7
部屋に戻ったクレールは、ベッドに横になった。
体が、鉛のように重かった。
フィリップの言葉が、頭の中で繰り返される。
「君自身には興味がなかった」
「君は信じやすいから」
「簡単な任務だった」
——けれど。
レオナールの言葉も、同時に蘇った。
「騙されたのは、お前が人を信じようとしたからだ」
「それは悪いことじゃない」
「俺にはできないことだ」
(あの人は……どういうつもりで、あんなことを言ったのだろう)
分からなかった。
けれど——
胸の奥の冷たさが、少しだけ和らいだ気がした。
第八章 母の形見
翌朝、クレールはレオナールに呼ばれた。
「話がある」
執務室ではなく、彼の私室だった。招かれるのは、初めてだった。
部屋は、執務室よりもさらに質素だった。必要最小限の家具。装飾はほとんどない。ただ、窓際の棚に——
一輪の花が、飾られていた。
ドライフラワーだ。青い、小さな花。よく見ると——
「セイヨウオトギリソウ……?」
クレールは、思わず声を上げた。
「そうだ」
レオナールは、窓際に立っていた。その横顔は、いつもより——穏やかに見えた。
「座れ」
クレールは、勧められた椅子に座った。
「温室のことを、話す」
レオナールの声は、静かだった。
「あの温室は——俺の母が作ったものだ」
クレールは、息を呑んだ。
「お母様……」
「母は、薬草学者だった。お前と同じように」
レオナールの目が、遠くを見つめていた。
「俺が子供の頃、母はいつも温室にいた。薬草を育て、薬を作り、領民を助けていた。お前がしているのと、同じことを」
クレールは、言葉を失った。
あの温室が——公爵の母のものだったとは。
「母は、俺が十歳の時に病死した」
レオナールの手が、袖口のボタンに触れた。
「このボタンは、母の形見だ。母が愛用していた服から、切り取った」
「……」
「父は、母の死後すぐに再婚した。そして、母の痕跡をすべて消した。母の服も、本も、道具も——すべて処分された」
レオナールの声に、かすかな震えがあった。
「温室だけが、残った。父は、取り壊そうとした。けれど、俺が——」
言葉が、途切れた。
「泣いて、頼んだ。あれだけは残してくれと」
クレールは、夫を見つめた。
この人にも、そんな過去があったのか。
「父は、渋々承諾した。けれど、温室に入ることは禁じられた。誰も手入れをせず、放置された」
「だから、あの温室は……」
「ああ。俺は、母の形見を守ることしかできなかった。自分で薬草を育てることなど、できなかった」
レオナールは、ようやくクレールの方を見た。
「そこに、お前が来た」
その目には——何か、深い感情が滲んでいた。
「お前は、俺が守ることしかできなかった温室を蘇らせた。母と同じ薬草を育て、母と同じように領民を助けた」
「……」
「俺は——複雑だった」
レオナールの声が、わずかに震えた。
「母を奪われたような気がした。同時に、母が蘇ったような気もした」
「だから、私を避けていたのですか」
「……ああ」
レオナールは、小さく頷いた。
「お前に近づくのが、怖かった。母のことを思い出すのが、怖かった」
沈黙が落ちた。
クレールは、立ち上がった。
「……あなたのお母様の研究を、継ぎたい」
静かに、けれど——確かな声で言った。
「私の研究ではなく——お母様の研究として、完成させたい」
レオナールは、クレールを見つめた。
「……いいのか」
「はい」
クレールは、微笑んだ。
「私は、お母様のおかげでここにいる。この温室が、お母様のものだからこそ、私は居場所を見つけられた」
「……」
「だから、完成させたい。お母様のために。あなたのために。そして——私自身のために」
レオナールは、何も言わなかった。
けれど、その目には——初めて見る、温かさがあった。
「……頼む」
短い言葉。
けれど、その声には——感謝が、込められていた。
第九章 決着と新たな関係
一週間後。
フィリップは、国境付近で捕らえられた。
レオナールの部下たちが、逃走経路を先回りして待ち伏せしていたのだ。
「やれやれ」
捕らえられたフィリップは、苦笑した。
「まさか、本当に捕まるとはね」
クレールは、フィリップの前に立った。
「……一つ、聞きたいことがあります」
「何かな、先生」
「あなたは、私の研究を『素晴らしい』と言いました。あれは、嘘でしたか?」
フィリップは、少し考えた。
そして——
「……半分は、本当だよ」
その声は、いつもの冷たさとは——少し違っていた。
「君の研究は、本当に価値がある。それは嘘じゃない」
「……」
「ただ——君自身に興味がなかったのは、本当だ。僕には、そういう感情がないから」
フィリップは、肩をすくめた。
「だから、気にしなくていい。君は悪くない。僕が、そういう人間だっただけだ」
クレールは、黙って聞いていた。
「一つだけ、言っておくよ」
フィリップは、クレールを見た。
「君の夫——公爵殿下は、君を見ていた。僕が君に近づいた時から、ずっと」
「……」
「僕が監視されていたのは、君に近づいたからだ。公爵殿下は、君を守ろうとしていたんだよ」
その言葉に、クレールは目を見開いた。
「君は、愛されているよ。認めたくないかもしれないけど」
フィリップは、小さく笑った。
「僕みたいな人間には、一生分からない感覚だろうけどね」
フィリップが連行された後。
クレールは、温室に戻った。
入り口に、レオナールが立っていた。
「……終わったか」
「はい」
沈黙が落ちた。
レオナールは、何か言いたげに——けれど、言葉を探しているようだった。
「……茶を」
「え?」
「茶を、淹れた。飲むか」
クレールは、目を丸くした。
この人が、茶を?
「いただきます」
二人で、温室のベンチに座った。
レオナールが淹れた茶は——正直、あまり上手ではなかった。少し濃すぎる。けれど、温かかった。
「……君がいないと、困る」
レオナールが、ぽつりと言った。
「温室が——いや、俺が。困る」
不器用な言葉。
けれど、その声には——確かな温かさがあった。
クレールは、少し考えてから——
「あなたも、悪くないわね」
そう答えた。
レオナールは、一瞬驚いた顔をして——
そして、小さく笑った。
「……変わった女だ」
「よく言われます」
「褒めている」
「分かっています」
会話が途切れた。けれど、不思議と——心地よかった。




