第四話 順位表
11月の中間テストの順位は、学年の掲示板に貼り出された。上位10名だけの、白い紙が一枚。
掲示板の前には、もう人垣ができていた。後ろからでは、一番上の行しか見えない。
1位 鈴木瑶
「え、誰」
「編入生だって。1年3組の、最後列の」
前の方で誰かが体をずらして、紙の下の方がのぞく。
3位 安西こはる
4位 鶴岡怜奈
隣で、安西さんの指が私の鞄の持ち手に触れた。すぐに離れる。
「……3位」
声は、私にしか聞こえない大きさだった。安西さんの目は、紙の三行目から動かない。
「鶴岡さんが4位?」
「初めてじゃない? 3位より下って」
人垣の真ん中に、鶴岡さんがいた。紙を見上げたまま、口を開く。
「写したのよ」
大きな声ではなかった。それでも、掲示板の前の何人かが、私の方を振り返った。
「隣同士なんだから。答えが似るに決まってる」
職員室の戸が開いて、武田先生が出てきた。先生は掲示板を見て、それから私を見た。
「鶴岡さん。答案は採点した人間が見ているから、写したなら分かる」
人垣が、少し静かになる。
「特待生がいい成績を取るのは当然だ。学校が金を出して、成績を買っているようなものだからな」
先生は鶴岡さんの顔を見なかった。私の顔も見ていない。
掲示板の数字だけを見て、職員室へ戻っていく。
人垣がほどけた。新美さんが「怜奈」と呼びかけた。
鶴岡さんは動かなかった。
4位の行を、長いこと見上げている。
*
保護者会の知らせは、その週のうちに配られた。
「お母さん、店があるから来られないって。私が一人で出る」
安西さんは、知らせの紙を四つにたたんで鞄にしまった。
「祖母が来る」
「おばあさん、もう歩いて大丈夫なの?」
「杖があれば」
保護者会は、階段教室で開かれた。保護者が前の段に、生徒が後ろの段に座る。
「鈴木さん、ここでいい?」
「うん。端の方が、祖母が来たとき分かりやすい」
最前列の真ん中に、ベージュのスーツの女の人がいた。髪を高く結い上げている。
配られた式次第の上の方に、「PTA会長 鶴岡聡美」とあった。
窓のブラインドが一枚だけ、ほかと角度がずれている。
会長はマイクを使わなかった。それでも声は、後ろの段まで崩れずに届く。
「創立記念式典は、新館の落成を兼ねて行います。新しいホールの開館です」
会長は手元の紙をめくった。
「創立記念事業協賛金は、一口30万円をお願いしております。祝賀会には、ご協賛くださったご家庭をご招待いたします」
前の段で、何人かの保護者がうなずいた。
安西さんが、膝の上で指を折る。
「……うちの店の、一か月分の売上だ」
「うん」
「でも、新しいホール、見てみたいな」
講話の最後に、会長は後ろの段へ目を上げた。
「それから、何組かのご家庭とは、個別にお話しさせてください」
一拍おいて、会長は名簿を見ずに続けた。
「鈴木さん。ご家族の方と一緒に、終わったら残ってくださいね」
*
保護者会が終わると、階段教室は半分空になった。
安西さんは私の方を一度振り返ってから、出ていった。武田先生が、会長の隣に立っている。
祖母は、まだ来ていない。
「鈴木さん、ご家族は?」
武田先生が、腕時計を見ながら聞いた。
「祖母が来ます。もうすぐだと思います」
会長が、私の方へ向き直った。
「鈴木さん、お話は武田先生から伺っています」
会長の声は、講話のときより一段やわらかかった。
「特待生で、おばあさまのお宅から通っていて。おばあさまは、退職された先生だとか」
「はい」
「誤解なさらないでくださいね。私はPTA会長として、すべてのご家庭のことを考えなければいけないんです」
会長は、指先で式次第の角をそろえた。
「綾嶺は、学費のほかにもかかりますでしょう。行事や研修、それに祝賀会のドレスまで」
「普通のご家庭では続けるのが大変ですし、合わない場所で無理をなさるのは、お子さんにとって傷になります」
私は黙っていた。
「公立へ移る費用は、うちで持ちます。施しではなくて、助けだと思ってください」
「おばあさまにも、私から直接お話ししますね」
武田先生がうなずいた。
「会長のおっしゃる通りです。学校としても、ここで目を配り続けるのは難しい」
私は答えなかった。
戸口で、杖が床を打つ音がした。
祖母が入ってくる。杖を右手について、背筋はまっすぐだった。
階段教室の段を、一段ずつ自分で下りてくる。私が上って腕を出すと、祖母は首を横に振った。
「倉橋芙佐子です。この学校で30年、ピアノを教えました」
前の方の戸から、男の先生が顔をのぞかせる。学年主任の江藤先生だった。
江藤先生は祖母を見たとたん、戸口で背中を伸ばした。
「倉橋先生」
「江藤くん、立たなくていいのよ」
江藤先生は、立ったままだった。戸口から一歩も入らず、両手を体の横につけている。
武田先生が、江藤先生と祖母の顔を見比べる。どちらが誰なのか、まだつかめていない様子だった。
「倉橋……先生、ですか」
「まあ、こちらの先生でいらしたんですね。存じ上げませんでした」
武田先生の言葉に重ねて、会長が言った。小さく、きれいに笑っている。
「先生、年金は月においくらですか。行事費まで足ります? うちの怜奈のバッグ一つの方が高そうですけれど」
前の段に残っていた保護者が二人、顔を見合わせる。
祖母は最前列の椅子に腰を下ろし、杖を机の端に立てかけた。手を膝の上で重ねる。
「教え子の一人が、今の理事長です」
祖母の声は大きくなかった。それでも、会長の笑い方が一度だけ止まる。
会長は、少し首をかしげた。声の調子は変わらない。
「理事長だって、寄付者の顔色は見ますよ。先生は教えたかもしれませんけれど、棟を寄付なさったわけではありませんから」
祖母はうなずいた。
反論はない。机の端の杖に、手を伸ばしただけだった。
*
祖母は杖を取り、机に手をついて立ち上がった。
私の方を向く。
「帰ろう。ご飯にしよう」
「うん」
私は祖母の左側に立って、腕を貸す。今度は、祖母も断らなかった。
会長の前を通るとき、祖母は軽く頭を下げた。会長も、同じだけ頭を下げる。
階段教室の段を、二人で一段ずつ上る。腕にかかる祖母の手は、思っていたより軽かった。
誰も何も言わない。玄関の方から、帰っていく保護者たちの話し声が遠く聞こえる。
廊下は長かった。杖の先が床に当たる音が、一つずつ後ろへ残っていく。
「おばあちゃん、段、大丈夫だった?」
「大丈夫」
祖母は前を見たまま、歩幅を変えない。私も、変えない。
階段教室の戸は、開いたままになっている。角を曲がる前に、一度だけ振り返る。
廊下に杖の音が続いた。江藤先生は、まだ立っていた。




