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第三章 「温室の魔女」の誕生
それは、雨の日のことだった。
クレールは温室で、新しい薬の調合を試していた。セイヨウオトギリソウの煎じ汁に、蜂蜜とカモミールを加える。比率を変えながら、効能の変化を観察する。
窓を打つ雨音が、心地よかった。温室の中は、土と緑の匂いに満ちている。
「奥様!」
突然、温室の扉が開いて、使用人が駆け込んできた。
「何?」
「門前に、領民の方がいらしていまして——奥様にお会いしたいと——」
「領民が、私に?」
クレールは、首を傾げた。自分に会いたい領民がいるとは、思いもしなかった。
門前に出ると、雨の中で若い女性が立っていた。
貧しい身なりだった。擦り切れたスカート、泥だらけの靴。そして、腕の中には——
幼い子供を抱いていた。
子供は、苦しそうに息をしていた。顔は赤く、明らかに高熱を出している。小さな体が、ぐったりと母親の腕に垂れていた。
「奥様……お願いです……」
母親は、泣きながら言った。
「うちの子が、熱を出して……村の薬師は何もできないと……でも、温室の魔女様なら、何とかしてくれるって……」
「温室の、魔女?」
クレールは、初めて聞く呼び名に戸惑った。
「はい。奥様が、温室で不思議な草を育てていて、万病を治す薬を作っているって……町中で噂になっているんです……」
(噂が、広まっていたのか)
クレールは、子供の様子を観察した。
高熱。発疹。咳。呼吸が荒い。
(この症状は——)
脳裏に、祖母の言葉が蘇った。
『この地方には、独特の風土病がある。放置すれば命に関わるが、適切な薬草があれば治る』
「中に入って」
クレールは、迷わず母子を温室に案内した。
温室の中で、クレールは手早く薬を調合した。
エキナセアの根を煎じる。火にかけながら、カモミールを加える。蜂蜜で甘みをつけ、飲みやすくする。
「これを飲ませて」
母親に器を渡す。
「苦いかもしれないけれど、我慢させて」
母親は、震える手で子供に薬を飲ませた。子供は、最初は嫌がったが——クレールが静かな声で「大丈夫、すぐ楽になるから」と言うと、おとなしく飲み込んだ。
「三日間、この薬を飲ませて。熱は下がるはず」
クレールは、追加の薬を母親に渡した。
「お金は……」
「いらない」
母親は、涙を流しながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
***
三日後。
母親が、元気になった子供を連れて再び訪れた。
「奥様のおかげで……本当に、ありがとうございます……」
子供は、手に花を持っていた。野に咲く、素朴な花。雑草と呼ばれるようなものだ。けれど、雨に濡れて、きらきらと輝いていた。
「おねえちゃん、ありがとう」
子供は、クレールに花を差し出した。
「……」
クレールは、その花を受け取った。
手が、わずかに震えていた。
「おねえちゃん」と呼ばれたのは、初めてだった。
「どういたしまして」
声が、かすかに震えた。自分でも気づかないほど、小さく。
その噂は、あっという間に広まった。
「温室の魔女様」は、誰でも分け隔てなく診てくれる。お金も取らない。穏やかで、怖くない。
領民が、次々とクレールの元を訪れるようになった。
熱を出した子供。怪我をした農夫。咳が止まらない老人。妊娠中の若い母親。——様々な人が、温室の扉を叩いた。
クレールは、彼ら一人一人を丁寧に診た。
症状を聞き、体の状態を観察し、最適な薬を調合する。重症の場合は、町の医師を紹介した。自分の手に負えないものは、正直に伝えた。
「ありがとうございます、温室の魔女様」
「奥様のおかげで、うちの爺さんが元気になりました」
「本当に、本当にありがとうございます……」
感謝の言葉が、次々と寄せられた。
クレールは、その度に戸惑った。
(私は、ただ薬を作っているだけなのに)
けれど——
嬉しかった。
生まれて初めて、自分が「必要とされている」と感じた。
実家では、「役立たず」「変わり者」と言われ続けた。ここに来てからも、「変わった奥様」と囁かれていることは知っていた。
けれど、領民たちは——
クレールを、「温室の魔女様」と呼んで、慕ってくれた。
その呼び名は、クレールにとって——最高の褒め言葉だった。
***
ある夜のこと。
クレールは、温室で薬の調合をしていた。
窓の外は、すでに暗くなっていた。ランプの光だけが、温室を照らしている。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると——
本館の二階。執務室の窓に、人影が見えた。
レオナールだった。
窓際に立って、温室を見下ろしている。
目が合った——ような気がした。
けれど、距離が遠すぎて、表情は見えなかった。
クレールは、小さく会釈をした。
レオナールは——何も反応しなかった。ただ、じっと見ていた。
しばらくして、人影は窓から消えた。
「……変な人」
クレールは、小さく呟いて、作業に戻った。
夫が自分を見ていた理由など、考えても分からなかった。
きっと、温室が気になっているのだろう。あの温室には、何か「事情」があるとベルナールが言っていた。その「事情」と関係があるのかもしれない。
(いつか話すと言っていた。待てばいい)
クレールは、そう結論づけて、薬の調合に集中した。
夫の視線に、何か特別な意味があるとは——
その時のクレールには、想像もつかなかった。
第四章 青年医師フィリップの登場
その知らせが届いたのは、クレールが温室で薬草の手入れをしている時だった。
「奥様」
ベルナールが、恭しく頭を下げた。
「来週、隣国エルシオール王国から、医師団が視察に参ります。公爵様から、奥様にもご出席いただきたいとのことでございます」
「医師団?」
「はい。両国の医療交流の一環だそうでございます」
クレールは、土で汚れた手を見下ろした。
公式の場。来客への挨拶。公爵夫人としての務め——
「……分かりました」
仕方がない。最低限の体裁は守ると、約束したのだから。
視察の日は、あっという間にやってきた。
クレールは、朝から温室で作業をしていた。新しく植えた苗の様子が気になって、つい時間を忘れてしまった。
「奥様! もうお時間でございます!」
使用人が、悲鳴のような声を上げた。
「え? ……ああ」
慌てて着替えたが、時間が足りなかった。結局、中途半端な正装で大広間に入ることになった。髪は何とかまとめたが、袖口に土がついているのに気づいたのは、広間に入ってからだった。
(まあ、いいか)
今さら戻る時間もない。
レオナールは、すでに広間の中央に立っていた。正装姿は、相変わらず隙がない。クレールの姿を見て——一瞬だけ、その視線が袖口で止まった。
けれど、何も言わなかった。
クレールは、夫の隣に立った。
「医師団を、お迎えいたします」
ベルナールが、荘厳な声で告げた。
扉が開き、数人の男たちが入ってきた。
白衣を纏った、いかにも「医師」という風貌の男たち。どの顔も、堅苦しく、真面目そうだった。
——ただ一人を除いて。
その男は、他の医師たちとは明らかに違っていた。
若い。二十代後半だろうか。明るい茶髪、人懐っこい笑顔。白いシャツに紺のベスト。どこか軽やかで、この堅苦しい場には不似合いなほどだった。
彼は、クレールの方を見た。
そして——微笑んだ。
「お初にお目にかかります、公爵夫人」
他の医師たちが挨拶を終えた後、彼はクレールの前に進み出た。
「フィリップ・ラヴェルヌと申します」
その笑顔は、とても自然だった。
クレールは、無意識に彼の匂いを嗅いでいた。石鹸の清潔な香り。そして——かすかに、薬草の匂い。
(この人は、本当に医療に携わっている人だ)
「お噂はかねがね」
フィリップは続けた。
「『温室の魔女』様の薬草研究、隣国でも話題になっているのですよ」
「隣国でも?」
「ええ。この地方の風土病を、独自の調合で治療していると。医学界でも注目されています」
クレールは、少し驚いた。自分の研究が、そこまで広まっているとは思わなかった。
「もしよろしければ、研究室——温室を拝見させていただけませんか?」
フィリップの目は、純粋な興味に輝いているように見えた。
クレールは、夫を見た。
レオナールは、無表情のまま「好きにしろ」とだけ言った。




