13 夢
邑を出るのを待たず、愛乃は教室に引きもどされた。
(――……)
まだ数学の授業中だ。
テスト範囲はもうじき終わるというのに、授業内容は容赦なくすすんでいく。黒板の様子からも、現在の時刻からしても、まさに佳境だ。高校数学のテキストほど説明不足なものもない、と愛乃は思った。
要するに、さっぱりわからない。
追いつくとか追いつけないとかいうレベルじゃなかった。
(やばい)
みこ。みこは普段どうしているんだろう。
あ、強制服従で安心漫然か。最悪だ。
「じゃあ次――」
教師が声をはる。ここにきて気づいたが、いま黒板に出て問題を解いているのは、愛乃のうしろの席の生徒だった。
席順に当てられているとしたらまずい。当たったあとか当たる前か。
どっち!?
(逆で!!)
「問、五。矢木沢さん」
終わった。
前から後ろの流れなら勝機はあったのに……。
勝ち負けの問題じゃないけれど。解いて、と、教師に呼ばれ、愛乃は返事をして席を立った。ノートとテキストをみくらべる。みおぼえはありそうだけども。
解けそうにみせかけて、意外とあさっての方向から攻めこむやりかたをしっていないと結局解けないのが数学だ、という苦手意識が先行しているので、考えるのに労力が要った。
とりあえず黒板前に出て、チョークをつまむ。
「これ」
頭の中で幼女の声がした。
チョークをとり落とす。教壇に落とすとちらかるところだったが、ぎりぎり、チョーク置きのところに引っかかってくれた。
(みこ!?)
「いたっ――」
無意識に声をもらした。
はっとして辺りをみると、教卓から怪訝そうに教師がふりかえっている。
「どうした」
「いえ、あの」
いま声はしない。きこえないが、頭の中、みこがまだそこにいることはわかる。
オート服従機能は効果を発揮していなかった。
咄嗟に、愛乃は頭をおさえた。白い粉がつかないよう、チョークに触った右手へテキストを持ちかえてから、左手で。
「いた――いたたた。頭が痛いんです」
「小学生か」
「保健室いってきていいですか」
窓ぎわの席では六連が爛々とした好奇の目をこちらへよこし、中ほどではユミが早速、呼吸困難ぐらいの笑いに襲われ机に伏せている。
教師と数秒、視線を合わせ、教師は変な風に顔をゆがめた。
「いってきなさい」
「すみません」
愛乃はかるく頭をさげ、席にもどってテキストをおいて、教室を小走りに出た。
…………思いかえすと、ほんとに頭が痛い。
どこか適当なところに移動しようと思った。
(みこ)
「うむ。よくもどったの」
ちっとも変わっていない、すかぽんたんな声がきこえてきた。
(~~みこー!!)
なにから怒ればいいやら。
一階の渡り廊下の途中で外に出ると、グラウンドの生徒たちから丸見えだった。急いで廊下にもどる。
(なんでいまなのよ! ときと場所を選びなさいよ!)
「其方はいつもかわらん。えらぶことなどないではないか」
かわるわ、ばか、と思う。おかげでとんだ道化を演じてしまった。あんな、ほとんど素で。
(いままでどうしてたの。なんで出てきたのよ)
昇降口へ足をむける。外は日差しに照らされ、汗ばむような陽気である。
「そろそろぴあのをきこうと思うての」
ガン、と、おぼえず威勢よくふりあげた左手を、愛乃は下駄箱にしたたか打った。
大事な手が……。
人気がないのはいいものの、居心地がいい場所でもない。
自販機のそばで、愛乃はガラス扉のふちによりかかった。
色々考えて、最優先事項から始めることにする。
(丁度よかった、みこ、もうすぐテストなのよ。しばらくそっちに呼ばないでちょうだい)
「てすと、あのひらか。それより鳴物はないのか」
(きいて。人の話を)
どやどやと人声が近づいてくる。愛乃はぎょっとして外をみた。ジャージを着た他のクラスがもどってきている。
ここもだめだ。廊下に駆けもどり、あてもなく特別教室棟をさまよい始めた。
唐突に、みこの注意が上の階へそれたのが、なぜだかわかった。
ああ……。
「鳴物じゃ」
音楽室だ。
あきれとあきらめが、同時に同じ比重でかかってくる。
愛乃は額をおさえ、盛大に溜め息をついた。
(そりゃ……行く?)
「うむ」
もうすぐ二時間目も終わりだ。音楽室の生徒たちも、すぐいれかわるだろうけど、うまくいけば数分くらいピアノに触れるかもしれない。
階段をのぼりながら、調子を合わせるように、たずねてみる。
(ところで、みこ、いまみこの体はなにしてるの?)
「ノヤにまかせておる」
何の変哲もないこたえが、単純明快にかえってきただけだった。
◇ ◇ ◇
黒い毛皮の上で、娘は目をさました。
「御子さま」
頭をもたげるより早く、そばでみちびくかたりべが声をかけてくる。
娘は目をひらききらぬまま、天地すべてのものいうもの、ものいわぬものが、風になぶられる音をきいた。
「……夢をみていた」
かたりべは唇をとざし、まぶたを伏せ、耳を澄ます。みことをきくをまねるごとく。
「飢えも、渇きも、争いも罷る恐れもない。それに、女が鳴物をひく」
うすく笑みかけると、かたりべは目をみひらいた。
「みことなきくにじゃ」




