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特待生だと思われて最後列に座らされた私が、三か月後、祖母の名前がついた音楽ホールで最初の一曲を弾くまで  作者: 空の異変


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第七話 ホールの名前

新館のホールには、天井から細い灯りがいくつも下がっていた。正面の壁は、大きな幕で覆われている。


幕の手前に、布をかけたアップライトが一台あった。


「鈴木さん、あれ、準備室の……」


「うん」


入口の受付に、会長が名簿を持って立っていた。横には、ドレスを着た新美さんとクラスの女子が二人。


受付の脇に、白い陶器の鉢植えが一つ置いてある。


「倉橋先生、ようこそいらっしゃいました。どうぞ」


会長は祖母に頭を下げてから、私に向き直った。


「鈴木さん。処分が決まるまで学校行事には出られません」


「安西さんのお宅は協賛なさっていませんよね」


私は招待状を開いて、受付の台に置いた。表の一行と内側の一行を、順に指でさす。


会長はカードを手に取って、二つの行を読んだ。笑い方は、少しも変わらない。


「ご家族とお付き添いなら入れます。隅のテーブルへどうぞ」


入口にいちばん近く、幕からいちばん遠いテーブルだった。名札は置かれていない。


祖母を真ん中にして、私と安西さんが両側に座る。安西さんは、両手を膝にそろえていた。


「ドレス、初めて着た」


「似合ってる」


「お母さんが、隣の仕立て屋さんから借りてきてくれたの。肩、ちょっと余ってるでしょ」


「私も、これは初めて」


白いドレスの鶴岡さんが、こちらへ来た。手首に、あの時計がある。


後ろに、グラスを二つ持った新美さんがついていた。


「待機中なのに、来たの?」


「祖母の招待です」


鶴岡さんの目が、私のドレスの上で止まった。


「古い制服の次は、古いドレス? おばあさんのお下がりでしょう」


「はい」


新美さんが、鶴岡さんの顔を見た。それから、手の中のグラスを傾ける。


オレンジ色のジュースが紺の布に落ちて、膝のあたりから暗い色が広がった。


安西さんが立ち上がりかけた。私は、その腕に手を置く。


「座って。洗えば落ちる」


鶴岡さんは、何も言わずに背を向けた。歩き出した手首で、緩んだバンドごと時計が揺れる。


新美さんは空のグラスを持ったまま、二つ向こうのテーブルの横で立ち止まった。


    *


灯りが落ちて、壇上に尾形理事長が上がった。白いものの混じった髪で、話し方はゆっくりしている。


「この新館は、多くの方のお力で建ちました。ありがとうございます」


「私は子どものころ、旧校舎の音楽準備室でピアノを習いました。鍵盤に届くように、椅子に座布団を二枚重ねて」


理事長は言葉を切って、ホールのいちばん奥を見た。


「今日は、私のピアノの先生もいらしています。倉橋芙佐子先生。この学校で30年、教えてくださいました」


ホール中の顔が、こちらを向いた。


祖母は座ったまま、一度だけうなずく。


会長の笑顔は、まだそこにあった。その横で、鶴岡さんがグラスを持ち直す。


理事長は、幕の横へ歩いていった。


「寄付者は、ご自分の名前を掲げることを望まれませんでした。ただ、ホールには一つ、残したい名前があると」


理事長の手が紐を引くと、幕が上から順にほどけて落ちた。奥にあるのは、黒い石の銘板だ。


芙佐子記念ホール


その下に、小さな字で一行。寄付者より。


「芙佐子記念ホールです」


理事長の声が、マイクを通さずに聞こえた。


拍手は、すぐには起きなかった。前の方のテーブルで、何人かが首を伸ばす。


「……鶴岡さんのところじゃ、なかったの?」


「銘板、もうできてるって聞いてたけど」


ほかの名前は、どこにもない。


会長の目が、銘板から鶴岡さんへ移った。鶴岡さんは銘板を見上げて、それから母親の顔を見た。


「それでは、寄付者の方をご紹介します」


理事長が、ホールの横の扉に手を向けた。


    *


側扉が開いた。


入ってきたのは、濃い灰色のスーツの男の人だった。ネクタイはしていない。


その人は壇の方を見ずに、ホールの中を端から端まで見渡す。


前の方で、椅子が鳴った。会長の隣の席から、鶴岡さんの父親が立ち上がる。


鶴岡社長は、ほとんど小走りでテーブルの間を抜けてきた。片手を、前に差し出している。


「鈴木社長! 出資の件ですが――」


「鶴岡社長、少し待ってください。娘を探しているので」


「……娘?」


近くのテーブルで、誰かが言った。


父は鶴岡社長の横を回って、そのまま歩きつづけた。グラスを持った手が、通る先で一つずつ下がっていく。


いちばん奥の、名札のないテーブルの前で、父は止まった。まず、祖母に頭を下げる。


「お母さん」


祖母は、うなずいただけだった。


「お母さんって……倉橋先生の?」


それから父は、私を見た。目が、膝のあたりの暗い色で止まる。


「瑶、ドレスがどうして濡れてるんだ?」


「……鈴木さんの、お父さん?」


安西さんの声は、私にしか聞こえない大きさだった。その手が、私の袖をつかむ。


握ったまま、離さない。ホールの中で、ほかに口を開く人はいなかった。


二つ向こうのテーブルの横で、新美さんが空のグラスを置く。こつん、と一度だけ音がした。


鶴岡社長は、まだ同じ場所に立っている。差し出していた手が、下りていく。


父は体を起こして、壇の方を向いた。


「娘が特待生だという話と、時計の件で自宅待機になった経緯を、聞かせてもらいたい」


「特待生……?」


「時計って、何の話?」


保護者たちの声が、テーブルからテーブルへ渡っていく。


尾形理事長は答えずに、壇の下の、二つ目のテーブルに目を向けた。そこに、武田先生が座っている。


先生は立ち上がった。座った。


もう一度、立ち上がった。


「教師として、見落としました」


鶴岡社長の顔から、赤みが引いていく。自分のテーブルの取引先らしい大人たちが、グラスを置いて彼を見ていた。


「怜奈」


低い声だった。


「怜奈、本当のことを言え」


鶴岡さんは、答えなかった。


三つ目のテーブルから、江藤先生が厚いファイルを一冊持って立ち上がる。壇の手前まで歩いて、そこで止まった。


「体育の記録では、鶴岡さんは腹痛で20分離席し、保健室の来室記録はありません。」


「その間に教室の鍵を開けてもらって入った生徒は、鶴岡さん一人です。」


江藤先生はファイルを手前のテーブルに置いて、開かないまま手を離した。


    *


鶴岡さんは、時計のある方の手を背中に回した。少しして、その手をまた前に出す。


「時計は、私が置きました。中間テストで4位になって、最初の一曲も鈴木さんに……。制服を見て、ただの特待生だと思っていました。人を見るのに、制服しか見ていなかった。ごめんなさい」


会長が、一度だけ目を閉じた。


私は立ち上がった。膝の染みは、まだ乾いていない。


「私が誰か知らなかった時の言葉が、本当のあなたです。」


会長がこちらへ来て、祖母の前で深く頭を下げる。


「失礼をしました」


祖母はうなずいた。何も言わない。


「鈴木さん、開館の最初の一曲を。どうぞ」


壇上から、尾形理事長の声がした。銘板の下まで歩く。


私は、ピアノの布に手をかけた。

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