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温室に案内すると、フィリップは目を輝かせた。
「素晴らしい」
彼は、棚に並ぶ薬草を一つ一つ見て回った。
「これは……セイヨウオトギリソウの変種ですか? この気候で育てるのは難しいはずですが」
「土のペーハーバランスを調整しました。酸性が強すぎると枯れるので、石灰を混ぜて中和しています」
「なるほど!」
フィリップは、まるで子供のように声を上げた。
「先生、あなたは独学でこれを?」
「……先生?」
「ええ、先生とお呼びしてもいいですか? あなたは立派な研究者です。僕などより、ずっと」
クレールの頬が、わずかに熱くなった。
眼鏡を押し上げて、視線を逸らした。
「研究者」と呼ばれたのは、祖母以外では初めてだった。
「……好きに呼んでください」
「では、先生」
フィリップは、真剣な顔になった。
「僕に、この研究を教えていただけませんか?」
「教える?」
「僕は医師ですが、薬草学の知識は浅いのです。先生の調合法を学べれば、もっと多くの人を救えるかもしれない」
その言葉に、クレールは迷った。
自分の知識を、他人に教える——そんなことは、考えたこともなかった。
けれど、フィリップの目には——純粋な熱意があるように見えた。
(この人は、本当に学びたいのだ)
「……分かりました。教えられることは、教えます」
フィリップは、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先生!」
その笑顔は、太陽のように眩しかった。
***
その日から、フィリップは頻繁に温室を訪れるようになった。
医師団の視察は一週間の予定だったが、フィリップは「研究のため」と言って、滞在を延長した。
二人は、毎日のように薬草について語り合った。
「先生、この配合の意図は何ですか?」
「セイヨウオトギリソウは、単体だと効きが強すぎる。カモミールで和らげることで、副作用を減らしているの」
「なるほど……先生の知識は、本当に体系的ですね」
「祖母から教わっただけよ」
「それでも、独学でここまで発展させたのは先生の力です」
フィリップは、クレールを常に「先生」と呼び、敬意を払った。質問は的確で、理解も早い。教えていて、楽しかった。
「先生は、なぜ薬草学を始めたのですか?」
ある日、フィリップがそう聞いた。
クレールは、少し考えてから答えた。
「……祖母が、薬草学者だったの。小さい頃から、祖母の膝元で学んでいた」
「素敵な思い出ですね」
「ええ。祖母だけが、私を認めてくれた」
口に出してから、言い過ぎたと思った。けれど、フィリップは追及しなかった。
「先生のお祖母様は、きっと素晴らしい方だったのでしょうね」
その言葉は、優しかった。
クレールは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
一方、レオナールは——
執務室の窓から、温室を見下ろしていた。
妻と、見知らぬ青年医師が、楽しそうに話している。妻の顔が、いつもより——明るい。
レオナールは、自分の胸の奥に、何か不快な感覚があることに気づいた。
胸が、ざわつく。落ち着かない。
(何だ、これは)
考えても、分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あの男が、妻の隣で笑っている。
その光景が——どうしても、気に入らなかった。
第五章 嫉妬の芽生えとフィリップの真実
フィリップが滞在を始めて、二週間が過ぎた。
クレールの生活は、大きく変わった。
以前は一人で黙々と研究していたが、今はフィリップという「生徒」がいる。教えることで、自分の知識を整理できた。新しい発見もあった。
「先生、この調合は画期的ですよ」
フィリップは、クレールが作った新しい薬を見て、感嘆の声を上げた。
「風土病だけでなく、他の炎症性の病にも効く可能性がある。これは——」
彼は、目を輝かせた。
「万能薬になるかもしれません」
「大げさよ」
「いいえ、本当です。先生の研究は、国家レベルの価値がある」
クレールは、眼鏡を押し上げた。
「国家レベル」などと言われても、実感が湧かなかった。ただ、目の前の患者を助けたい——それだけで研究を続けてきたのだから。
「先生は、ご自分の価値を分かっていないのですね」
フィリップは、少し寂しそうに言った。
「もっと、自信を持っていいのに」
その言葉に、クレールの頬が熱くなった。
「……そういうことを言う人は、初めてよ」
「そうですか? 僕には、当たり前のことを言っているだけなのですが」
フィリップは、にっこりと笑った。
その夜。クレールは、廊下でレオナールと鉢合わせた。
「……奥様」
レオナールは、いつもの冷たい声で呼んだ。しかし、何か——違和感があった。
「はい?」
「研究は、順調か」
その質問に、クレールは少し驚いた。夫が、自分の研究に興味を示すのは珍しかった。
「……はい、順調です。フィリップさんが熱心な生徒なので」
「そうか」
沈黙が落ちた。
レオナールは、何か言いたげに——しかし、言葉を探しているようだった。
「……あの男は、信用できるのか」
唐突な質問だった。
「え?」
「フィリップ・ラヴェルヌ。お前は、あの男を信用しているのか」
クレールは、夫の顔を見た。
表情は、相変わらず読み取れない。けれど、声のトーンが——いつもと違うような気がした。
「信用しています。彼は、真剣に学ぼうとしているから」
「そうか」
レオナールは、それ以上何も言わなかった。
クレールは、首を傾げた。
(夫は、何を気にしているのだろう)
分からなかった。
けれど、何となく——夫がフィリップを気に入っていないことだけは、伝わってきた。
***
数日後の夜。クレールは、温室に忘れ物を取りに戻った。
新しい調合のレシピを書いたノートを、棚の上に置きっぱなしにしていた。明日の朝でもいいのだが、気になって眠れなかった。
温室に近づくと——
声が聞こえた。
フィリップの声だ。
クレールは、足を止めた。
「……ああ、予定通りだ。彼女は完全に信用している」
心臓が、冷たくなった。
「調合法の核心部分も、もうすぐ聞き出せる。……ああ、問題ない。彼女は単純だからな」
クレールは、息を殺した。
彼女——それは、自分のことだろうか。
「報告は、来週までに。……分かっている」
足音が近づいてくる。
クレールは、咄嗟に物陰に隠れた。心臓が、早鐘を打っていた。
フィリップが、温室の裏から出てきた。
その顔には——いつもの笑顔はなかった。
冷たく、無表情。まるで、別人のようだった。
しかし、クレールの隠れている方向を見て——
一瞬で、あの人懐っこい笑顔に戻った。
「あれ? 先生、こんな時間にどうされたのですか?」
「……忘れ物を」
「そうですか。では、僕がお持ちしましょうか」
「いえ、大丈夫です」
クレールは、何とか平静を装って答えた。
けれど、手が——わずかに震えていた。
部屋に戻ったクレールは、ベッドに座り込んだ。
頭の中で、フィリップの言葉がぐるぐると回っていた。
「彼女は完全に信用している」
「調合法を聞き出せる」
「彼女は単純だからな」
(私は……利用されていたのか?)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
実家での記憶が、蘇った。
「お前は役立たずだ」——父の声。
「姉さんたちを見習いなさい」——母の声。
「変わり者のクレール」——姉たちの嘲笑。
そして、結婚が決まった時の父の言葉。
「やっと、お前も役に立つな。公爵との縁組に使える」——
いつも、そうだった。
クレール自身に価値があるのではない。クレールが持っているもの——血筋、知識、縁組の価値——それだけが、人に求められるものだった。
(また、だ)
また、私は「利用される道具」でしかなかったのか。
フィリップの笑顔が、脳裏に浮かんだ。
あの笑顔は、嘘だったのか。
「先生」と呼んでくれた声は、演技だったのか。
「もっと自信を持っていい」——あの言葉も?
クレールは、膝を抱えた。
涙は、出なかった。
ただ、胸の奥が——ひどく冷たかった。




