドキしすぎて苦しくなる」
遠くの滑り台で子どもたちがはしゃぐ声が、
少しだけ遠く感じる。
「でもさ」
俺はゆっくり言葉を探す。
「こうやって、ちゃんと“怖い”とか“迷ってる”って言い合えるのは、
きっと天宮さんだけなんだと思う。
それは……、俺にとってはすごく大事なことなんだ」
天宮さんは、
ふっと目元を緩めて、小さく笑う。
「私もだよ。
友だちの延長みたいな関係だったからこそ、
たぶん本音も言えたし、
何気ない日常も、全部宝物みたいになったんだと思う」
「だから今は、
無理に“恋人”にならなくてもいいかなって……」
俺が言いかけると、
天宮さんが小さく「うん」と頷いた。
「……ね、祐くん」
「なに?」
「今はまだ、“お試し交際”のままでいよう。
でも、もしもお互いの気持ちがもっと強くなったら、
そのときは……もう一度ちゃんと話そう」
その声は少し震えていたけど、
決して後ろ向きじゃなかった。
「うん、約束」
俺は静かに右手を差し出す。
天宮さんがその手を、ぎゅっと握り返す。
「……ありがとう。
この関係が曖昧でも、私はすごく幸せだよ」
俺も「俺も」と笑う。
◇ ◇ ◇
帰り道、
夕暮れの薄明かりがふたりを包んでいく。
「今日は、ありがとね」
天宮さんがふと立ち止まる。
「私、また勇気が出た。
なんか、もう少しだけこのままでいたいって思えたから」
「俺も。
もしまた不安になったら、ちゃんと言うから」
「私も……」
小さな“約束”を胸に、
ふたりは並んで歩き出す。
ほんのり冷たい冬の空気。
だけど、
その手の温もりだけは、
しっかりと、たしかに残っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、天宮さんからLINEが届いた。
【天宮さん】
「今日ね、素直に話せてよかった。
祐くんの隣は、やっぱり一番落ち着く」
俺はスマホを握りながら、少し照れくさくなる。
【俺】
「俺も。曖昧なままだけど、大事なものは変わらないって思った」
しばらく既読がつかなかったが、
寝る前にぽつりと返事が届く。
【天宮さん】
「おやすみ。また一緒に歩こうね」
ベッドの中で、
あたたかいものが胸の奥に広がっていく。
今はまだ“お試し”のまま。
でも、これが“終わる”ときが来ても、
きっともう一度ちゃんと二人で選び直せる気がした。




