第六章 世界02・大学生
朝の雨は、世界を少しだけ狭くする。
窓を開ければ、濡れたアスファルトの匂いが部屋まで入ってくる。遠くの建物は白い霧の向こうにぼやけ、通学する学生たちの傘だけが、道路の上をゆっくり移動していた。
遼は、窓の前に立ったまま、その景色を眺めていた。
大学生。
十九歳。
その二つの言葉が、まだ自分のものにならない。
鏡を見る。
そこにいるのは、二十九歳だったはずの男ではない。
十年分の時間が、身体から抜き取られている。
頬は少し細く、肌には疲れがなく、髪には白いものもない。
自分なのに、自分ではない。
人間は、顔を変えれば別人になれるのだろうか。
遼は考えた。
名前を変えたら。
年齢を変えたら。
仕事を変えたら。
住む場所を変えたら。
友人を変えたら。
記憶まで変わったら。
それでも、そこにいる人間は「自分」なのだろうか。
哲学の本なら、きっと難しい言葉で答えを出す。
けれど遼には、そんな言葉は必要なかった。
鏡の中の自分を見ているだけで、十分に分からなくなる。
「遼」
後ろから声がした。
振り返ると、凛が立っていた。
大学生になった遼の恋人。
昨日、そう名乗った少女。
凛は傘を持っていた。
「行かないの?」
「……大学?」
「そう」
「俺、大学生なんだよね」
「昨日から急にどうしたの?」
「昨日から?」
凛は少し不思議そうな顔をした。
「ずっと大学生でしょ」
「そうだったね」
遼は笑った。
笑えたことに、自分でも驚いた。
昨日までの自分なら、もっと混乱していたはずだった。
会社は。
結婚は。
美咲は。
そう問い詰めるはずだった。
けれど、不思議なことに、「美咲」という名前を思い浮かべても、以前ほど鮮明にはならなかった。
顔を思い出そうとすると、輪郭が曖昧になる。
声を思い出そうとすると、雨音に混ざって消える。
手の温度だけが、かろうじて残っている。
遼はそのことが怖かった。
忘れたくないと思えば思うほど、記憶は遠ざかっていく。
まるで、昨日までの人生が、最初から存在しなかったかのように。
「どうしたの?」
凛が聞いた。
「いや……なんでもない」
「変なの」
「よく言われる?」
「最近は特に」
凛はそう言って笑った。
笑い方まで、美咲とは違う。
美咲は声を出して笑った。
凛は、笑うときにほんの少しだけ目を細める。
その違いに、遼は安心した。
違う人なのだ。
そう思いたかった。
◇
大学までの道は、昨日まで知らなかった道なのに、足は自然に動いた。
身体が覚えている。
交差点を右に曲がる。
小さなコンビニの前を通る。
坂道を上る。
信号が赤なら立ち止まる。
頭では知らないのに、身体だけが知っている。
遼は歩きながら、そのことを不思議に思った。
人間の記憶は、頭の中だけに存在するものではないのかもしれない。
身体にも記憶がある。
歩き方。
箸の持ち方。
階段を上るときの足の順番。
誰かの隣を歩くときの距離。
それらは言葉にならないまま、身体の中に残っている。
では、もし記憶をすべて失っても、身体が覚えていたら、その人間はまだ「自分」なのだろうか。
「遼、今日静かだね」
凛が言った。
「そう?」
「いつもはもっと話す」
「俺、そんなに話す?」
「うるさいくらい」
「ひどいな」
「褒めてる」
「それ、褒めてないよ」
凛は少し笑った。
その笑顔を見て、遼も笑った。
その瞬間だった。
胸の奥に、妙な感覚が走った。
初めて見る笑顔なのに、知っている。
知らない人なのに、安心する。
遼は歩きながら、凛の横顔を見た。
彼女は前を向いている。
その左手が、髪を耳にかけた。
そして、左耳に一度だけ触れた。
遼の足が止まりそうになった。
昨日も見た。
いや。
昨日ではない。
もっと前。
ずっと前。
誰かが同じ仕草をしていた。
誰だった?
遼は必死に記憶を探した。
美咲。
その名前が浮かぶ。
けれど、顔が出てこない。
「遼?」
「……なんでもない」
「またそれ」
凛は少しだけ笑った。
「今日、変だよ」
「そうかも」
「じゃあ、帰りに病院寄る?」
「大げさだよ」
「じゃあ、カフェ」
「なんで病院とカフェが同じ選択肢なんだよ」
「どっちも座れるから」
遼は吹き出した。
こういうところが、妙におかしかった。
昨日までの人生にはなかった会話。
昨日までの人生にはいなかった人。
なのに、遼はその時間を嫌いではなかった。
むしろ、心地よかった。
そこで、ひとつの疑問が生まれた。
幸福というものは、過去との連続性から生まれるのだろうか。
それとも、今この瞬間に感じる心地よさだけで成立するのだろうか。
昨日までの自分を忘れてしまっても。
美咲を忘れてしまっても。
それでも今、凛といて幸せだと思うなら。
それは、本当に幸福なのだろうか。
それとも――。
遼は考えるのをやめた。
答えを急ぐ必要はない。
十九歳の人生は、始まったばかりなのだから。
◇
講義が終わったのは午後だった。
遼は大学の中庭にあるベンチに座っていた。
凛は隣で本を読んでいる。
会話はほとんどない。
それでも、気まずくなかった。
美咲とは違う。
美咲なら、きっと何か話している。
今日の昼ごはん。
教授の話。
帰りに寄る店。
テレビで見たくだらないニュース。
そういう、意味のない話。
凛は違った。
必要なことしか話さない。
沈黙を恐れない。
遼は、その違いを面白いと思った。
同じ「恋人」でも、関係の形はこんなにも違う。
人間は、相手によって自分まで変わる。
美咲といるときの自分。
凛といるときの自分。
どちらも自分なのだろう。
ならば、「本当の自分」というものは、どこにある?
一人でいるときの自分か。
誰かといるときの自分か。
あるいは、その全部を足し合わせたものなのか。
「遼」
「ん?」
凛が本から顔を上げた。
「コーヒー飲む?」
「飲む」
「砂糖は?」
「いらない。」
「覚えてる。」
その言葉に、遼は一瞬だけ胸を刺された。
覚えてる。
その言葉は、昨日の夜にも聞いた。
美咲の声で。
――私が覚えてる。
遼は目を伏せた。
凛が自動販売機へ向かう。
その背中を見ながら、遼は自分でも説明できない寂しさを感じていた。
幸せになることは、過去を捨てることなのだろうか。
新しい幸福を手に入れるためには、古い幸福を忘れなければならないのだろうか。
もしそうなら、人間は一生のうちに、いくつの幸福を捨てながら生きているのだろう。
凛が戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
缶コーヒーを受け取る。
二人で同時にプルタブを開けた。
小さな音が二つ重なった。
遼は一口飲んだ。
凛も一口飲んだ。
そして、彼女は缶を置いた。
一口しか飲んでいない。
遼は、その缶を見つめた。
胸の奥で、何かが静かに繋がった。
けれど、まだ言葉にはならなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この世界の幸福は、昨日までの幸福と同じ形をしていない。
それなのに。
遼は今、少しだけ幸せだった。




