第八話 最初の一曲
布を外して、蓋を開ける。
内側の名前は、きれいに拭かれていた。舞台の灯りの下で、倉橋芙佐子と一字ずつ読める。
ピアノの横に、調律師さんが立っていた。
「名前のところ、拭いておきました」
小さくそれだけ言って、調律師さんは一度うなずいた。
椅子の高さを確かめてから、座る。
弾いたのは、祖母が最初に教えてくれた曲だった。
ホールの後ろの方で、誰かの椅子がきしむ。その小さな音まで聞こえる。
半分ほど来たところで、隅のテーブルが目に入った。
祖母は、杖をテーブルの縁に立てかけていた。両手を膝の上に重ねて、目を閉じている。
その隣で、安西さんが、私の座っていた椅子の背を握っていた。さっきから、ずっと同じ形のまま。
最後の音は、指を離すまで聴いた。
私は椅子から立って、お辞儀はせずに舞台を下りた。テーブルの間を通って隅の席に戻り、祖母の隣に座る。
安西さんが、椅子の背から手を離した。
「おかえり」
拍手が鳴りはじめたのは、そのあとだった。
*
祝賀会が終わると、人の流れが出口へ向かった。
扉の外で、鶴岡社長が父の方へ一歩出た。
「あなた、今日は……」
会長の声に、鶴岡社長は振り向かない。
「鈴木社長、出資の件だけでも、もう一度……」
私は祖母の腕を支えたまま、父の少し後ろにいた。
「鶴岡社長、私は投資の前に人を見ます。ご家庭の躾は、今夜拝見しました」
父はそれだけ言って、振り返らずに歩いていった。
鶴岡社長の後ろに、会長と鶴岡さんが立っている。三人は並んだまま、誰も、誰の顔も見なかった。
*
式典のあとの学年集会で、江藤先生が壇に上がった。
「学校は、新しい奨学金を設けます。対象は、学年の上位3名のうち、特待生である生徒です」
「審査は、毎年行います」
「これまでの学費の免除はそのままに、教材や学校の行事にかかる費用も含めて、学校が定める費用をすべてまかないます」
列のあちこちで、小さな声が起きた。
「名前は、芙佐子奨学金」
江藤先生は、そこで一拍おいた。
「最初の受給者は、1年3組、安西こはるさんです」
「安西さんって、3位の?」
「特待生、あの子だったんだ」
隣で、安西さんが立ち上がった。制服のスカートの裾は、相変わらずほかの子より少し長い。
壇の前まで歩いて、安西さんは深く頭を下げた。顔を上げるまでが、長い。
集会が終わって列が崩れると、安西さんは私の横に戻ってきた。紙袋から丸パンを出して、半分に割る。
「はい」
片方が、私の手のひらにのった。
*
その日の放課後、校門の横に尾形先輩が立っていた。
「君の自宅待機は取り消しで、記録には何も残らないって。武田先生は担任から外れて、理科準備室の担当になる」
「はい」
「鶴岡さんは停学1週間と、クラス全員への書面の謝罪。今日は停学前の面談で来てて、来学期からはほかの学校に移るらしい」
車寄せの方で、車のドアが開いた。ベージュのスーツの会長が降りてくる。
昇降口から出てきた鶴岡さんが、その前で足を止めた。会長は鞄だけを受け取って、娘の顔を見ずに言う。
「公立も悪くないわ。地に足がつくもの」
マイクがなくても、その声は校門まで届いた。
鶴岡さんは返事をしないで、車に乗りこむ。車が出ていくのを待って、尾形先輩が続けた。
「鶴岡さんの家の寄付の約束は取り消しで、銘板はあのまま。時計は、本物は先月から家になくて、腕にしてたのはあの値段には程遠いって噂だよ」
「そうですか」
「来学期も最後列?」
「窓際。ホールが見える」
先輩はうなずいて、そのまま歩いていった。
*
1月、3学期の始業の朝。
玄関で、祖母が弁当箱の包みを持って立っていた。杖は、もう持っていない。
「制服は?」
「古い方。袖がちょうどいい」
祖母はうなずいて、包みを私の手に渡した。
「卵、多めにしといたからね」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
バス停まで歩いて、いつものバスに乗る。
カードの残高は、年末に私が入れておいた。祖母は、そのことを知らない。
学校の前のバス停で、安西さんが待っていた。紙袋の中に、丸パンが二つ。
「おはよう。一個ずつね」
「ありがとう」
二人で、車寄せの横を歩く。黒い車が一台ずつ止まって、運転手がドアを開けていた。
歩道の敷石に、薄緑のタイルが一枚だけ混じっている。そこを踏んで、通りすぎた。
こちらを見る人もいれば、見ない人もいる。
1年3組の窓際の列に、空いた席が一つ。窓の向こうに、新館の屋根が見える。
机の脚の下に、小さくたたんだ紙が挟んであった。
「それ、私が入れといた」
「うん。そうだと思った」
「安西さんの席は?」
「隣。また隣だね」
座っても、机は鳴らなかった。
鞄の持ち手に挟んだカードに、指が触れる。今朝、バスのステップでこれをかざした。
ICカードが、ピッと鳴った。初日と同じ音だった。




