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執務室の前に立つと、クレールは一度深呼吸をした。
ノックする。
「入れ」
低い声が返ってきた。
扉を開けて中に入ると、レオナールは書類から顔を上げずに言った。
「何か用か」
執務室は、想像していたよりも質素だった。大きな机と、書棚と、窓。装飾は最小限。この人は、虚飾を好まないのだろう。
「温室を使いたいのですが、許可をいただけますか」
その言葉に、レオナールの手が止まった。
ペンを持ったまま、微動だにしない。
「……温室?」
「はい。庭園の奥にある、放置されている温室です。薬草を育てたいのです」
沈黙が落ちた。
クレールは、夫の反応を観察した。
レオナールは、ゆっくりと顔を上げた。その表情は——読み取れなかった。冷たいのとも、怒っているのとも違う。何か、複雑なものが一瞬よぎったように見えた。
(この人は、あの温室に何か思い入れがあるのだろうか)
そう思ったが、口には出さなかった。
沈黙が、数秒続いた。
「……好きにしろ」
その声は、いつもより——低かった。
「ありがとうございます」
クレールは、淡々と礼を言って退室した。
扉を閉める瞬間、振り返らなかった。
だから、気づかなかった。
レオナールが、窓の方へ歩み寄り、庭園の奥——温室の方を見下ろしていたことに。
その目が、どこか遠くを見つめていたことに。
袖口のボタンに、無意識に触れていたことに。
***
その日から、クレールは温室に住み着いた。
文字通り、朝から晩まで温室にいた。
まず、枯れた植物を処分した。土を掘り起こし、新しい土を入れた。生き残っていた薬草を丁寧に手当てし、日当たりの良い場所に移動させた。
蔦を払い、ガラスを磨き、棚を修繕した。
使用人たちは、最初は戸惑っていた。公爵夫人が自ら土をいじるなど、前代未聞だったのだろう。けれど、クレールは気にしなかった。
公爵夫人としての務め——食事への出席や、来客への挨拶——は最低限こなした。それ以外の時間は、すべて温室に注いだ。
「奥様、お茶をお持ちしました」
「そこに置いておいて」
「奥様、お着替えの時間でございます」
「後で」
使用人たちは、やがてクレールの生活リズムを理解し、余計な口を挟まなくなった。
それでいい、とクレールは思った。
温室の中で、土に手を埋めている時だけ、クレールは自分が「生きている」と感じられた。
植物は、嘘をつかない。
水をやれば育つ。日に当てれば花を咲かせる。手入れを怠れば枯れる。それだけだ。人間のように、陰口を叩いたり、見下したりしない。
(私には、これがある)
それで、十分だった。
三週間が過ぎた頃、温室は見違えるようになっていた。
ガラスは透明になり、陽光が燦々と降り注いでいた。棚には、青々とした薬草が並んでいる。セイヨウオトギリソウ、エキナセア、カモミール、ペパーミント——
クレールは、新しい苗も植えた。町の市場で種を買い、自分で育てた。
「ふふ」
思わず、笑みがこぼれた。
ここに来て初めて、心から笑った気がした。
「奥様」
温室の入り口から、ベルナールの声がした。
「何?」
「旦那様が、お呼びです」
クレールは、手を止めた。
夫に呼ばれるのは、初めてだった。
***
執務室に入ると、レオナールは窓際に立っていた。
「呼んだのか」
「ああ」
レオナールは振り返り、クレールを見た。
「温室は、順調か」
「はい。おかげさまで」
「そうか」
沈黙が落ちた。
レオナールは、何か言いたげに——しかし、言葉を探しているようだった。
「……あの温室に、何があったか知りたいか」
唐突な質問だった。
クレールは、少し考えてから答えた。
「知りたいです。けれど、あなたが話したくないなら、聞きません」
レオナールの目が、わずかに見開かれた。
「……変わった女だ」
「よく言われます」
「褒めていない」
「分かっています」
会話が途切れた。
けれど、不思議と——気まずくはなかった。
「温室のことは、いずれ話す。今は……まだ、整理がついていない」
「分かりました」
クレールは頷いて、執務室を出た。
廊下を歩きながら、ふと思った。
あの人は、何を「整理」しようとしているのだろう。
温室に、何があったのだろう。
知りたい気持ちはあった。けれど、急かす気はなかった。
人には、話せるようになるまで時間がかかることがある。クレール自身も、そうだ。祖母のことを、まだ誰にも話せていない。
(いつか、話してくれる日が来るかもしれない)
その時まで、待てばいい。
クレールは、温室へ戻った。




