第二話 弁当
安西さんが鞄を机の横に掛けた拍子に、私の机がまた、かたりと鳴った。
彼女は机の脚を見下ろした。それから、鞄の口からさっきのメモ帳を引き抜く。
輪ゴムを外して一枚破り、指で小さく、厚みが出るまで折りたたむ。
「ちょっとごめんね」
安西さんはしゃがみこんで、消しゴムの代わりにそれを脚の下へ押しこんだ。
前の席の何人かが、振り返ってその背中を見た。誰も何も言わずに、また前を向く。
机は、もう鳴らない。
「うちの店もこうなの。消しゴムより、紙の方が安定するよ」
「……助かった」
「ううん。うちのテーブル、どれも脚が一本ずつ短いの」
彼女は抜き取った消しゴムの半分を、私の筆箱の横にそっと置いた。
席に戻ると、安西さんはメモ帳に輪ゴムをかけ直す。破ったところの紙の端が、少しだけ毛羽立っていた。
この学校で聞いた、二つ目の普通の言葉だった。一つ目は、事務室の人の「武田先生、編入生です」だ。
*
祖母が家で転んだのは、二か月前のことだ。骨にひびが入っても、入院は嫌だと言った。
「40年住んだ家よ。一度転んだくらいで出ていかないわ」
うちへ移る話も、母が電話で切り出したところで断られた。母は海外出張の最中で、父は本社を離れられない。
私は海外の寄宿学校を途中で切り上げて、帰ってきた。
祖母の家は、梛坂本町商店街の中ほどにある二階建てだ。木の階段は、踏むと鳴る。
尾形理事長が来たのは、私が越してきた次の日だった。祖母の枕元に立つと、理事長は両手を体の前で組んだ。
「帰国生の編入試験と面接は、受けてもらいます。日程はこちらで通しておきます」
「書類がそろえば、一週間で通えますよ」
「お願いします」
帰り際、玄関で理事長は一度だけ振り返った。
「倉橋先生のお孫さんだということは、学校では」
「誰も知りません」
「その方がいいでしょう。ここ数年、保護者の方のことでいろいろありまして」
編入の前の晩、父は電話であの一言を言ったあと、少し間をあけて続けた。
「前の学校では、みんながお前を知っていた。この半年、自分で見てみなさい」
制服のことを言い出したのは、祖母だ。
「制服は、事務室のリユースの棚からもらっておいで。新品は7万円するのよ」
「古いのでいいの?」
「着られれば、それでいいの」
もらってきた上着を、祖母はベッドに座ったまま膝に広げた。片手で袖口をつまみ、2センチ詰める。
針目は細かかった。
「着てごらん」
袖を通すと、布は手首のところで止まった。
「腕、前に出してみて」
言われたとおりに伸ばすと、祖母は袖口を指で一度だけ引いた。
「ちょうどいい」
ICカードも、祖母のものだ。昔はそれで毎日バスに乗って、学校へ通っていたという。
残高は、2000円とすこし。
初日の朝、祖母は弁当箱を布で包んで、私に持たせた。
*
昼休みのチャイムが鳴ると、安西さんが私の方を向いた。
「鈴木さん、お昼どうするの?」
「弁当がある。学食で食べられる?」
「下の階なら、持ちこみの席があるって」
学食に入ると、正面に上の階へ続く階段があった。上からはトレーの触れ合う音と、コーヒーの匂いが降りてくる。
階段の途中に、トレーを持った新美さんが立っていた。
彼女は上の階の窓際を一度見上げた。鶴岡さんたちがいる席だ。
それから、私たちを見下ろす。
「特待生は下で食べて。上は1500円だよ」
「下で食べます。弁当があるので」
「お弁当? 昨日の残り物?」
新美さんの後ろで、上の階の誰かが笑った。
私は答えずに、下の階の奥へ歩いた。安西さんがついてくる。
「鈴木さん、あっち空いてるよ」
窓際に、二人分空いた席があった。返却口の札の角に、透明のテープが一枚、折れて浮いている。
包みをほどいて、弁当箱の蓋を開ける。ご飯と煎り卵、青菜のおひたし、焼き魚が一切れ。
向かいに座った安西さんは、紙袋を開けた。丸いパンが二つ入っている。
彼女は一つを両手で割って、半分を私の弁当箱の蓋にのせた。
「うちの店の。今朝焼いたばかりだよ」
割れ目から、小麦の匂いがした。
私は箸で煎り卵を半分に分けて、パンの入っていた紙袋の上に移した。
安西さんは一度まばたきをして、それから卵をつまむ。
「……甘い」
「祖母の味つけ」
安西さんは残りの卵を、パンの欠片にのせて口へ運んだ。
上の階の手すりから、何人かがこちらを見下ろしていた。半分の階をはさんで、見物の顔がいくつか並んでいる。
「ほんとに下で食べてる」
上から、新美さんの声が落ちてきた。安西さんは顔を上げずに、パンをもう一口かじる。
「上の階、行ったことある?」
「まだ」
「私もない。一回くらいは見てみたいけど、パンがあるから」
「お店って、どこにあるの?」
「本町の商店街のパン屋。朝5時に開けるの」
「早いね」
「袋詰めを手伝ってから来るから、今日はバスを一本逃しちゃって」
「本町なら、祖母の家と同じ商店街だ」
「え、そうなの? 鈴木さん、おばあさんと住んでるんだ」
「うん。祖母の家から通ってる」
「そっか」
安西さんはうなずいて、パンの残りをちぎる。それ以上は、何も聞かなかった。
クラスで一人だけ、私に特待生かどうかを聞かなかった人だった。
*
放課後、武田先生が私と安西さんを廊下へ呼んだ。窓の外から、運動部の掛け声が切れ切れに上がってくる。
「学校としては、特待生に条件をつけている。中間テストで学年10位以内、外れたら特待の資格は見直しだ」
先生は私たちを順番に見た。
「どっちがそうなのかは言わない。二人とも覚えておきなさい」
「はい。頑張ります」
安西さんは鞄の持ち手を握ったまま、頭を下げた。顔を上げると、口の中で「10位以内」と繰り返す。
「分かりました」
先生の目が、私の上で止まる。
「答えが軽いな」
安西さんが、私と先生の顔を見比べた。私はそれ以上、何も足さない。
武田先生は、まだ私を見ていた。




