12 至善の友
日の沈むまで、みこは愛乃をかえしてくれなかった。
その晩、もどってきてからも、愛乃は私室のベッドに長いことつっぷしていた。
(もうやだ)
何度も、頭の中で繰りかえす。
水曜だった。水曜の夕方を、あちらの世界でくらしてしまった。
週の中で、一番貴重な数時間なのに。
それに、もっと嫌なのは、みこに時間を持っていかれたことではない。
忘れていた。
ヨクの話に魂消たとはいえ。その内容がショックだったからとはいえ。いいわけでもなんでもない。
あちらの世界につりこまれて、自分の大事なことを忘れたのだ。
有り体にいえば自己嫌悪である。
あーもう、死にそう、もうやだ、死にたい、むしろやめろと、思いつくだけ同じようなネガティブなことばをならべる。そうしながら、頭の一方では、ずっとヨクの語ったことばを反芻している。
思うたび、無理だろう、と思う。
スケールがちがいすぎる。愛乃の一存では、どうにもできない。
みこの身の安全も、そのおきどころも。
こんなときに、みこはうんともすんともいわない。呼んでもきやしない。通常運転だけれど。
みこの父の――シルヴェンの方の生活は、多分、愛乃の、現代のやりかたに通じるものだ。
それをヨクが疎んじている。毛嫌いしているようだったのは、それはもう、なにも、謝ることすらはばかられるけど。
でも、いわゆる《もり》の方も、よくわからないのだ。
オイナというのが、みこのお母さんで、神殿の偉い人なのだろう。
その人が侵入者に子をうまされた(という話だと思う)のだが、うまれた子の父親は誰だろうと構わないし、その子は次期偉い人候補だという。
それでもって、侵入者がもう一度やってきて、今度は神殿を征服しようとした。
みこの母はその対策として、次期偉い人候補でもある、自分の子を川に流した……?
意味わかんない、と口の中でつぶやく。
神殿をまもるためとはいえ、実の子を放逐するか?
もともとのぞまぬ子だったから、機をえて追い払ったみたいに思える。
父親だって、誰か問わないなんていわれて、しかも、もりの近くにすむことすらできない人だというのだ。
(そりゃお父さん腹立つんじゃないかな)
――と、思っていいのだろうか。
レイプ犯かもしれない人に?
あぁ、もう。
一度、寝返りを打ち、愛乃はもう一回ころがってうつ伏せにもどった。
(…………先輩に会いたい)
涼時に会いたかった。会って、あのすずしげな無表情と穏やかな態度に接して、このくしゃくしゃした気持ちと頭を整理したかった。
せめて、みこの高慢ちきで能天気な声でもきこえれば、まだしも鬱憤の晴らしどころがみつかるのに。
涼時なら、どういうだろう……。
不意に、そう思ったが。
なにからどう説明するの。譬え話でも、きいた話にしてもむちゃだ。
土台、必要条件がはちゃめちゃすぎる。一部の話題は内容的に気まずい。それをのり越えて意見をもとめるなんて。
夢物語だ。
夢だったらいいのに。夢くらいのはずなのになあと、ぼんやり思って仰向けになると、何が原因か、目の端に涙が少々、滲んでいた。
◇
きのうのもろもろのごたごたで、その日の昼前も、何にも身が入らなかった。
教室の窓の外をながめようとしたとき、なにと思う間もなく、匂いがかわった。
くらいが、ひろい。あちらにきたのだ、と、作文として添削されれば一発で直されそうなことを思う。
入り口からアマンが入ってきて、この前、宴をした広間に、昼の光を遮った薄明るいところにいるのだとわかった。
広間のそこかしこに大人たちがいる。男も女も問わず、歳のころは高めのようだ。宴でみかけなかった顔ぶれには、女が多い。
左にはノヤと、右にはヨクがすわっている。それだけで心強いといえば、まあ、そうではあるけれど。
アマンがまっすぐ窓のそばまであるいてきて、小さな腰掛けに腰をおろした。
愛乃たち三人と、まともにむき合う。
何だろう。
(お白洲的な)
公開裁判だろうか。
きのうは長いこと、話し合っていたようだったから。
火があれほど尊ばれるところなら、アマンが夜の森を松明で照らしたのは、かなり思いきったやりかただったのじゃないか。
それにしても、ここで入れ替わるとは。あの小娘、みこめ、己のやりたくないことを愛乃におしつけまくっているだけなんじゃ。おなかの重さからして、朝起きてすでに飲み食いし、ほどよく満ち足りたあとだとしれる。
(大体、一度でも、アマンとまともに話したの?)
アマン登場のタイミングでこっちにくることが多すぎるような。
そこまで考えて、愛乃ははたと体の力を抜いた。
もう疑いつかれた。考えたくなかった。
窓からの光を背にしたアマンの顔色をうかがうと、心のゆとりこそあれ、人をさばくようないかめしさなど思わせない。
なんでみこがアマンを避けるのか(いや濡れ衣かもしれないけど)よくわからなかった。
アマンはやや身をのり出し、こちらだけでなく広間の大人たちもみまわして、口もとに笑みをはく。
「アイ。――よく戻った」
まっすぐ声をかけられ、愛乃は目の前がチカチカするようだった。
何とこたえていいかわからず、ただ頷き、おもてを伏せる(あなた、この子に嫌われてるかもですよとはいえない)。
こころえたもので、ヨクが折よく返りごとをした。
「このたびは手数をかけました。この上、長居にはおよびませぬ。きょうにもたちます」
あ、そういう流れか。
うつむきついでにみこの身をみおろしてみると、干すなり洗うなりしてもらった、もともと着ていた服にもどっている。
洗いものに食べもの、寝るところ……そこまでしてもらって、果てには迷子捜しまで。
それに見合うものを、愛乃は――(みこでいいんだけど)かえせただろうか。
そろりと、隣のヨクを目だけでみあげた。
ヨクは、娘たちの誘いにのったり、ノヤはノヤで蓬あつめを手伝っていたようだけれど……。
ここでも歌うか歌うまいか、愛乃がめまぐるしく思い悩んでいると、アマンの深いよく通る声が告げた。
「そうか。惜しいが、留めはしない。よくいてくれた」
「おそれいります」
……おそれいります、ときた。
ヨクの白々しさに磨きがかかっていく。ことさら、愛乃にそうきこえるだけかもしれないが。
「ときに、アイ」
「はぃっ!?」
まるでひとごとにしていたので、壊れたおもちゃみたいな声が出た。
アマンはにやりと笑う。
「お前に、ひとつ、おくりたいものがある」
「は、えぇ、え……?」
アマンの笑みが怖かった。どうしよう、歌うための台とか出てきたら。それともあの高殿から飛びおりる見世物とかもとめられるのかな。
前の夜の惑いが尾を引き、思うことがしっちゃかめっちゃかである。
「さあ。いま発つというなら、それこそ長居にはおよばない」
その場の皆に呼びかけるようにして、アマンは真っ先に立ちあがった。あるきながら愛乃に目配せし、まごつく愛乃に手招きまでする。
ついていかざるをえなかった。
屋根の下から出ると、みわたすかぎり澄みきったひろい空に、乾いた、強い、大きな風が吹き抜けていた。
家々にぶつかり、弱まりながら、地の上にも吹いている、風がさまざまの匂いを運んでくる。
そのうちの一つに、頭の片隅が引っかかった。
なんだっけ、と、思ったかどうか。
広間の戸口の、真ん前のまっすぐのところ。ひらけて草の刈られた土の上に、愛乃の目ならみはるかすほど離れて、薄黒いけものが立っている。みこの目はそれをたちどころにみる。
まろい、きらめくふたつの瞳と目が合う。
「あれだ」
横に立つアマンがいった。
日の光の下でみると、さらに小柄に思えた。あの夜、いきなりあらわれ、みこをたすけたあの獣。
狼である。
愛乃はアマンをみあげた。
「いいの?」
なれなれしくきいてしまった。ああ、と、アマンが笑みをみせる。
嬉しい。
愛乃はゆっくりすすみ、しゃがみこんで両手のひらを彼に差しだした。
狼はこっちをみすえ、息をころすように静かにあるいてきて、みこの手に背をなでさせてくれる。
青みがかった褪せた黒の毛並みが、埃にまみれ、それでもゆたかだった。
可愛い。
「……おどろいたな。誰にもなつかないんだ、一人を除いて」
え、といって、愛乃はアマンを仰ぐ。みこが獣に好かれる子でよかったとしか、思わなかったが。
「一人?」
「童のひろいものなんだよ。ほら」
アマンが顎をしゃくったかたをみやると、広間のそばにしげった大きな木の陰からこどもが走り出た。
「あっ」
――という間に走り去ってしまう。
邑にくる前、会ったあの子だ。
あの子の匂いだ。
ひと息に思い出がつながった。
あの童が山の麓からこっちをみていたとき、かぎなれない匂いをおぼえた。それは、この狼の匂いだったのだ。
アマンをふりむき問う。
「あの、あの子は?」
「みなしごでね、もとはここをはるかくだった、洋の端の生まれらしい。二年前の嵐で河をさかしまに流れてきた」
なんでもないようにアマンは話すが、愛乃にはいたく重い話だった。
「誰にも口をきかない。名もしらない。われらはただ、カヨウと呼んでいる」
「カヨウ」
「あの子がやるというんだ。もらってくれ」
――いいのだろうか。
童の消えたかたをながめていると、狼がするりと身をよせてきた。
ぬくもりと毛並みがいとしい。
そうだな、と、アマンがあかるくいった。
「名をつけるといい。カヨウはあの通り、話さないから、呼び名がないだろう」
おお、と愛乃は頷く。それはいい。
「名を伝えておく。なににする?」
アマンがやさしく声をふらす下で、ぱっと、けものと目が合うと、愛乃は眉をひそめた。
(あれっ――)
やってしまった。
なにもしていないけど。
この、まるい、光に満ちた眼。少しまなじりのきれあがった、ちょっと色のうすい、みるものすべてに食いいりそうな目つき。
とても似ている。
「六連……」
「シュヴァル?」
アマンが繰りかえす。愛乃はあわてて首を横にふった。
愛乃のいったことと、アマンからきこえることがちがう。
「すばるです」
「シュヴァルだろう? いい名だ。カヨウにいっておくよ」
「いや、すば――」
あれ?
繰りかえすうちに、愛乃にもわからなくなってきた。みこの口で、すばる、といっているつもりでも、その通りひびいているかどうかがわからない。
狼をみおろし、愛乃はこまって、首をかしげた。
「シュヴァル」
呼んでみると、頷くかわりに、けものは愛乃をみあげ、その場に腰をすえた。
こうなったらもう、シュヴァルでいいや……少なくとも、六連を呼んでいる気分にはならなそうだし。
「きまりましたか」
広間の戸口近くにいたヨクが、アマンへとも愛乃へともつかず、声をかけてくる。
「それでは、参ります。また、お目にかかれましたら」
ヨクのこころない別れのことばを、アマンは懐もひろく受けとめた。
「ああ。また来るのを楽しみにしている」
ノヤが傍にきて、愛乃は思わずその毛皮の裾をつかんだ。先に立つヨクのあとについていこうとすると、シュヴァルが音もなく立ってヨクのさらに先に立つ。
……うまくやっていけるんだろうか、ここは。
ヨクと獣の絶妙な距離感が不安をかきたてた。
「アイ」
アマンに呼ばれ、愛乃はふりかえる。
アマンは邑の人々の中で、誰よりも前に立って、もりの話をしたときのような、打ち解けた微笑みをした。
「シュヴァルをよろしくたのむ。――またな」
愛乃は目をみはり、口をひらきかけ、ついに、なにもいわずに首を縦にふった。




