第九章 結婚の約束
大学生活というものは、不思議だった。
朝起きて、講義に行く。
昼になれば友人と食事をして、午後の講義を受ける。
夕方になれば凛と会う。
帰宅して、課題をやる。
眠る。
それだけだ。
昨日と今日で、世界はほとんど変わらない。
けれど遼には、その「ほとんど変わらない」ということが新鮮だった。
会社員だった頃も、きっと似たような毎日を送っていたのだろう。
しかし、今の遼には、以前の生活が夢のように感じられる。
仕事。
結婚。
美咲。
雨。
白い部屋。
それらは確かに存在したはずなのに、記憶の中ではどんどん薄くなっていた。
忘れてしまうことが怖かった。
けれど、それ以上に怖かったのは――。
忘れていることに、自分が慣れてきていることだった。
人間は、失ったものを永遠に悲しみ続けるわけではない。
悲しみは時間とともに薄くなる。
それは救いでもある。
同時に、残酷でもある。
大切だった人間の記憶さえ、いつか生活の邪魔にならなくなる。
そのとき、人は本当にその人を失ったのだろうか。
それとも、失ったことに慣れただけなのだろうか。
「遼」
凛が呼んだ。
「何?」
「今日、うち来る?」
遼は少し驚いた。
「いいの?」
「何が?」
「いや……」
自分でも、何に驚いたのか分からなかった。
凛は遼を見て、少し笑った。
「変なの」
「最近、よく言われる」
「じゃあ、慣れた?」
「たぶん」
凛は笑った。
「じゃあ、来て」
「うん」
その短い会話だけで、遼の胸には妙な安心感が広がった。
恋人とは、特別な言葉を交わす相手ではない。
「来る?」
「うん」
そんな何気ない会話を交わせる相手なのかもしれない。
◇
凛の部屋は、大学から歩いて十五分ほどの場所にあった。
古いアパートだった。
壁は少し薄く、廊下を歩く音が聞こえる。
玄関も狭い。
テレビも小さい。
キッチンには二人分の食器があるだけだった。
「狭いでしょ」
凛が言った。
「そうでもない」
「嘘」
「本当に」
「じゃあ、こっち」
凛が部屋の奥を指差した。
窓際には小さな机があった。
その上に、二人分の教科書とノートが置かれている。
遼は部屋を見回した。
豪華ではない。
快適とも言えない。
それでも、なぜか落ち着いた。
以前の世界では、もっと広い部屋に住んでいた気がする。
もっと良い家具。
もっと高価なもの。
もっと便利な生活。
それなのに。
この部屋のほうが、どこか温かい。
遼は、自分の感覚を疑った。
幸福は、物の量では決まらない。
それは分かっている。
けれど、ならば何で決まるのか。
空間か。
人間関係か。
安心感か。
未来への期待か。
あるいは、もっと単純に。
「ここにいていい」と思えることなのか。
凛がキッチンから顔を出した。
「何飲む?」
「コーヒー」
「また?」
「好きだから」
「じゃあ、淹れる」
凛はコーヒーを二つ淹れた。
そして、遼の前に置いた。
自分の分も持ってくる。
凛は一口飲んだ。
そして、最後の一口は飲まなかった。
「また一口」
「だからいつもそうだって」
「何で?」
「苦いから」
「じゃあ、頼まなければいいのに」
「コーヒーを飲んでる自分が好きなの」
「何それ」
「分からない」
二人で笑った。
遼は、凛の残したコーヒーを見た。
そして、突然思った。
この景色を、以前にも見たことがある。
違う部屋。
違うテーブル。
違う女性。
それなのに。
コーヒーが一口だけ残っている。
その共通点が、偶然にしては奇妙だった。
「凛」
「ん?」
「俺たちって、いつから付き合ってるんだっけ?」
「一年くらい前」
「どうやって付き合ったの?」
凛は少し考えた。
「遼が告白した」
「俺が?」
「そう」
「何て言った?」
「忘れた」
「忘れた?」
「うん」
凛は笑った。
「でも、すごく遼らしかった」
「どんな感じ?」
「真面目なのに、最後だけ変だった」
「俺らしいな」
遼は笑った。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
自分は、別の世界でも誰かに告白していた。
そして結婚した。
なぜ。
どうして。
自分は、どの世界でも同じことを繰り返すのだろう。
もし人間の人生が環境によって決まるのなら。
環境が変われば、自分も変わるはずではないか。
なのに、自分はまた誰かを好きになっている。
また未来を考えている。
また結婚を意識している。
それは偶然なのだろうか。
それとも、自分という人間の中には、環境が変わっても変わらない何かがあるのだろうか。
遼はその「何か」を知りたかった。
◇
「遼」
「ん?」
「結婚したい?」
あまりにも突然だった。
遼は凛を見る。
凛は冗談を言っているようには見えなかった。
「……分からない」
「そっか」
「凛は?」
「したい」
即答だった。
遼は少し驚いた。
「どうして?」
「好きだから」
「それだけ?」
「それだけじゃだめ?」
「いや」
遼は考えた。
結婚というものを、以前の世界ではもっと重く考えていた。
仕事。
家。
お金。
将来。
責任。
家族。
いろいろな条件を考えて、ようやく決断した。
けれど凛は、たった一つの言葉で答えた。
好きだから。
それは幼い答えに聞こえる。
けれど同時に、何より本質的な答えにも聞こえた。
「遼は?」
凛が聞いた。
遼は窓の外を見た。
夕方の街が見える。
学生たちが歩いている。
自転車が通り過ぎる。
遠くで電車が走る。
この世界には、この世界の生活がある。
昨日までの世界とは何もかも違う。
それでも。
遼は凛の隣にいる。
「俺も……したい」
口に出した瞬間、不思議なほど自然だった。
凛は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、しよう」
「そんな簡単に決めていいの?」
「遼がいいなら」
「そういうものなのかな」
「そういうものじゃない?」
遼は笑った。
結婚とは、もっと難しいものだと思っていた。
けれど実際には、二人の人間が「これからも一緒にいたい」と思うことから始まる。
難しいのは、そのあとだ。
二人で生活すること。
相手の嫌な部分を見ること。
自分の嫌な部分を見せること。
お金のこと。
仕事のこと。
家族のこと。
病気のこと。
老いること。
そういう現実を一つずつ引き受けながら、それでも隣にいたいと思えるか。
結婚とは、愛の完成ではない。
愛を生活に変換する契約なのだ。
遼はそんなことを考えた。
「遼」
「何?」
「また難しい顔してる」
「ごめん」
「何考えてるの?」
「結婚について」
「結婚するって決めたのに?」
「だから考えてる」
凛は笑った。
「遼らしい」
◇
数か月後。
二人は、小さな結婚式を挙げた。
大きな式ではなかった。
呼んだのは家族だけ。
ドレスも豪華ではない。
食事も普通。
写真も少ない。
それでも遼には、十分だった。
式の終わりに、凛が言った。
「雨だね」
外を見る。
また雨が降っていた。
遼は笑った。
「またか」
「嫌?」
「いや」
「じゃあ、好き?」
遼は少し考えた。
「今は好き」
凛が笑った。
「私も」
二人で傘に入る。
以前と同じように。
けれど、以前とは違う。
美咲ではない。
凛だ。
遼自身も、以前の自分とは違う。
それなのに、なぜか同じ場所へ戻ってきたような気がした。
結婚。
雨。
誰かの隣。
遼は歩きながら、ふと思った。
もし幸福が環境によって決まるのなら。
なぜ自分は、環境が変わっても幸福を感じているのだろう。
そして、もし幸福が自分自身によって決まるのなら。
なぜ自分は、凛を必要としているのだろう。
幸福は一人で作るものなのか。
それとも、二人でしか作れないものなのか。
答えは出なかった。
ただ、凛が傘の柄を持つ遼の手に、自分の手を重ねた。
「寒いね」
「うん」
「帰ったらコーヒー飲もう」
「また一口残す?」
「うん」
遼は笑った。
そして、その瞬間――。
ほんの一瞬だけ。
雨の向こうに、別の女性の姿が見えた気がした。
白いドレス。
笑顔。
美咲。
遼は振り返った。
誰もいなかった。
ただ、雨だけが降っている。
「どうしたの?」
凛が尋ねる。
「……いや」
遼は首を振った。
「何でもない」
そして、凛の隣へ戻った。
過去を忘れていくことは、裏切りではない。
新しい幸福を見つけることも、過去の幸福を否定することではない。
人間の心には、複数の幸福が存在できる。
そう思えばいい。
そう思わなければ、前へ進めない。
遼はそう自分に言い聞かせた。
けれど。
その夜、眠りにつく直前。
彼は夢の中で、また白い部屋に立っていた。
誰もいない。
時計だけがある。
十一時五十九分。
そして、どこからか声が聞こえた。
――次の世界でも、あなたは幸せになれると思いますか?
遼は答えようとした。
けれど、その前に目が覚めた。
隣には凛が眠っている。
静かな寝息。
小さな部屋。
雨の音。
遼は胸に手を当てた。
心臓は動いている。
自分はここにいる。
それでいい。
そう思った。
それなのに、なぜか胸の奥には、説明できない予感があった。
この幸福も、いつか終わる。
幸福だから終わるのではない。
始まったものには、終わりがある。
そして終わりの先には――。
また何かが始まる。
そのことを、遼はまだ知らなかった。




