第八章 雨の日
雨の日は、予定を狂わせる。
傘を持っていなければ濡れる。
洗濯物は乾かない。
電車は少し混む。
道には水たまりができる。
晴れていれば何でもないことが、雨が降るだけで面倒になる。
だから人は、雨を嫌う。
遼も、昔はそうだった。
――昔。
その言葉を使うと、遼はいつも少しだけ違和感を覚える。
どの昔なのだろう。
会社員だった頃か。
美咲と暮らしていた頃か。
それとも、この十九歳の身体に入る前の、もっと別の過去か。
最近では、自分の中に複数の「昔」があるような気がしていた。
記憶は一本の道ではない。
いくつもの道が途中で重なっていて、そのうちのどれが本当に自分の歩いてきた道なのか分からない。
「遼」
凛の声で、遼は現実に戻った。
「傘、忘れた?」
「持ってる」
「じゃあ、何で立ってるの?」
大学の玄関前。
学生たちが次々と傘を開いていく。
遼は手に持った傘を見た。
確かに持っている。
けれど、なぜか開く気になれなかった。
「雨、嫌い?」
凛が尋ねた。
「昔は嫌いだった」
「今は?」
遼は少し考えた。
「分からない」
「変なの」
「そう?」
「雨なんて、好きか嫌いかのどっちかでしょ」
「そうでもないと思う」
遼は外を見た。
雨粒が、地面に無数の円を作っている。
「雨が降って嬉しい日もあるし、嫌な日もある」
「例えば?」
「休みの日なら、好きかもしれない」
「じゃあ今日は?」
「今日は……」
遼は隣にいる凛を見た。
「悪くない」
凛は少し笑った。
「じゃあ、帰ろう」
二人は一本の傘に入った。
◇
傘の中は、狭い。
肩が触れそうで触れない。
歩幅も自然と合わせることになる。
雨が降ると、二人の距離が少しだけ近くなる。
遼は、そのことを面白いと思った。
同じ雨なのに、一人で歩けば不快なものになり、二人で歩けば親密さを生む。
雨そのものは何も変わっていない。
変わったのは、人間の側だ。
幸福とは、そういうものなのかもしれない。
出来事そのものではなく、出来事との関係によって決まる。
雨は雨でしかない。
それを嫌なものにするのも、思い出にするのも、人間なのだ。
「遼」
「ん?」
「濡れてる」
「どこ?」
「肩」
凛が少しだけ傘を遼の側へ傾けた。
「凛が濡れるよ」
「私は平気」
「そういう問題じゃないだろ」
遼は傘を戻した。
今度は二人の肩が少し濡れた。
「これなら公平」
「何それ」
凛が笑った。
遼も笑った。
それだけのことだった。
けれど遼は、その瞬間を妙に大切に感じた。
人生というものは、後から振り返れば、大きな出来事だけでできているように見える。
卒業。
就職。
結婚。
引っ越し。
誰かとの別れ。
誰かとの出会い。
けれど実際に生きているとき、人間の時間を満たしているのは、そんな出来事ではない。
傘をどちら側に傾けるか。
相手の歩幅に合わせるか。
濡れた肩を気にするか。
そういう、誰にも記録されない小さな選択の連続だ。
幸福も同じなのかもしれない。
幸福な人生という大きなものが先に存在して、その中に小さな幸せが並んでいるのではない。
小さな幸せを拾い集めた結果として、人はあとからそれを「幸福な人生」と呼ぶ。
遼は、そんなことを考えていた。
「また難しい顔してる」
凛が言った。
「そんなに?」
「うん」
「何考えてるか分かる?」
「全然」
「だよね」
「でも」
凛は少し間を置いた。
「たぶん、悪いことじゃないと思う」
「どうして?」
「遼が考え事してるとき、少し楽しそうだから」
遼は答えられなかった。
考え事をすることが、楽しい。
そんなふうに考えたことはなかった。
悩むこと。
迷うこと。
分からないこと。
それらは普通、不幸の反対側にあるものだと思っていた。
けれど、人間は「分からない」という状態そのものを楽しむこともできる。
謎解きが楽しいように。
知らない場所へ行くのが楽しいように。
未来が決まっていないことを、自由と呼ぶように。
幸福は、答えではなく、問いの中にあることもある。
◇
駅前の喫茶店に入ると、凛はいつもの席を選んだ。
「ここ、好きなの?」
「うん」
「なんで?」
「窓があるから」
「他の席にもあるよ」
「ここからだと雨がよく見える」
遼は窓の外を見た。
雨が道路を濡らしている。
車のライトが水たまりに反射している。
通り過ぎる人たちは、みんな少し急いでいる。
「雨、好きなんだ」
「嫌い」
「じゃあ、なんで見るの?」
凛は少し考えた。
「嫌いだから見るんじゃない?」
「どういう理屈?」
「嫌いなものって、気になるでしょ」
遼は笑った。
それは妙に納得できる答えだった。
好きなものだけを見て生きることは、たぶんできない。
人間は嫌いなものにも心を引っ張られる。
苦手な人。
失敗した記憶。
後悔。
叶わなかった未来。
それらを何度も思い出してしまう。
幸福になるためには、嫌なものを消す必要があると思っていた。
けれど、もしかすると違う。
嫌なものが存在したままでも、それとの距離を変えることはできる。
雨を止めることはできない。
だから傘を差す。
それだけなのだ。
「遼」
「ん?」
「コーヒー来たよ」
店員がテーブルにカップを置いた。
凛はカップを手に取った。
飲む。
そして、置く。
また一口。
遼は、その光景を見ていた。
「やっぱり一口残してるね」
「だから言ったでしょ。いつもそうだって」
「もったいなくない?」
「遼が飲めば?」
「俺が?」
「うん」
「飲んでいいの?」
「いいよ」
凛はカップを遼のほうへ押した。
遼はカップを見た。
なぜか、その動作がひどく懐かしかった。
以前にも、同じことをした気がする。
別の場所で。
別の人生で。
別の女性と。
――美咲。
また、その名前が浮かんだ。
遼は目を閉じた。
今度は、ほんの一瞬だけ顔が見えた。
笑っている。
雨の中にいる。
傘を差している。
けれど、その顔はすぐに消えた。
「遼?」
「……ごめん」
「何?」
「昔のこと、思い出しかけた」
凛は何も言わなかった。
ただ、遼の顔を見ていた。
「思い出したくない?」
「分からない」
「じゃあ、無理に思い出さなくてもいいよ」
「でも」
「でも?」
遼はカップを見つめた。
「大切な人だった気がする」
凛はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「大切だったなら、忘れなくてもいいんじゃない?」
「……忘れてる」
「全部じゃないでしょ」
遼は顔を上げた。
凛は微笑んでいた。
「名前を覚えてる」
それだけだった。
それだけなのに、遼は胸の奥が少し温かくなった。
過去を消す必要はない。
新しい人を愛するために、古い誰かを否定する必要もない。
人間の心は、そんなに狭くないのかもしれない。
誰かを大切にした記憶が、別の誰かを大切にすることを邪魔するとは限らない。
むしろ、過去に誰かを愛したからこそ、今目の前にいる人を大切にできることもある。
遼は凛を見た。
「ありがとう」
「何が?」
「分からない」
「またそれ」
凛は笑った。
遼も笑った。
◇
帰り道、雨はやんでいた。
道路にはまだ水が残っている。
空には、薄い夕焼けが出ていた。
凛が突然、足を止めた。
「見て」
空を指差している。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が差していた。
「きれい」
「うん」
「雨、嫌いだけど」
「さっきも言ってた」
「でも、雨のあとなら好き」
遼は空を見上げた。
そこで、ふと思った。
人間は出来事そのものを評価しているのではない。
出来事の前後まで含めて、意味を作っている。
雨が降る。
嫌だ。
けれど雨がやむ。
空が晴れる。
すると、雨が降っていた時間まで、少しだけ美しく感じられる。
苦しかった時間も、あとになって意味を持つことがある。
失敗さえ、笑える思い出になることがある。
だから幸福は、現在だけのものではない。
過去を書き換えることでもあるのだ。
「あのさ」
遼は言った。
「何?」
「幸せって、何だと思う?」
凛は空を見上げたまま答えた。
「分からない」
遼は笑った。
「俺と同じじゃん」
「でも」
凛は少しだけ考えてから言った。
「幸せって、幸せだって思える時間じゃない?」
遼は黙った。
あまりにも簡単な答えだった。
けれど、簡単な言葉ほど、考えるほど深くなる。
幸せな状態が先にあって、人間がそれを感じるのではない。
人間が「幸せだ」と感じた瞬間、その状態が幸福になる。
だとしたら。
お金がなくても。
若くなくても。
美しくなくても。
成功していなくても。
理想的な相手でなくても。
人間は幸福になれる。
逆に。
どれだけ恵まれていても。
何もかも持っていても。
幸福だと思えなければ、幸福ではない。
幸福とは条件ではなく、解釈なのかもしれない。
遼は、そう思った。
その考えが正しいのかは分からない。
けれど、少なくとも今は。
凛と並んで歩いている、この時間を。
遼は幸せだと思った。
その瞬間。
遠くで、電子音が鳴った。
一度。
短く。
遼は立ち止まった。
「今、何か聞こえなかった?」
「何が?」
「音」
凛は首を傾げた。
「聞こえないよ」
遼は周囲を見回した。
駅。
道路。
店。
人。
どこにも、音の出所はない。
やがて凛が歩き出した。
「帰ろう」
「……うん」
遼も歩き出した。
けれど、胸の奥には小さな違和感が残った。
その音は、以前にも聞いたことがある。
白い部屋で。
眠りに落ちる直前に。
そして、あの世界が終わったときにも。
遼は振り返った。
誰もいない。
ただ、濡れた道路だけが夕方の光を反射していた。
その水面に、一瞬だけ時計の数字が映ったような気がした。
十一時五十九分。
遼は瞬きをした。
もう何も見えなかった。
ただの見間違いだった。
きっとそうだ。
そう思いながら、遼は凛の隣を歩いた。
まだ、自分が何度も同じ幸福を探していることを知らずに。




