10 火をめぐる闘争
がたりと立ちあがると、周りの生徒たちが不審そうにふりむいた。
教室内。授業中だ。教科書を読み、板書をうつすのがおもな作業。この時間の、なんと単調なことか。
(おぉ……)
ひさびさの倫理だ。
すとんと腰をおろすと、直後に板書中の教師がふりかえった。愛乃はなるべくそしらぬ顔をして、機械的に教科書とノートを引き出した。
教師が板書にもどる。……あぶないあぶない。
うしろの席の生徒に、教科書のどこのページをひらいているのかこっそり教えてもらい、一応ノートもひらいてみた。
進捗状況から、いままでどれだけ欠けがあるのかしらべようとしたが。
「…………」
黒板をみ、この際、途中からでもノートをとろうかと思う。
欠落分のため、どのくらいノートをあければいいか。
考えず、適当にぱらりとめくって一行目にペンを立てる。
ぱきんと、冗談のようにシャープペンシルの芯が折れた。
(………………)
どういう状況?
邑人に呼ばれてついていったら、森の中で頭をくるまれて運ばれて。
運ばれて……はこばれて……?
「誘拐」
単語が口からこぼれた。
いやいやいやいや。
一旦、考えてみよう。落ち着こう。冷静になって。だって邑の人だった。
呼びにきたときも堂々としてた。ともすれば、ノヤからみえる距離にいたのだ。視線をはばむものはなかった。沢から木まで。ノヤ以外に、娘も子どももいた。
ヨクとアマンが呼んでいると。そう告げて、愛乃を木からおりさせ、視界のきかない森の奥へつれこんだ。
その上、人気もない窪地に入ると、即座にみこの自由を奪い、がっちり固定して駆けだした。邑ともいろりとも別の方角へ。
好意的に解釈すれば、あれだ、多分、みこの足に合わせるのが面倒くさくなったのだろう。だから抱えた。みこはあるかなくてすむ。楽じゃないか。
邑でもいろりでもない方向へ。ヨクとアマンがいるだろう場所へ?
ご丁寧に目鼻を覆って、口を塞いで?
あれ……。
(……みこ――)
呼んでみる。
返事はない。
…………だめかもしれない。
誘拐。――誘拐!?
あの四つの幼女を!?
狙われていた? 狙われていた。その疑惑はあった。
……やってしまった、のだろうか。
さあっと血の気が引き、愛乃は、じき机に額を落とした。
ぐるぐると脳内がまわる。なにも考えられない。
何が起こっている?
(みこぉ)
呼びかける。それしかできない。
それすら、こたえがない。
返事してよぉ。
外もあかるいうちに帰宅し、ひたすらピアノを弾きつづけた。日が沈んで、楽譜がみえなくなって、夕食の匂いとテレビの音声が食堂へといざなうまで。
あの幼女の気に入っていた楽器。女は鳴物鳴らさずといわれる世界で、そこにうまれて、それなのに無邪気に音色を請うていた。
その傍若無人な声が、いまは沈黙をつづけている。
どういう感興をいだいていたのだろう。愛乃が弾くことに、なんの違和感もない様子だった。だから当然、愛乃も、あちらの世界にあんなしきたりがあるとは思いつかなかった。
ヨクがなにかいっていた。ころしてしまうとか、なんとか。
特にみこは、と。
そもそも、あの子は追われていたようだった――。
食事のあとすぐ風呂に入り、出てくると私室にこもった。勉強なんか手につくはずがない。
あの子は普通の子ではないのだ。それだけはもう、はっきりしている。あんな老獪な、また実直な大人にまもられて、あんな何もない旅の空なのに、下にもおかぬ扱いを受けている。
愛乃の油断のせいで、それがさらわれたのだとすれば。
もしもみこに何かあったら――。
後味が悪いではすまない。
それなのにいまここにいる自分には、手出しどころか口出しもできない。なにがどうなっているのか、たしかめることすら。
あっちに呼ばれないかぎり、愛乃にはなにひとつできないのだ。
みこの意思がなければ。
壊滅的に、手段がない。
「愛乃ー」
突然、がちゃりとドアがあいて、弟の勇人が顔を出した。
反射的に、愛乃はそちらをむく。
「ノックしろっていってるでしょ」
「電話。渡辺さん」
ふたつ年下の勇人は、部活帰りのジャージ姿で、風呂にも入らずテレビをみていたようだ。
愛乃が先に入ったせいだろう。いつもはとっくに部屋着でくつろいでいる時間帯だ。なんだかんだで一番風呂が好きなので、誰かが先に入るとしばらくぐずぐずするのである。
わがままめ、と思わないでもない。
「ユミ?」
なんで家電?
つぶやきつつ、さあ、とこたえる弟の手から電話の子機を受けとる。
「よいー」
よくわからない挨拶が受話器からきこえた。
「ユミ。どしたの? なんで――よくうちの番号しってたね」
「元気? 勇人くんと話したかったからさぁ」
「えっ、なんで?」
いつの間に。まだ五月だ、同級生の弟と電話する仲になるには早すぎやしないか。
「一度、ほら、ゲーセンで会ったじゃない。あのとき、携帯持ってないってきいたから」
かわりに家電の番号をきいたと?
「なにその行動力……」
怖っ。我が友人ながら、真似できない。
はははと、ユミは明朗そのものの笑い声をひびかせる。全然、他意はないようだった。
「それでまあ、愛乃、順調かね」
「なにが」
「勉強とか。勉強とか。ピアノでもいいけど」
「どっちよ……」
「どっちかでもいいよ」
こたえようと思ったが、こたえられなかった。
その二者択一じゃ、どっちも不正解だ。
戸口にはまだ勇人が立っている。電話が終わるのを待っているようだ。
それとも、きいているのか。
「きょうもノートとってないんじゃないの?」
「――、うん」
「それはいつでも貸すけどさ。そういう問題じゃないんじゃないかねと思わんかね」
「え。……え、え。どっち」
なにいってんの、この人。ほんとこわい。
こっちでまで泣きそうになるのは、回避したかった。
「やる気出ないんだ。愛乃、今度テスト終わったら遊びにいこうよ」
「いいけど、部活は?」
「あっ――なんでこうなんだろうね」
「しらないよ……」
どうかしている。まったく。
「え、じゃあとにかく、暇みつけてどっかいこうよ。ね。愛乃もピアノでしょ?」
「うん、わかった」
「別にしゃべらなくていいからさ。じゃあね。勇人くんまだいる?」
「いるよ」
視線をあげると、勇人と目が合った。
「ありがとーって伝えて。じゃぁおやすみ~」
おやすみ、と、繰りかえして、愛乃は電話をきった。
勇人が無言で手を差しだすので、子機を渡す。
「ありがとだって」
「あそ」
簡潔に応じると、勇人は廊下をもどり始めた。
お礼でもいおうかと、愛乃はひらいたままのドアから廊下をのぞきこむ。左右の手で子機をパスしながら、鼻歌を歌う勇人の後姿がみえた。
……おおかた、女子高生の知り合いから電話がかかってきたので浮かれているのだろう。
先行き不安な弟だった。それと、友人の察しの良さも。
◇
目がさめたのは、夜のふける前、愛乃が自分のベッドに入って意識を飛ばしてからだった。
いや、なにせ、早く寝たのだ。考えてもなにも思いつかず、起きていてもなにもできなかったゆえ。
(よかった……!)
顔をあげるとみこの体で、痛みもなく、頭も覆われていなかった。服も着ている。首周りが少しひらいているけれど。
ちがうところといえば、両手がうごかせないことだった。
うん。
えらい違いだった。
敷物にすわっているのだが、手首をうしろでしばられているだけで、まともに立ちあがれない。身軽かつ小柄なので、まあなにせ幼子なので、うごきたいならころがるのが早そうだが、なにもみえない、きこえないところへ闇雲に身をころがすのもどうかと思う。
ついぞきかないくらい、ひっそりしている。
その上、こちらでも初めてといっていいくらい、まっくらだ。
衣擦れが障らないよう、身動きをぴたりととめ、愛乃は耳を澄ませた。
しんとしている。虫のうごめきどころか、風のそよぎすらない。愛乃がこちらで、みこの体でもっともしっているものといえば、あの乾いた強い風なのに。
なんの音かわからないが、遠く、あるいは近く、なんとなくさわさわきこえる。風も光もないから、どうも、せまいところにいるのではないかと思うが。匂いなのか、ただのふれたおぼえなのか、どことなくしっとりしているらしかった。
疑いが湧いては深くなるのだった。
(これ、本当にみこの体? わたしが自分で夢みてるだけ?)
みこの体にきているという夢なんじゃなかろうか。
やばい。よもや。
(夢とファンタジーの区別がつかないってそりゃ大差ないよね!)
どうしたものだろう。
みこのことを考えるあまり、とうとう頭がひとりでにつくり出してしまったのだろうか。手首をいましめられて、指先から血の引いているのなんて、おそろしく生々しいけれど。
実際はベッドでうっかり両手を背中に敷いて寝ているせいなのかもしれない。
みこの体で、みこの耳と鼻だと思うが、思い出をなぞっているだけかも。
夢ならさめてと、身にしみて思った。
その矢先、ふわんと、果実のような花のような香りがよぎった。
ばっと愛乃はおもてをあげる。香りをのせたのは、ひと筋の風だ。前から僅かに漂いきて、眉のあわいから頬の辺りをなでていった。
湿っていない、乾いたかすかな流れ。
かいだことのない甘い清しい匂い……。
やがて熾をたばねたような、弱々しいあかりがそちらへともった。風上に、さっきより大きな乾いた風とともに、夕焼けをお裾分けしてもらったみたいな光がふくらんで、こちらへやってくる。
うまれて初めて、目がみえるかのようだった。
それほどまばゆく、あざやかだった。
彼は枯れ草をまとめてつけた火をかざし、いびつな洞のうちを、あぶなげなく進んできた。
すんなりと背の高く、冴えきった立ち姿。まとう衣に飾りはないのに、天にかかる望月のようだ。
白いつやのある肌をふちどる、絹糸のような金の髪。目の前にかがみこんだ、こちらをみつめる容顔は、鼻筋、唇、目にいたるまで、めでるためかたどられたのか。
弱いあかりに、間近まで眼がせまって、ようよう、その色がみきわめられた。
真昼の空の青。
(――ほんとに夢だ)
こんなこと、あるわけがない。
少女漫画も裸足で逃げる、超絶美青年である。
みこの前に膝をつくと、彼はうっとりと(いや、これは愛乃の感想である)目をなごませた。
金のまつげが瞳にかかって、月影にたれる稲穂を思わせた。
「私は、シルヴェンと申します。手荒なしわざをおゆるしください、皇女」
愛乃はぽかんとして、すぐ前のととのった小づくりの顔立ちをみつめた。
そうすることしかできなかった。
まだ夢だと思っている。
「御手を。お解きいたします」
「…………」
ぼんやりしていると、彼はためらいなく火明かりを口にくわえ、みこの肩をやさしくまわして後ろをむかせ、手首の結びをほどいた。
なすがまま、ぶらりと手をさげ、愛乃はふたたび彼とむき合い、浮いてしまった腰をへたりとその場に落とす。
洞の岩と土の上に、毛羽立った布が敷かれているだけだ。彼がやってきたときも、このうろの入り口は見通せなかった。
「おいたわしい……下の者に代わって、お詫び申し上げます」
こたえるべきだろう。そう思い、口をひらいたが、なにもいえなかった。
そら。だって。ほら。ねぇ。
「ずっと、お探ししておりました」
明かしをにぎり、愛乃の思い込みでもなんでもなく、彼、シルヴェンはほほえみかけてくる。
「我らが父の、貴ぶべき皇女。お父上のお望みでございます。どうぞ、ともにいらしてください」
跪いて、目の高さを合わせて、まるでまぶしいみたいに焦がれた目つきをして。
ねえ。
(人違いじゃない?)
もしくは夢だ。
こまったことに、この夢はわりとしつこかった。
もう少しここにいてくれというような中身の、麗しいことばを吐いたあと、シルヴェンは火をしぼってあかりを弱めた。愛乃からちょっと離れて、入り口に近いかたの岩肌へもたれ、すわりこむ。
彼がなにをいったのか、もはやききとれなかった。そういう勢いのきらびやかさだった。
こんな目もくらむような人に傅かれたいなんて、そんな願望はないはずだが。己の潜在意識の産物でないことを祈りつつ、愛乃はただ夢が終わるのを待っている。
人一人の息遣いがふえたほか、藁の焼ける音と迷いこむような風と。かすかにさわさわと、それだけの、ほぼ暗闇のときがつづいていく。
おかしい。
もっと荒唐無稽な、ご都合主義の、急転直下でもいいはずだ。夢なら。夢なのだから。
夢のような彼の出てきたことで、変わったことといえば、手首の枷が外れたこと。
そろりと手首にふれる。傷も痛みもなかった。幅のある布でしばられていたのか。かたかったけれど、彼はわけなく解いていたし、あわてていなければ自ら解けたのかもしれない。
す
……というか、この小ぶりの手。ふっくらした腕、短さ。
逆さの疑いが湧かざるをえない。
(みこなんじゃないの?)
我ながら何だが、やめてほしかった。
(え、その場合、どういう状況これ)
かどわかされたのじゃなかったっけ。
そうだとすれば、シルヴェンは、そのさらった者の仲間なのだ。
いやでも、みこを《ひめみこ》とか呼んでいた。父がどうとか、詫びがどうとか。
みこが並の子でないとは、思い直したばかりだけれど。こんな人にあんな顔させるなんて。
やっぱり人違いじゃなかろうか。
「――シルヴェン」
ぼそりと呼んでみる。思いのほか、みこの声が低かった。
彼は顔をあげ、花が風にゆれるようなうごきをした。ふわと、こころなしか好い香りがする。
「はい」
人生が狂いそうな返事だった。
(――)
ぐらりときたのを立て直すのに、愛乃は数秒、要した。
必死で自分にいいきかせる。いやほんと、マジで、こういうの、もとめてないから!
問題はこの体が本当にみこだった場合だ。
例によって、スチャラカな質問を手近な人にあびせるのが手っ取り早い。
自覚はあるのだ。段々、ひらき直ってきた。大体、この水際立った人の前でなにかをとりつくろおうったって、高がしれている。
くらいし。誰もいないし。
できるかぎりのいいわけを己にしてから、愛乃は問うた。
「ひめみこ、というのは、わたしのこと?」
難しくもないことを、たどたどしくたずねるが、月の君は愛乃のいい終わるのを静かに待って、やわらかくかえした。
「はい。我らが父の皇女」
この声の色っぽさを忘れるために、ひと息ついて、愛乃はまたいう。
「人違いじゃないの?」
「いいえ。我らの貴ぶべき皇女。その珠をお持ちであるのが、たしかなあかしにございます」
――珠。
みおろすと、胸もとに黄色のきらめきがみえた、気がした。
思わず触ってたしかめる。石のかけらのおさまった、まるい金の網。中の石も、ちゃんと、変わりなくここにある。
綾なす紐も。
シルヴェンは、こちらのうごきをみまもっていた。ほぼみえずとも、眼のきらめきが、こちらへ注がれているのがわかる。
「これのこと? これが、あかし?」
「はい」
おごそかに、けれどあくまでやさしく彼は首を縦にふる。
「我らが父、皇女のお父上が、皇女のためつくらせたものにございます」
濃い闇の中で洞穴にはねかえる声は、寝入りのお伽ばなしのようだ。
「御石もて黄金にくるむ、この天地にまたとない珠。皇女をいつくしまれたお父上の、御心のあらわれにございます」
みこの目がみえるといっても周りはくらいし、おそらく夜だし、このまま眠ってもいいなら眠ったらしあわせそうだが。
そこにいる桁違いに貴やかな人が、いかにも重々しい話を始めたのではないかと思うようなそうでもないような。
なんとなく。
(……ヨクの話よりわかりやすい気がする)
なにがちがうのか、これとはいえないけど。
少なくとも、名前はない、体は器だ、鳴物はいかんと繰りかえされるよりはちがう話ができそうだ。
(誘拐犯と?)
どうなってるの。
それでも、きいた。
みこの親のことなんて、初耳だ。
「父上というのは、み――わたしの?」
はい、と、返りがある。
父。てことは、母もいるのか。
そりゃ当たり前かもしれないけれども。しれないけれども。
みこが岩の裂け目や木のまたからうまれたなんてきかされても、おどろかないでいられると思う。
「お父上は皇女を、いつも思いやっておられます。守をはなれたときかれたとき、どれほどおどろき、悩まれたことか。こうして、すこやかなお姿にお目にかかれ……」
そっと息継ぎがきこえた。愛乃はそれにつられて、考えをやめて彼をみやった。
「……御身をまもり、お連れできますこと、栄えあることにうちふるえます」
――めまいがしそうだった。
みこの目がよくみえることが、こんなとき、あだになろうとは。
彼はまぶしげになかば伏せた目を、ほほえみながらこちらへみせている。うっとりしてみえたのは、間違いでもなかったのかもしれない。そんなまなざし、したいのはこっちなのだが。
おぁ、と、おぼえずおかしな声が出そうになって、息を詰めておしとどめる。
(誘拐犯。これが誘拐犯!?)
ひどくない!?
こっちがただしい話だろう、これ!
たとえこれが見せかけだとしても、蓋をあけたらがっつり悪くても、この人にあらがうのには心の強さが、並々ならぬものがいる。
その疲れを思うだけで心が折れそうだ。
(いや……それはさておき)
目をそらして、つとめて頭を冷やそうとしながら、愛乃は考えつづける。
父――どんな人かしらないが、みこの父、その人の使いなのだ、このフワフワキラキラした人は。
恥ずかしくてまともに名前も呼びにくかった。
なんではじめ、呼べたんだろう。呼んでしまったんだろう。
落ち着け、落ち着け。……首周りの上着をかき合わせ、愛乃は布の上から珠に手を添えた。
父親からの贈りもの。そうか。
シルヴェンのいう、ひめみこであることのあかし。
衣をかえたとき、ノヤが手ずからつけかえてくれた。
――……。
シルヴェンがみこの父の使いなら、彼らははたして何者なのだろう?
(もり――)
もりからきたのだ。それはシルヴェンだけでなく、アマンもいっていた。ヨクはもりの者。語り部はみことを讃え、一人でねりあるく。
では、ノヤは?
みこをまもるのを、この身をたもつをつとめとする人。
「――」
闇の中、愛乃は息をとめた。
ヒリリと、か細い虫の音のような響きが、洞の向こうはるか遠く、ひろいところを突き抜けて消えた。
ひくとそちらをみる。
風のくるかた、シルヴェンのやってきたところ。入り口、否。
外だ。
さっとシルヴェンが立ち、風にむかって駆けていく。
やさしい見かけからは思いもよらない速さだった。すぐれた身ごなしで、重さなどないような。
つられたように愛乃も立った。みこの体がかるいので、ちょっと力を入れただけで立ちあがっていた。
吹きこむ風が多くなる。前もみたように、ここも洞の口を何かで塞いでいたらしい。それがとり払われたのだ。
さっと乾いた冷たい流れと、葉と葉の擦れ、木の匂い、虫の鳴く声が飛びこんできた。
森だ。
そういえば森の中でさらわれたのだった。いまが同じ日の夜だとしたら、それほど遠くへきていないのかもしれない。同じ森、邑のそばかも。
シルヴェンのあとを追い、でこぼこしていてすべる道を身軽さだけで走り通すと、闇が僅かに晴れた。音もなくふりこむ星明かりのもと、かぎりなくしぼったともし火が二つ、洞の口に影になって、佇むのはシルヴェンではない。
かぎおぼえがあった。
すんと、鼻から息を吸い、愛乃は顔をしかめる。
しっている――いまは体だけでなく、衣もその匂いになっている。みこをさらった、まさにその者だ。
あのときかいだ邑の匂いは、衣からしていたのだ。
この人は邑の誰かの衣を手にいれ、身につけていたのだ。
それをもう着ていない。
(やられた)
はかられたのだとはっきりわかる。
外はすぐそこだが、うろの口はひどくせまかった。
男は二つのともし火を片手に携え、外をみている。洞穴の出口は人二人がすれちがえるかどうか、男がなかば塞いでいるのですり抜けることはできない。
じれる間もなく、枝葉が騒いで、木々の中からシルヴェンが駆けもどってきた。
火をめあてにまっすぐ男のそばへ。
「すぐ出る。皇女、参りましょう」
星の光に髪とまつげを輝かせ、その眼はひたと愛乃をみた。
射られたように、愛乃は立ちすくむ。
男が火をひとつ足もとに捨てる。シルヴェンが進みきて、みこの手をとった。
白くなめらかなほっそりした手。その手に引かれ、星空の下へつれ出される。
森の夜がうるさい。すさまじく速い足音がこっちへむかってきている。
目の前のきらびやかな絵と、それは、まったくちぐはぐな。
入り口の隅にかがんで、そこに置いていた荷を負った男が、つと、ものすごい速さで森をみかえった。
ざっと音が発ち、低い影がみる間に男に飛びかかった。
男はうなり、しりもちをつきざま、まだ手にあったもうひとつの火を首もとのそれにおしつける。
男の声より低くうなって、けだものが男を蹴り、うしろに飛びのいた。
「――シルヴェン!」
男は腕をおさえて麗しい人をうながす。首を咬まれるすんでのところで防いだらしい。狩るものとにらみ合いながら、ともし火をふって強く焚きつけ、立ちあがり、腰を低く構える。
狼。
愛乃がその強い生きものをみつめていると、ふっとみこの体が浮いた。
「――」
声が出ない。シルヴェンが駆けだす。
つれていかれてしまう。
彼の肩の上、目をあげると、眼前に獣の目がひかった。
「駄目――」
シルヴェンがすらりとまわした肘を前足で蹴って、狼は地におり立った。四足をひろげ、美しい人と差しむかう。
そっとみこをおろし、懐からにぶいものを抜いて、シルヴェンはいまひとたび、けだものを険しくみすえた。
夜の向こうがざわざわとやかましくなる。
男が火をにぎり、あちらから獣を狙っている。愛乃はシルヴェンのうしろに、かくされるようにして、みつめ合ってうごかない獣と彼に息をこらす。
(小さい)
いままで親しんできた、けだものの類いにくらべると。
そんな長閑なことを、ちらと思った。
シルヴェンがおもむろに前かがみに、腰を沈め、俄に右腕をあとへふりきる。
狼が跳ねた。右手がもどるより早い。とそこに、けだものの脇腹辺りへ火がなげつけられる。
跳びかかる勢いのまま、獣が身をよじらせるすきに、シルヴェンが石を放つ。鼻柱を的に飛ぶ石を狼はするどい歯で咬み銜え、石の飛ぶかたへ身をころがして燃えついた火をすり消した。
石を吐き捨て四足で立ち、シルヴェンをにらむ。
さすがというべきか、シルヴェンはすでにちがう得物をにぎっている。
しかし、またとないときを、のがしたのではないかと思えた。
火はもう男の手にない。なにより、遠すぎる。獣はいま森を背にし、愛乃はシルヴェンのうごきを妨げないところにいるのが関の山だ。獣は愛乃にみむきもしない。
ふと、ざわめきが大きくなり、森のうしろがあかあかと照り輝いた。
愛乃はふり仰ぐ。夜空にうすくたなびく雲が茜に染まるほど、くろぐろとした幹の向こうに梢を裂くあかりがみえる。
ゆらめきと、人のざわめき。
シルヴェンが息をのんだ。
愛乃はそちらをかえりみる。狼が跳びあがり、シルヴェンの首にむかってあぎとをひらいたのがみえた。
「待てっ――」
さけぶ。
倒れるシルヴェンの上から、獣は前触れもなく飛びのいた。
なにがおこったのか、ただちにはわからなかった。
かろやかにおり、立ちどまる獣に目をすえ、背中をおこしたシルヴェンが手のものをふりあげようとする。
「駄目!」
愛乃はそれにもさけんだ。そのときだった。
おそろしく速い二足の音が身近にせまって、体が持ちあげられた。
硬い、長い毛皮にふれ、激しい息遣いがこめかみにかかる。
――ノヤ!
堰をきったようにこみあげるものがあったが、またたくすきにみたなつかしい顔が、愛乃よりもっとつらそうだった。
すわっているシルヴェンと、遠巻きにもう一人の男がこちらをうかがっている。狼はシルヴェンをみすえたきり、狙い澄ますかのごとくうごかない。
愛乃は思いきり息を吸った。
「行って」
強く、シルヴェンめがけていう。
シルヴェンが身じろぎ、名残惜しげにこちらを流しみた。
――目に毒だ。
「行ってください。お願い!」
愛乃はまぶたをかたくとざす。目にうつるものに惑わされたくなかった。
うしろの森の中からさらに足音が駆けてきた。かるい、早歩きのような裾さばき。ヨクだ。
人声もやがて近づいてくる。それらに後押しされたか、シルヴェンはすくと立ち、男と目を交わして、洞穴わきの木立へ身をまぎらせた。
ほぼ入れ違いにヨクが森からあらわれ、二人の消えたかたをみおくって、いささかあがった息をととのえる。
「――。お変わりないですか」
あっさりした声に問われると、何かが崩れたように、みえるものすべてが滲んだ。
ノヤの肩の上に、木の幹を真っ黒に刻み、声をあげて近寄ってくるおびただしい松明が浮かぶ。
「アマンが邑をあげてさがさせたのですよ」
なんという、炎の数だろう。
あきれるばかりで、愛乃はなにもこたえられなかった。
ヨクは小さく息をつき、もうまったくいつも通りの息の速さで、片手ににぎった杖の先を森のかたへ差しおろした。
「もどりますぞ、アイ」
――そう呼ぶ声は初めてのことで。
やっぱり、夢かなと。
一周まわってご都合主義かもしれない、と、愛乃はすっかり酸欠になった頭で考えた。




