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温室の外から、声が聞こえた。
「温室の魔女様、万歳!」
「公爵様、万歳!」
領民たちが、集まっていた。
クレールの研究——レオナールの母の研究を継いだ薬は、ついに完成した。風土病だけでなく、多くの病に効く万能薬。それが、公国を救った。
「……賑やかだな」
レオナールは、少し困ったような顔をした。
「慣れていないのですか? 領民に慕われるのは」
「……母が生きていた頃は、こうだった。母の死後は——」
言葉が、途切れた。
けれど、クレールには分かった。
母を失ってから、この人は——孤独だったのだ。
「これからは、違いますよ」
クレールは、静かに言った。
「私は、ここにいます。温室も、蘇りました。お母様の研究も、続いていく」
レオナールは、クレールを見た。
「……ああ」
その声は、いつもより——柔らかかった。
「そうだな」
恋愛ではない。告白もない。ただ、確かな信頼で結ばれた二人。
クレールは相変わらず温室に没頭し、レオナールは時々茶を差し入れに来る。茶の腕前は、少しずつ上達している。
「……ねえ」
ある日、クレールがふと言った。
「何だ」
「あなた、いつから私を見ていたの?」
レオナールは、少し考えてから——
「……袖口に土がついていた時からだ」
「え?」
「結婚式の時。礼服の袖口に、土がついていた」
クレールは、目を丸くした。
あの時の自分を、覚えているのか。
「……気づいていたんですか」
「変わった女だと思った。泣きもせず、怒りもせず——淡々と、自分の居場所を探しているように見えた」
「……」
「母と、同じだと思った」
レオナールの声が、わずかに震えた。
「だから——目が離せなくなった」
クレールは、言葉を失った。
そして——
「……ありがとうございます」
小さく、呟いた。
「何がだ」
「私を、見ていてくれて」
レオナールは、何も言わなかった。
ただ、袖口のボタン——母の形見——に、そっと触れた。
***
温室に、午後の光が差し込んでいる。
棚には、青々とした薬草が並んでいる。セイヨウオトギリソウ、エキナセア、カモミール——
かつて、ここで薬草を育てていた女性がいた。
その息子は、母の形見を守ることしかできなかった。
そして今——
新しい「温室の魔女」が、その研究を継いでいる。
クレールは、薬草に水をやりながら、ふと窓の外を見た。
本館の二階。執務室の窓に、人影が見える。
レオナールだ。
目が合った。
クレールは、小さく手を振った。
レオナールは——何も反応しなかった。
けれど、窓から離れなかった。ただ、じっと見ていた。
「……変な人」
クレールは、小さく笑った。
けれど、その笑顔は——温かかった。
「クレール」
温室の入り口から、レオナールの声がした。
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「夕食の時間だ」
「……今行きます」
クレールは、薬草から手を離した。
温室を出る時、振り返った。
棚の上に、レオナールの母が育てていたセイヨウオトギリソウが、青い花を咲かせていた。
「……お義母様」
小さく、呟いた。
「あなたの息子を、よろしくお願いします」
風が吹いて、花が揺れた。
まるで、頷いているようだった。
クレールは、温室の扉を閉めた。
夕暮れの光の中、夫が待っている。
「遅い」
「ごめんなさい」
「……待っていた」
その言葉に、クレールは少し驚いた。
「待っていてくれたんですか?」
「当たり前だ」
レオナールは、ぶっきらぼうに言った。
「夫婦だろう」
クレールは——思わず、笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いえ……あなた、変わりましたね」
「変わっていない」
「変わりました。以前は、『好きにしろ』しか言わなかったのに」
レオナールは、少し困ったような顔をした。
「……お前のせいだ」
「私のせい?」
「お前が——温室にいるから」
言葉が、途切れた。
けれど、その先は——言わなくても分かった。
クレールは、静かに微笑んだ。
「行きましょう、夕食に」
「ああ」
二人は、並んで歩き出した。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。
温室の方から、花の香りが風に乗って漂ってきた。
セイヨウオトギリソウの、甘い香り。
それは——母から息子へ、そして新しい「温室の魔女」へと受け継がれた、命の香りだった。




