第一話 最後列
転校初日、私は制服リユースの棚でもらい、祖母が夜のうちに詰めてくれた古い制服を着て、40分バスに乗って綾嶺学園へ来た。
「特待生はここ、年間200万円のこの学校に、あなたみたいな人の居場所はないの」と鶴岡怜奈は言った。
前の晩、父は電話で「学校では、セイラントグループの娘という肩書を置いて、鈴木瑶でいなさい」と言った。
*
校門の前の車寄せに、黒い車が一台ずつ入ってくる。運転手が降りて後ろのドアを開け、私と同じ制服の生徒が降りる。
7時40分。バスを降りるとき、祖母のICカードが読み取り機でピッと鳴った。
バス停から歩いてきた私は、その車の列の横を通る。鞄の持ち手には、カードを挟んだまま。
誰もこちらを見ない。歩いて門をくぐる生徒には、目を向ける理由がない。
事務室の人に連れられて、1年3組の前まで来た。
「武田先生、編入生です」
戸を叩いてそれだけ言うと、事務室の人は戻っていった。
担任の武田先生は30代くらいで、ネクタイの結び目がきちんと詰めてある。
先生の目は、まず私の制服で止まった。袖口で一度止まり、それから私の手の中のICカードに下りる。
顔に来たのは、最後だった。
「鈴木さんだね。入って」
教壇の横に立たされる。黒板の溝に、短くなった黄色いチョークが一本だけ転がっていた。
「今日から編入生が二人入る。こちらが鈴木さん、もう一人の安西さんは少し遅れてくる」
「鈴木瑶です。よろしくお願いします」
「鈴木さんから、何かあるか」
「いえ、ありません」
武田先生は名簿から顔を上げた。
「二人のうち一人は特待生だ。誰なのかは学校の決まりで言えないから、聞かないように」
言い終わる前に、教室中の目が私の袖口に集まっていた。
「どっちだろうね」
「見れば分かるでしょ」
前の方の席で、女子が一人、窓際をちらりと見てから口を開く。
「聞くまでもないじゃん」
新美萌香という名前は、あとで知った。彼女が窓際で確かめたのは、鶴岡怜奈の顔だった。
鶴岡さんの席は、三列目の窓際。仕立てた制服で、袖口に同じ色の細い縫い取りがある。
彼女は新美さんを見なかった。見ていたのは、私の袖口だった。
「先生」
手を挙げた声は大きくないのに、教室の後ろの壁まで届いた。
「最後列、空いてますよね。編入生はあそこでいいんじゃないですか」
「みんなの席を動かさなくて済みますし」
「それもそうだな」
武田先生は名簿に何か書きこんで、顔を上げなかった。
最後列の壁際。隣は、教室のゴミ箱だった。
鶴岡さんが立ち上がって、その机に置いてあった自分の鞄を取る。ついでに、椅子をゴミ箱の方へ足で押した。
「特待生はここ」
教室の通路を、最後列まで歩く。途中の机の何人かが、私の袖が通り過ぎるのを目で追った。
私は椅子の背に手をかけて、少しだけ元の位置へ戻した。座って、鞄を机に置く。
机がかたりと傾いた。脚の一本が短く、その下に半分に切った消しゴムが挟んである。
「ありがとう」
鶴岡さんの足が止まった。2秒くらい、黙って私の顔を見ていた。
「物分かりがいいじゃない」
それだけ言って、彼女は席へ戻っていく。新美さんが小さく笑って、その背中を目で追った。
私は教科書を出して、傾く机の角に肘を置く。そうすると、ノートは書ける高さで止まった。
*
1時間目が終わると、新美さんはすぐに鶴岡さんの机へ寄っていく。二人の笑い声が、窓際で短く重なる。
休み時間の終わりに、武田先生が黒い表紙の帳簿を持って教壇に戻ってきた。
「創立記念の行事費、一人3万円。来週までに私のところへ持ってくること」
「現金ですか、振り込みですか」
前の席の誰かが聞いた。
「どちらでもいい」
先生は帳簿を開いたまま続けた。
「学校としては、事情のあるご家庭の免除申請も受け付けている。申請書は私に……まあ、必要な人はいないだろうが」
言いながら、先生の目は教室を横切って、最後列で止まった。
どこかで、短い笑い声がした。
新美さんが鶴岡さんの横顔を一度見てから、椅子ごとこちらを振り返る。
「ねえ、特待生。申請書書くなら、あたしが職員室に持って行ってあげる」
「やさしいじゃない、萌香」
鶴岡さんは前を向いたまま、ペンの先で机を一度叩いた。
私は鞄から財布を出した。一万円札を3枚抜いて、教壇まで歩く。
開いたままの帳簿の上に、それを置いた。
「え、現金?」
新美さんの声が、思ったより高く上がった。
「現金で、お願いします」
武田先生は札を見て、それから私の顔を見た。一枚ずつ数えて、帳簿の欄に何か書きこむ。
「……確かに」
先生は札を帳簿のあいだに挟んで、次の名前に指を移した。
席へ戻る途中で、新美さんの声が追いかけてきた。
「それ、貯めるのにどれだけかかったの」
「夏休み全部じゃない?」
「今学期、何を食べるの?」
「やめなよ、聞こえるって」
「聞こえるように言ってるんだって」
笑い声が、さっきより少しだけ大きくなった。武田先生は帳簿に目を落としたまま、何も言わなかった。
私は答えずに座り、財布を鞄にしまう。
母が去年くれた財布だ。ロゴは内側についていて、外からは見えない。
2時間目、武田先生の授業が半分ほど進んだところで、教室の後ろの戸が開いた。
「あ、遅刻」
女子生徒がひとり、戸口に立っていた。髪が少し乱れていて、スカートの裾がほかの子より長い。
彼女はその場で、深く頭を下げた。
「遅れてすみません。安西こはるです」
「安西さんか、連絡は受けている。席は最後列、鈴木さんの隣だ」
「はい」
安西さんはもう一度頭を下げて、通路を歩いてきた。鞄を胸の前に抱えたまま、私の隣の椅子を引く。
鞄の口から、輪ゴムで留めた小さなメモ帳がのぞいている。
教室が、ひと呼吸ぶん黙った。
最初に口を開いたのは、新美さんだった。
「もう一人」




