第六話 時計
12月に入って最初の週、3時間目は体育だった。
グラウンドを5周走って、安西さんと並んで校舎へ戻る。3階まで上がると、教室の戸は閉まっていた。
引いても、動かない。
「授業のあいだは鍵かけてるのよ。先生が来るまで、ちょっと待っててね」
廊下の端から、清掃のおばさんがカートを押してきた。カートの取っ手に、鍵の束が下がっている。
「冬はみんな出ちゃうから、閉めとかないとね」
昼休み、安西さんと二人で新館のホールをのぞいた。調律が入る日だと、掲示に出ていた。
正面の壁に大きな幕が下がっていて、その手前に、見覚えのあるアップライトが置いてある。調律師さんが、一つの音を何度も鳴らしていた。
「ずっと同じ音だね」
「少しずつ、合わせてるんだと思う」
私たちは入口の段に並んで座って、予鈴が鳴るまでそれを見ていた。
*
5時間目が始まってすぐ、鶴岡さんが立ち上がった。
「先生、時計がないんです」
教室中のペンが止まった。
「体育の前に、鞄の内ポケットに入れておいたの。戻ってきたら、なくなってた」
「どんな時計だ」
「父からの誕生日プレゼントです。500万円するの」
武田先生は教卓から下りた。
「全員、その場を動かないように。鞄と机の中を、順番に見せてもらう」
鶴岡さんが先生の横について、一列目から机の中をのぞいていく。
最後列に来たとき、教室中の顔がこちらを向いていた。
安西さんの机には、問題集が二冊と、紙袋に入った丸パンの半分。先生はそれを見ただけで、手を触れなかった。
私の机では、先生が問題集を持ち上げた。その下に、腕時計が一つある。
紺の文字盤に、金属のバンド。蛍光灯の光を受けて、一度だけ光る。
先生は時計をつまみ上げて、鶴岡さんの前に差し出した。
「これか」
鶴岡さんは時計を見て、うなずいた。顔は、どこも動かなかった。
「特待生が盗ったのよ。取り入れなければ盗る、そういう人だって前に言ったでしょう」
新美さんが、こちらを見ていた。口が開いて、何か言いかけて、閉じる。
私は立ち上がった。
「警察に通報してください」
「……何だって?」
「教室でなくなった時計が、私の机から出てきたんです。刑事事件です。廊下の防犯カメラと指紋を調べてもらってください」
「学校で起きたことは、学校で処理する。外に出せば、学校の名前に傷がつく」
「私の名前には、もうついています」
鶴岡さんが、首を少しかしげた。
「あなた、自分が連れて行かれたいの?」
「この時計を置いた人を、警察に引き渡してください」
前の戸が開いて、ベージュのスーツの人が入ってきた。式典の準備で、新館に来ていたらしい。
「武田先生、廊下まで聞こえましたよ」
「校内で処理しましょう。通報も、外に出すこともしません」
「処分は、式典が終わってから決めればいいことです」
「誰を守るためですか」
「鈴木さん、あなたのためですよ。特待生が連れて行かれたら、一生の記録になりますもの」
隣で椅子が鳴った。安西さんが立っていた。
「お昼休み、鈴木さんは私とホールにいました。調律の人がいて、二人でずっと見てました」
声は小さかった。それでも、教室の後ろの壁まで届く。
鶴岡さんが、すぐに言い返した。
「お昼は関係ないでしょう。なくなったのは、体育の時間よ」
安西さんは、机の端を握った。
「体育も一緒に走って、一緒に戻ってきました。教室は、鍵が――」
「貧乏人同士でかばい合って」
新美さんの声だ。言う前に、鶴岡さんの横顔を一度見ていた。
それきり、誰も口を開かなかった。
「学校としては、処分が決まるまで、鈴木さんは明日から3日間の自宅待機とする」
武田先生は、時計を鶴岡さんの手のひらにのせた。
「時計は返す。以上だ」
校則で禁じられているはずの時計のことを、先生は一言も言わなかった。
鞄に教科書を入れていると、安西さんが机の中から問題集を出して渡してくれる。
受け取るとき、問題集の端が細かく震えていた。
「信じてる」
「分かってる」
窓際の席に戻った鶴岡さんが、時計を手首に巻いている。少し余ったバンドを、彼女は手首の上の方へ押し上げた。
*
鞄を持って教室を出ると、安西さんが後ろからついてきた。
廊下の端に、さっきのカートが止まっている。清掃のおばさんが、雑巾を絞っていた。
私たちが横を通るとき、おばさんの手が安西さんの袖を引いた。顔を寄せて、耳もとで言う。
すぐ隣にいた私にも、その声は届いた。
「あの時間、教室に戻ったのは鶴岡さんだけよ、おなかが痛いから薬を取りたいって、私が鍵を開けたの」
安西さんが、私を見た。
私は何も言わずに、うなずいた。おばさんは雑巾をバケツに落として、カートを押していく。
*
待機の1日目の朝、台所のテーブルに弁当があった。
いつもの布で包まれて、端に置いてある。祖母はそれを見て、手を止めた。
「……今日は、行かないんだったね」
祖母は包みを持ち上げて、戸棚にしまった。流しの水切りかごには、計量カップが一つ伏せてある。
「電話、しようか」
「誰に?」
「理事長。それか、お父さん」
「しなくていい」
祖母は、しばらく私の顔を見ていた。それから戸棚を開けて、さっきの包みを出す。
包みは、私の前に置かれた。
「じゃあ、食べなさい」
布をほどくと、ご飯と煎り卵と青菜、焼き魚が一切れ。いつもと同じ中身だ。
私は箸を取った。祖母は向かいに座って、湯のみにお茶を注いでいる。
*
2日目の午後、玄関の呼び鈴が鳴った。
戸を開けると、尾形先輩が立っていた。透明のクリアファイルを一枚、脇に挟んでいる。
「上がってもらいなさい」
奥から祖母が言った。
「ここで大丈夫です。すぐ帰るので」
先輩は靴を脱がずに、上がり框の手前に立ったままでいた。祖母が湯のみを一つ運んできて、框の端に置き、台所へ戻っていく。
「江藤先生のところで、少し聞いてきた」
先輩はファイルを開いた。中には、手書きのメモが一枚だけ入っている。
「あの体育の時間、鶴岡さんは腹痛で20分離席してる。でも保健室には、来た記録がない」
「清掃のおばさんは、江藤先生に話してもいいって。怖くないって言ってた」
「江藤先生は?」
「ちゃんと聞いてくれてる、今は照らし合わせてるところ。ただ、武田先生は式典が終わってからにしてほしいって」
先輩はメモをファイルに戻した。
「それと、鶴岡さんの時計は、本物は先月から家にないって。ピアノ部の子たちの噂だけど」
私は、窓際で押し上げられたバンドを思い出した。手首の上で、余っていた。
「ありがとうございます」
「父から、もう一つ。最初の一曲は、やっぱり君にって」
先輩は湯のみに手をつけないまま、戸に手をかけた。
「待機は担任の判断で、学校の決定じゃない。父はそう言ってた」
戸が閉まったあとも、框の端の湯のみからは湯気が上がっていた。
台所から、祖母が顔を出した。
「お父さんから、電話があったよ。さっき」
居間で、すぐに折り返した。
「時計のことは、理事長から聞いた」
「お父さんは、何もしないで」
「関わらない。ピアノを見に行くだけ」
「鶴岡さんのお父さんとは?」
「約束は、そのままだ」
電話が切れたあと、祖母は流しで、湯のみを一つだけ洗っていた。
*
3日目の昼前、学校の事務の人が封筒を届けに来た。
厚手の白い封筒で、宛名は倉橋芙佐子様。祖母は居間のテーブルで封を切った。
二つ折りのカードを開いて、内側を指でなぞる。小さな字で、一行だけ足されていた。
介助同伴者1名可
祖母はカードをテーブルに置いて、立ち上がった。杖をついて奥の部屋へ行き、箪笥の引き出しを開ける。
出てきたのは、紺のドレスだった。たたんだ上に、薄紙が一枚かかっている。
「退職の年に、送別会で着たの」
祖母はそれを、私の膝の上に広げた。
「これを着なさい。一箇所だけ、直すから」
「服なら、あるよ」
「知ってる」
祖母は裁縫箱の蓋を開けて、糸を一本選んだ。
「これは、綾嶺学園で着たものだから」
針が、肩の縫い目に入っていく。細かい針目だった。
「付き添いの人も、一人いいって書いてある」
「パン屋さんの子?」
祖母は、針を動かす手を止めなかった。
「聞いてみる」
テーブルの上では、カードの表がこちらを向いている。
創立記念式典 12月6日 午後6時 特別招待 倉橋芙佐子様 ご家族同伴可




