第五話 協賛金
11月も終わりに近い朝、武田先生がホームルームで一枚の紙を配った。
「創立記念事業の協賛金、申し込みは今週中だそうだ。祝賀会の招待は協賛したご家庭だけ、学校としては伝えるだけだ」
「うちは協賛しないの」
窓際から、鶴岡さんの声がした。振り返りもしないのに、最後列まで届く。
「棟ごと寄付してるから」
新美さんが、鶴岡さんの横顔を見てから身を乗り出した。
「銘板も、もうできてるんだよね。鶴岡って入ってるの、あたし写真で見たもん」
隣で、安西さんが紙を四つにたたむ。たたんだ紙は、そのまま鞄の底に入った。
放課後、旧音楽準備室へ行った。積まれた椅子に、番号の札が貼られている。
鍵盤を端から一つずつ押していく。ずれている音は耳で分かっても、私には直せない。
同じ音を三度押したところで、戸口に尾形先輩が立った。
「片付けの日、決まったよ。来週の頭に業者が入る」
用件はそれだけのようだった。先輩は中へ入ってきて、後ろ手に戸を閉めた。
「これは、外では言わないでほしいんだけど」
黙って、うなずく。
「鶴岡さんの家の寄付、半年たってもまだ入ってない。父が何度催促しても、来月って返事だけで」
先輩は、蓋の内側の名前に目をやった。
「先月、父は別の寄付者を見つけた。自分の名前は出したくない人で、ホールの名前も変わるって」
「何になるかは、僕も知らない」
「僕が君の話をしたあと、父は一度、ここの外で聴いてたらしい。君が弾いてるのを」
私は鍵盤から手を離した。
「開館の最初の一曲は、君に。このピアノで」
「ピアノ部の部長は、鶴岡さんです」
「鶴岡さんのトリはそのまま。最初の一曲を弾くのは君だよ」
先輩は戸の方へ戻りかけて、一度だけ足を止めた。
「顧問の先生には、今朝、父から伝わってる。鶴岡さんも、もう聞いてると思う」
戸が、音を立てずに閉まった。ずれたままの音をもう一度押すと、さっきと同じ高さで鳴る。
夜、居間から父に電話をかけた。
「鶴岡都市開発って、知ってる? クラスの子の家なんだけど」
「社長から、会いたいと三度言われている。式典の日に会う」
父の後ろで、誰かが書類をめくる音がした。
「……半分は、見えたか」
少しだけ考えてから、答える。
「半分」
「残りは、式典の日に」
電話は、それで切れた。
*
片付けの日、旧校舎の階段は業者の人たちでふさがっていた。
古い机と椅子が、次々に運び出されていく。準備室の戸の外に、ピアノが一台だけ押し出されていた。
蓋の上に、紙が一枚貼ってある。マジックで、二文字。
処分
「このピアノは、どこへ運ぶんですか」
伝票を見ていた業者の人が、顔を上げた。
「処分ですね。新しい準備室には、新しいのが入るそうで」
「私が買うことは、できますか」
業者の人は、私の制服を上から下まで見た。
「学校の処分価格で、8万円。払うなら事務室でお願いします、うちじゃ受け取れないんで」
本館の事務室の入口には、灰色の靴拭きマットが敷いてあった。表面に、薄い横縞が何本も走っている。
カウンターの向こうで、事務員さんが書類から目を上げた。
「旧準備室のピアノ? 生徒さんが買うの?」
「はい」
「古いアップライトよ」
「知っています」
事務員さんはファイルをめくって、何かを確かめた。それから、こちらへ顔を戻す。
「保護者の方は?」
「祖母に言ってあります」
私は財布から札を出して、カウンターに並べた。事務員さんは一枚ずつ数えて、もう一度数え直す。
複写式の用紙に、ボールペンの先が当たる音がした。
品目の欄には、旧音楽準備室備品 アップライトピアノ一台。購入者の欄には、鈴木瑶。
準備室の前に戻って、業者の人に領収書を見せる。彼は控えの番号を伝票と見比べて、うなずいた。
それから蓋に手を伸ばして、「処分」の紙を剥がす。丸めた紙は、作業着のポケットに押しこまれた。
「で、どこへ運びます?」
「運ぶ人が来ます」
業者の人は、ピアノの脚の前に段ボールを一枚立てかけた。それから、次の机を取りに戻っていく。
*
ピアノのことは、次の朝にはクラスに回っていた。
「特待生、準備室のピアノ買ったんだって」
新美さんは鶴岡さんの机に片肘をついたまま、こちらを振り返った。
「行事費も、ピアノ代も、ぽんって払ったんでしょ。生活補助なんて、月3万円くらいじゃないの?」
鶴岡さんは教科書を開いたまま、ページをめくらなかった。チャイムの前に席を立って、職員室の方へ歩いていく。
昼休み、武田先生に廊下へ呼ばれた。先生は、黒い表紙の帳簿を脇に挟んでいた。
「鈴木さん、生徒から話があった。特待生にほかの収入があるなら、資格を見直さなければならない」
「そのお金は、どこから?」
「父からです」
「お父さんの仕事は」
「商売をしています」
「どんな」
「父の商売です」
先生は、しばらく私の顔を見ていた。それからポケットのスマホを出して、祖母の番号を押す。
呼び出し音のあと、祖母の声が小さく漏れてきた。すぐ横にいる私には、それで十分に聞こえる。
「倉橋先生、担任の武田です。鈴木さんの出費の件で、お父さんのお仕事を伺えますか」
「商売を」
「ああ、小さなご商売ですか。それは大変ですね」
先生の声が、少しゆるんだ。
「ただ、特待生の給付は学校のお金ですから。使い道は、学校としても見ておかないと」
電話の向こうが、一拍黙った。
「武田先生。あの子は、援助を申請しましたか」
先生の指が、帳簿の角で止まる。電話を耳に当てたまま、もう片方の手で帳簿を開いた。
私は、先生がページを探し当てるのを待たなかった。
「援助は何も申請していません。行事費は現金で、ピアノ代も払いました。領収書もあります。お金の出所まで証明する必要はありません」
先生は「失礼します」とだけ言って、電話を切った。
帳簿のページを、一枚ずつめくっていく。ある行のところで、指が動かなくなった。
開いたページの保護者欄には、鈴木、とだけある。
「学費は……編入の日に、全額納付」
私はうなずいた。
「それなら、君は――」
先生は、その先を言わなかった。指先で、同じ行を二度叩く。
教室から出てきた鶴岡さんが、私たちの横で足を止めた。
「先生、退職金じゃないですか。おばあさんが一生かけて貯めたなら、孫の学費くらい出せますよ」
武田先生は鶴岡さんを見て、小さくうなずいた。
帳簿が、ぱたんと閉じられる。先生はそれを脇に挟み直して、職員室の方へ歩いていった。
その日の放課後、準備室の前に知らない男の人がいた。後ろに、台車を押した人が二人ついている。
「調律の者です。このピアノ、今日運ばせてもらいますね」
男の人は蓋を開けて鍵盤を一つ押し、耳を寄せた。
「どこへ運ぶんですか」
「新しいホールへ。このピアノは、寄付者の指定で使うんです。」




