第三話 旧音楽準備室
「私のピアノ、まだあるかしらね」
夕飯のあと、祖母が湯のみを置いて言った。
「学校に?」
「旧校舎の2階、東の端の準備室。退職するとき、学校に置いてきたの」
祖母は湯のみの縁を指でなぞった。
「鍵がかかってたら?」
「かかってたら、それでいいの」
祖母は湯のみを持ち直した。
「見てきてごらん」
次の日の放課後、私は旧校舎の階段を上った。手すりのペンキが、ところどころ剥げている。
東の端の戸に、鍵はかかっていなかった。開けると、埃の匂いがする。
古い机と椅子が壁際に積まれ、楽譜の箱が床にいくつも並んでいる。積まれた椅子の一脚だけ、脚のキャップの色がほかと違っていた。
奥の壁際に、布をかけたアップライトピアノがある。布の上に、白く埃がたまっていた。
布を外して蓋を開けると、内側に小さな文字が彫ってあった。倉橋芙佐子。
「……あった」
鍵盤をひとつ押す。音は合っていて、少しこもっているだけ。
白い鍵盤は、端の方から黄ばんでいた。
椅子を引いて、高さを祖母の家のものと同じくらいまで下げる。座って、祖母が最初に教えてくれた曲を弾いた。
半分ほど来たところで、戸口に人の気配がする。
男子生徒が一人、書類の束を抱えて立っていた。入ってこないまま、最後まで聴いてから口を開く。
「まだ鳴るんだ」
「鳴ります」
「片付けの前に、備品を確かめておけって言われてて。生徒会の用事」
彼は書類を一枚めくってから、ピアノの前まで来た。蓋の内側の文字に目を落とす。
「倉橋芙佐子……」
「知ってるんですか」
「名前だけ。父の小さい頃の、ピアノの先生だって何度か聞いた」
私は鍵盤から手を下ろした。それ以上は言わなかった。
「尾形晴臣。2年で、生徒会」
「1年の、鈴木です」
尾形先輩は、それ以上を聞かなかった。書類に何かを書きこむ。
*
廊下で、足音が重なった。
戸口に、鶴岡さんが立っていた。後ろに新美さんと、同じクラスの女子がもう二人。
新美さんが、鶴岡さんの横顔を見てから言った。
「さっきの、ここからだったんだ。廊下まで聞こえてたよ」
鶴岡さんは返事をしなかった。ピアノと私を、順番に見る。
「特待生は楽器に触らないで。壊したら弁償できないでしょう」
「これは部の楽器じゃなくて、準備室の備品だけど」
尾形先輩が、書類から目を上げずに言った。
鶴岡さんは尾形先輩の方を向いて、声の調子を変えた。
「尾形先輩、これはうちのクラスのことなので。私、ピアノ部の部長なんです」
それから、私に向き直る。
「ピアノ部は今年はもう採らないの。式典の演奏者も決まってるから」
「入部は、申し込んでいません」
「じゃあ、ここで何してるの」
「ピアノを、見に来ました」
「見て、どうするの」
答えないでいると、鶴岡さんは私の横まで来て、蓋の内側を見下ろした。
「倉橋芙佐子。……誰?」
「昔の先生」
尾形先輩が答えた。
「先輩、詳しいんですね」
尾形先輩は返事をしないで、書類をめくった。
「ふうん」
鶴岡さんは布をつかんで、ピアノにかぶせ直した。乱暴にかけたせいで、埃が白く舞い上がる。
新美さんが、手で顔の前をあおいだ。尾形先輩の書類の端にも、白い粉が落ちる。
私は、舞った埃がまた蓋の上へ降りていくのを見ていた。
「来月ここを空けるから、このピアノも一緒に処分するの」
「処分って、捨てるんですか」
「業者が持っていくのよ。古いんだから、置いておいても仕方ないでしょう」
それから鶴岡さんは、尾形先輩にさっきより柔らかい声を向けた。
「尾形先輩、貧乏人に付きまとわれないでくださいね。こういう人、取り入るのは上手ですから」
尾形先輩は何も言わなかった。
書類の束を反対の手に持ちかえて、私に一度だけうなずく。そのまま廊下へ出ていった。
「その布、勝手に外さないでね」
戸口で一度だけ振り返ってそう言うと、鶴岡さんは「行こ」と短く続けた。新美さんたちが、そのあとに続く。
最後に戸口を出かけた新美さんが、振り返った。
口が少し開いた。何か言いかけて、閉じる。
新美さんは、そのまま廊下へ消えた。
*
私は布を、もう一度外した。
ハンカチで蓋の埃を拭く。彫られた名前が一字ずつ読めるようになるまで、何度か拭いた。
廊下はもう静かで、運動部の声も遠い。スマホを出して、蓋の内側を一枚撮る。
拭いたところだけ、蓋の木の色が少し明るくなっていた。布はかけずに、たたんで椅子の上に置く。
家に帰ると、祖母はもう二階に上がっていた。
「おかえり」
「ただいま」
木の階段の上で、戸の閉まる音がする。
冷蔵庫の低い音だけが、台所に続いている。
私は椅子に座って、撮った写真を指で広げた。祖母の名前が、画面いっぱいになる。
処分のことは、書かなかった。写真だけを父に送って、一行足す。
「おばあちゃんのピアノ、まだあった」
送ってすぐに、既読の印がついた。私は画面を伏せずに、テーブルに置いたまま待つ。
返信は、それから少しして来た。
「式典の日に、見に行く。」




