第七章 知らない恋人
凛と付き合っている。
その事実を、遼はまだ完全には信じられなかった。
スマートフォンを開けば、二人で撮った写真が何枚もある。
大学の中庭。
夏祭り。
駅前の喫茶店。
海辺。
どの写真にも、自分と凛が写っている。
笑っているものもあれば、どちらかが目を閉じているものもある。
写真の中の自分は、確かに楽しそうだった。
だから遼は、少し怖かった。
写真は嘘をつかない。
けれど、写真に写っている感情まで証明してくれるわけではない。
写真の中で笑っている自分が、本当に幸せだったのか。
それを決めるのは、写真ではなく、そのときの自分だけだ。
そして、その「自分」が今の自分とは違うのだとしたら。
いったい、どちらを信じればいいのだろう。
「何見てるの?」
凛が横からスマートフォンを覗き込んだ。
「写真」
「また?」
「俺たち、こんなに写真撮ってたんだな」
「遼が撮りたがるから」
「俺が?」
「うん」
「意外だな」
「そう?」
「もっと面倒くさがりだと思ってた」
凛は少し考えた。
「遼は面倒くさがりだけど、残したいものにはこだわるよ」
遼は黙った。
残したいもの。
その言葉が、妙に胸に残った。
「何を残したいの?」
「さあ」
凛は本を閉じた。
「でも、写真を撮るときはいつも、何かを残したいときなんじゃない?」
「……そうかも」
遼は画面を消した。
ポケットにスマートフォンを入れる。
その動作の途中で、ロック画面に表示された日付が目に入った。
六月。
遼は一瞬だけ違和感を覚えた。
六月。
何かを思い出しそうになる。
雨。
白い服。
花。
誰かの手。
けれど、それ以上は出てこなかった。
「遼?」
「うん」
「また考え事?」
「最近、考え事が多いみたい」
「前からだよ」
「そうなの?」
「うん」
凛は当たり前のように答えた。
「遼は、いつも幸せについて考えてる」
「……俺が?」
「そう」
「そんなこと考えてた?」
「よく言ってたよ」
凛は少し笑った。
「『幸せって何なんだろう』って」
遼は言葉を失った。
それは、今の自分がまさに考えていることだった。
偶然なのだろうか。
それとも――。
「俺、変なこと言ってた?」
「いつも変なこと言ってる」
「ひどいな」
「でも、嫌いじゃないよ」
凛はそう言って、本を開いた。
遼はその横顔を見た。
好き。
その言葉が、自然に浮かんだ。
理由は分からない。
凛の顔が特別に好みだからでもない。
優しいからでもない。
一緒にいると楽しいからでもない。
ただ、好きだった。
その感情だけが、理由を必要とせずに存在していた。
遼は、そのことに少し驚いた。
恋愛というものは、相手の条件を比較して成立するものだと思っていた。
優しい。
面白い。
綺麗。
価値観が合う。
一緒にいて安心する。
そういう理由を積み上げて、最後に「好き」という答えが出る。
けれど実際には逆なのかもしれない。
好きという感情が先にあって、人は後から理由を探す。
理由は、感情の説明ではなく、感情に納得するための物語なのかもしれない。
「凛」
「なに?」
「俺のどこが好き?」
凛は本から目を離さなかった。
「急に何?」
「なんとなく」
「そういうところ」
「どういうところ?」
「急に変な質問するところ」
「それ、好きなところなの?」
「うん」
凛は顔を上げた。
「あと、変なことを考えてるのに、最後は普通のところ」
「意味が分からない」
「私も分からない」
二人とも笑った。
遼は思った。
もしかすると、恋愛に必要なのは「理解すること」ではないのかもしれない。
理解できない部分を残したまま、一緒にいられること。
相手のすべてを説明できなくても、その人の隣に座れること。
それを、人は「好き」と呼んでいるのではないか。
◇
その日の帰り、二人は駅前の喫茶店に入った。
店内は空いていた。
窓の外では、細い雨が降り始めていた。
「また雨だね」
凛が言った。
「最近、雨多くない?」
「梅雨だから」
「そういう問題?」
「そういう問題」
二人は窓際の席に座った。
遼はコーヒーを頼んだ。
凛も同じものを頼んだ。
運ばれてきたコーヒーから、湯気が立っていた。
凛はカップを両手で包んだ。
そして、少しだけ飲んだ。
一口。
それから、カップを置いた。
遼は思わず笑った。
「何?」
「いや」
「何か変?」
「コーヒー、一口しか飲まないんだな」
「いつもそうだよ」
「そうなんだ」
「知らなかった?」
「うん」
凛は首を傾げた。
「付き合って一年なのに?」
その言葉に、遼は何も返せなかった。
一年。
この世界では、二人は一年間付き合っている。
なのに、自分は彼女のそんな小さな癖を知らなかった。
いや。
正確には、知らなかったのは「今の自分」だ。
身体のどこかには、知っているのかもしれない。
彼女が何を注文するのか。
どんなときに笑うのか。
どんな言葉を嫌うのか。
どんなときに左耳に触れるのか。
そういう情報は、記憶ではなく習慣として身体に残っている。
だとしたら――。
自分は本当に何も知らないのだろうか。
「遼?」
「ごめん」
「何が?」
「分からない」
凛はしばらく遼を見つめた。
それから、静かに言った。
「無理に分からなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「分からないことって、そんなに悪いこと?」
遼は黙った。
凛は窓の外を見た。
雨が少し強くなっていた。
「私は、遼のこと全部分かるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「当たり前でしょ」
「一年付き合ってても?」
「一年付き合ってても」
「じゃあ、俺が何を考えてるか分からないときもある?」
「あるよ」
「今も?」
凛は少しだけ笑った。
「今は特に分からない」
遼も笑った。
その瞬間、胸の奥にあった緊張が少しほどけた。
分からなくてもいい。
その言葉は、思っていたよりも優しかった。
人間は、相手を理解したから愛するのではない。
理解できないところが残っていても、その人を大切にできる。
それこそが、他人と生きるということなのかもしれない。
◇
帰宅すると、遼は机の引き出しを開けた。
何かを探したわけではなかった。
ただ、なぜか開けたくなった。
中には、古いレシートや筆記用具、大学のプリントが入っている。
その一番奥に、小さな写真があった。
遼はそれを取り出した。
凛と自分が写っている。
二人とも笑っていた。
写真の裏には、日付が書かれている。
一年前。
その日付を見た瞬間、遼の頭の中に、別の光景が浮かんだ。
雨。
白いドレス。
花。
そして――。
「美咲」
名前が口から漏れた。
遼自身が驚いた。
忘れていた名前だった。
いや。
忘れたと思っていた名前だった。
心の奥底に沈んでいたものが、一瞬だけ水面に浮かび上がった。
遼は目を閉じた。
美咲。
誰だったのか。
自分にとって、どんな人だったのか。
大切だった。
それだけは分かる。
けれど、顔が思い出せない。
声も思い出せない。
何を話したのかも分からない。
ただ、「大切だった」という感情だけが残っている。
それは奇妙なことだった。
記憶が消えても、感情だけが残る。
ならば、人間の心にとって、本当に重要なのは記憶ではないのかもしれない。
出来事を覚えていることよりも、その出来事によって何を感じたかのほうが深いところに残る。
遼は写真を握った。
そのとき、背後から凛の声がした。
「何見てるの?」
遼は振り返った。
凛が立っていた。
「昔の写真」
「私?」
「うん」
「見せて」
遼は写真を渡した。
凛はそれを見て、少し笑った。
「懐かしいね」
「……そうだね」
本当は、懐かしいのは写真ではなかった。
この部屋。
この雨。
この女の子。
そして、胸の奥に残った誰かの名前。
全部が、どこかで繋がっている気がする。
けれど、その繋がりを言葉にした瞬間、何か大切なものが壊れてしまいそうだった。
だから遼は、何も言わなかった。
凛も何も聞かなかった。
ただ、二人で同じ写真を見ていた。
しばらくして、凛が写真を机に戻した。
「ねえ、遼」
「なに?」
「今日、幸せ?」
唐突な質問だった。
遼は凛を見た。
その問いを、昨日までの自分も聞かれていた気がした。
白い部屋で。
暗闇の中で。
誰かの隣で。
「……たぶん」
そう答えた。
凛は笑った。
「じゃあ、よかった」
「それだけ?」
「それだけ」
凛はそれ以上、何も言わなかった。
遼は窓の外を見た。
雨が降っている。
時計を見る。
十一時五十九分。
また、その数字だった。
遼は眉をひそめた。
昨日も。
今日も。
その前も。
どうしていつも、この時間なのだろう。
秒針が動く。
十一時五十九分。
あと一分で日付が変わる。
遼は時計を見つめた。
何かが起こるような気がした。
けれど、何も起こらない。
十二時になった。
ただ、それだけだった。
凛が欠伸をした。
「眠い」
「寝ようか」
「うん」
二人は立ち上がった。
遼は最後にもう一度、机の上の写真を見た。
写真の中で、凛が笑っている。
その隣で、自分も笑っている。
それは確かに幸福そうな二人だった。
遼は思った。
もし幸福が、環境によって決まるのなら。
もし幸福が、相手の性格によって決まるのなら。
もし幸福が、年齢やお金や生活によって決まるのなら。
自分は今、なぜ幸せなのだろう。
そして、なぜ昨日も幸せだったのだろう。
違う世界。
違う人生。
違う女性。
それなのに、心の奥にある感情だけが、どこか似ている。
遼はまだ、その意味を知らなかった。
ただ一つだけ、確かに感じていた。
幸福には、条件があるのではない。
もしかすると――
人間は、幸福になったあとで、その条件を作り出しているのかもしれない。
そしてその夜、遼は夢を見た。
白い部屋に、一人の女性が立っている。
顔は見えない。
けれど、彼女は左耳に触れていた。
遼が近づこうとすると、女性は言った。
「あなたは、私を知ってる?」
遼は答えようとした。
けれど、声が出なかった。
女性の手には、一杯のコーヒーがあった。
一口だけ飲まれたコーヒー。
その向こうで、時計が静かに時を刻んでいる。
十一時五十九分。
そして――。
世界が、また静かに次の一秒へ進んだ。




