11 放たれし神殿(かむど)
朝起きて鏡をのぞくと、両目をあかく泣き腫らしていた。
(嘘でしょ……)
朝一にしてハンパない疲労感で、学校にいくのも億劫になる。
水曜日なのに。
放課後までに、腫れが引いてくれるといいが。
(たのむよ、みこ。あっ、まさかみこがわたしの体で号泣したとかそういう!? んじゃないよね。絶対ないわ)
種もしかけもない。みこが無事だったことにほっとして、こっちにもどって、寝ているあいだに自分の体で愛乃が泣いていたのだろう。
それほど……日々、平和を満喫している愛乃には、刺激の強すぎる体験だった。
顔を洗って制服に着替え、食堂へおりていくと、勇人が先に食卓についていた。
「あれ、どしたの」
野球部の勇人は、朝練のためこの時間は大抵、家を出たあとである。
「グラウンド整備。マジつまんねえ。ゲームしかすることない」
元気がありあまっているのか、ご飯をかきこみながらなげいている。夢見(というのも抵抗があるが)が悪かったこっちとしては、うらやましいやら鬱陶しいやら。
茶碗の横からこっちをみながら、勇人が器用にきいてくる。
「テストまだ? ないの?」
「あるよ。再来週」
「来週テスト前? 部活ない?」
「ないよ」
「やった。六連ヒマだな」
「……」
つっこむのもめんどくさいからお姉ちゃんつっこみませんよ、と、愛乃は内心でかえした。
勇人と六連はゲーム仲間なのである。目下、世界の海を叉にかけて海洋生物をコレクションするゲームに夢中らしい。六連は高校入学以来、特に部活に入ったともきいていないが、同好の士を得てから帰りが遅いとか。勇人も朝夕部活なのだから、合う時間など、どの道ほとんどないだろうに。
それにしても、テスト前なら押しかけられるだろうという、この弟の認識はどうしたものだろう。愛乃はふと思ったが、まあ六連のことだからいいや、と、一瞬で解決した。
勇人は胡乱げにこっちに横目をくれると、食事を終えて椅子を立った。食器をさげるついでに、冷蔵庫前で牛乳を一杯、呷っている。
平和だ。
つき合いかたを忘れそうなくらい。
生きかたがブレそうだわ、と思った。
勉強道具を準備して玄関を出て、駅に向かい、電車にのり、その電車が時間通り目的地につく。
駅から自転車にまたがれば、似たような境遇の生徒たちがいっぱいいて、それぞれの学校へむかって、すすめばすすむほど同じ制服が多くなる。
皆、本当に、こんな奇天烈な夢をみないでくらせているのだろうか?
そんな疑念さえ持ちたくなる。湿気の多い夏の風に前髪をなぶられながら、愛乃は機械的に自転車をこいだ。
(たまたま、事故の後遺症で、マニアックな夢をみるようになったとか、そういう)
試しに自分のおかれた状況を無理やり解釈しようとしたが、詮もない。ばかばかしくなって、やめた。
◇
そろそろ怒っていいだろうか。
よりによって、数学の時間だった。せめて一限、放心状態でききながしていた現国のあいだにしてくれればいいのに。
ようやく授業に身が入りそうだと胸をなでおろした瞬間、辺りの景色がかわった。教室のあかるさの直後でも、みこの体はここにいたので目を慣らす必要がないから、3D映像の場面がきりかわったみたいだ。
昼間なのに辺りは薄暗く、人声が絶えずそこかしこにひびいている。そのくせ手近の辺りは静まりきって、莚にすわりこんでいるそばにただ一人、ヨクが、片膝を立ててひかえていた。
間取りにみおぼえがあるところをみると、あの高殿の寝間だろう。
愛乃は顔をあげ、つい、遠くまで耳を澄ませた。ノヤは近くにいないのだろうか。
寝間の周りが騒がしいのは、もしや、ゆうべのことがもとなのか。ときどきアマンの声らしき音がひろえるが、あとはもっぱら、ほかの大人たちの話し合う音だ。
何をしていたところかしらないが、とりあえずひまだからという、いつものやり口らしい。
みこの意思で、みこの体と自分の体を行き来するようになって。ほんの微々たるものだが、一応、みことの意思疎通もしたはしたというおぼえもなきにしもあらずなのだが。
どうもいまだに、メリットというか、配慮がないというか。
四歳児って、こんなもんか。
そう思っても気持ちはおさまらないけれども。
ヨクはすぐ、みこが愛乃となってめざめたことに心づいている。みこがわざわざことわってから替わっているわけではないと思うが。
みこへの憤りを、ヨクにぶつけるのは筋違いだろう。たとえこの子をみちびいているのが、いまのところこの人だとしても。
――あの月の君と、闇の洞穴のともし火の中、二人で話したのが思い出される。
いま、こうして昼日中、この食えない翁と二人でいる。
「……この体をさらった人は、みこの父上の使いだといってましたが」
愛乃は考えたなりに、できるだけ、当たり障りのなさそうなききかたをした。
あのやさしい声をききながら、思ったこと。
シルヴェンがみこの父の使いなら、ヨクは、そしてノヤは何者なのか。
ヨクはみこのいる奥の壁の前に、横向きにすわったまま、こちら側の右目をちらと愛乃にくれそうにして、ついに、まったくみなかった。
「そうでしょうな」
本当は、帰ってきてよかったんですかと、ききたかった。
いくらこちらのことに疎いとはいえ、その問いをヨクにぶつけるのはちょっとどうかと思ったので、のみこんだのだが。
その疑いは消えていない。
愛乃がノヤをえらんだのは、ただ、みこの何の含みもなさそうな、あの場に関わりもあるやらどうやらという、初めのひとことに従ったにすぎない。
いわく、《ノヤとヨクにまかせておってよい》と。
しかし、みこがまったく正しいとはかぎらない。
ヨクがなにもいわないので、愛乃はまた考え、ことばをえらんだ。
「あの……ここにくるのに、わたしの意思は関係ないんです。みこが呼ぶんです。この子がわたしの体に行こうとしなければ、わたしはこっちにこない。呼ばれたらこざるをえないんです」
しどろもどろもいいところだった。ヨクはととのった顔立ちをひげにかくした右半分で、こっちをみもせず、僅かに顎を引いたようなのが、答えといえば答えのようだ。
ひどい扱いである。
愛乃は闇雲に考えた。シルヴェンにくらべて、ノヤとヨクがたよりになるという拠。
それが欲しいのだ。みこはどうかしらないが、愛乃は。
まだ四つにもならない、あのこまっしゃくれた、この幼子を。
みこを、この人たちにゆだねられるのか。
「もりとは、何ですか。あなたたちはなぜ、みこをまもっているんですか」
「――話すのがよいのでしょうな」
かすかな溜め息をもらすのにのせて、ヨクがささやき声でいう。
そりゃそうです、と、喉まで出かかったが、愛乃は口をつぐんでつづきを待った。
「もりとは、みことあるところ。ひいてはオイナのおわすところ。オイナからうまれた御子さまは、ゆくゆくつぎのオイナになりうるおかたである」
……《オイナ》。
これではわからない。
「それは、みこの、お母さん?」
ヨクはいくらかこちらをむき、あっさり頷く。目はこちらをみなかった。
間の外の騒ぎをききながら、それにまぎらそうとしてか、ささやくような小声で語る。
「もりにはみことが満ちておる。みことをその器にやどし、人にもたらすのがオイナです。オイナは多くの子をもち、女子はみな、もりで育まれる」
《みこと》というのも、いまだに何なのかわからないが。
《オイナ》の多くの子。
みこは、そのうちの一人。
「男親は裾野の者がほとんど。多くの子のうち、男は麓や野にくだり、オイナをまもってくらすのが例です」
息継ぎのためとも思えないが、ヨクがことばをきった。ここで終わられてはたまらないので、愛乃はすかさずたずねた。
「じゃあ、お父さんもそこの人?」
ヨクはややのあいだ、遠くをみるような目つきをした。
その少しの間が、いやに長いようだった。
「オイナの子について、男親が誰かなど問わない」
オイナの子であることでよいのです、と、ヨクは愛乃には耳慣れない、持ってまわった言い回しをした。
愛乃は返しにこまって、口をあいたままうごきをとめる。
すると、そのせいでもないのかどうか、ヨクは愛乃の問いにこたえた。
「御子さまの男親は、野の者ではありませぬ。あれは、はるか野を追われた者。もりを外れ、川も洋もへだてた、ならず者の一人じゃ。あれはただ、みことみたさに、もりを侵し神殿をやぶった」
「――……」
ならず者の子のなすことじゃ、と、ヨクはこともなげにいった。
愛乃には、とても、頷けることではなかった。
「多くの子のうち、わけてもみごとな器をもつのが、御子さまにあらせられる。御身はもりの中、オイナのもとで育まれるべき。あのことがおこるまでは、まさにそうあったのじゃ」
珍しく――初めてかもしれない。ほんのかすかな、まぼろしと思えるほどの、翳りを、この翁は僅かに目と目のあわいに浮かべて消した。
《あのこと》。
愛乃の目を目尻に受け、ヨクはまた、さらりとした声をもらす。
「ふたたびもりが侵された。同じならず者が、神殿をやぶろうとした。オイナをもとめたばかりでない、神殿をおさめ、御子さまごと手にいれる腹でした。オイナは神殿をたもち、かつ、そのならず者の目をくらますため、御子さまを川へはなたれた」
語り部はつづけた。その名のつとめをはたすみたいに。
「御身には、薬師と、そのときもりにかえっていた語り部、わしがつけられました。川のなかばに御身をすくって、もりを早く、遠のいてきた。御子さまのいないのをさとると、あれはただちに追っ手をさしむけた。ゆうべのあの者は、なかでもよく働く使いでしょう」
口を挟もうかと迷って、愛乃は、やはり何もいわなかった。
ヨクの口から語られるのは、ヨクのことば、ヨクの考えだ……一概にシルヴェンの側が悪いとは、きめつけられない。
神殿をたもつため。
そうきかされても。
それがどのくらい、この人々にとって大きなことなのか、愛乃にははかりかねる。
もりを侵し……オイナに子をうませたというのが、そのヨクのいうならず者なら、その行為自体、想像するのも堪え難いことだ。
しかし、オイナの子はすべて、父が誰かを問わないということらしい。
それなら、ならず者がまたやってきたからといって、わざわざみこを手放さなくとも。その父親をなんとかなだめすかして帰ってもらうとか、次こそ入ってこれないようにきびしくさばくとか、できなかったのだろうか。
しかも、みこを手放すのを、目くらましにしたなんて。
ヨクのいいかたでは、まるで、神殿をより重んじたような。
「神殿……というのは、なにがあるところなんですか」
子としての、だろうか。
なんとなく険しい心が、声にもれてしまったかもしれない。
ヨクは愛乃をみない目を細めた。
「もりには木があり、神殿には火があります」
「――火」
出し抜けに、松葉色の双つの目が、深い色を湛えて愛乃をみた。
「もりの木は火となる木。オイナをまもり、木をまもるのが、もりの者のつとめ。神殿をたもち、火をまもるのが、オイナのなすべきことです」
ヨクはこっちをむいたまま、ちらとまたたいた。まるで、いつものかるい舌先を、引っこめようとするみたいに。
変わらず真顔で愛乃をみつめる。それが、愛乃の情けに訴えようというつもりなら、おそろしいものだが。
火。
ふと、愛乃はみこの身につける珠を思い浮かべていた。
あの中身。黒い石。
父からもらったという。
……あれは、ひょっとして、火打ち石ではないのか。
もしそうだとしたら、必ずしも、もりを手の中におさめなくても……。
愛乃はわざと目をそらし、声だけで翁にきいた。
「その、ならず者というのは、どういう人たちですか」
火をたもつのが大事とは、あっちの世界になじみきった愛乃には、心の底からはわからない。これまで、こちらですごしてきて、有り難みにやっと、ふれたくらいである。
それでも神殿がそのためにあり、また、そのならず者とかいう人たちが火打ち石をつかっているとすれば。
火はどちらにもあるのだ。
互いが諍うことなど、ないではないか。
(大体、父親が、子どもに会うってだけじゃないの)
そういうことではないのだろうか。
返りが遅いので、愛乃が目をもどすと、それを待っていたかのように、ヨクは片眉をひそめてみせた。
そのままなにもいわないので、愛乃は戸惑う。
翁はやがて横をむき、背をのばしてすわり直した。
「もりを出、野をこえ、洋のむこうに追われた者。のがれた者。あれらは――」
寝間のある高殿の下、沢のかたからだろうか、ききおぼえのある足音が近づいてくるのが、みこの耳にひびいてくる。
あの人を疑っているのだ。そう思うと、いかんせん、己をとがめそうだ。
「洋のむこうの者どもは、もりをおびやかす者」
「それは、どういう」
いつになく煮えきらないのに、愛乃は問いをかさねる。
ヨクはまぶたを伏せ、とじんばかりにした。
「あれらは穀物を蒔き、獲物を狩るのに飽き足らぬ。木をたおし、けものを囲って、おのがためよりなお多く、生み、殺す者どもです」
ノヤがやがて階をのぼり、寝間に入って、戸口に腰をすえた。
それはヨクのことばの終わりから、かなり経ってのことだった。
それでも、愛乃は、それをどう受けとめていいのか、ひとこともかえさないまま時をすごしていたのである。




