第五章 最初の夜
朝が来る前の時間は、夜よりも深い。
遼は、夢の中で何度も目を覚ました。
目を覚ましたと思うたび、まだ夢の中にいた。
白い部屋。
雨の音。
美咲の手。
時計の数字。
それらが順番もなく現れては消えた。
あるとき、彼は自分がどこにいるのか分からなくなった。
自分は結婚したのか。
まだ結婚していないのか。
美咲は隣にいるのか。
それとも、どこか遠い場所にいるのか。
夢の中では、記憶は出来事ではなく、薄い膜のように重なっていた。
触れれば破れそうだった。
遼は、自分の記憶を守ろうとした。
美咲の顔。
声。
笑い方。
左耳に触れる癖。
コーヒーを一口だけ残すこと。
雨の日に歩く速度が少し遅くなること。
どれも大切だった。
けれど、大切だと思うほど、記憶は輪郭を失っていった。
まるで、手のひらで強く握った砂が、指の隙間からこぼれていくように。
遼は思った。
人間を人間たらしめるものは、記憶なのだろうか。
もし記憶を失えば、自分は自分ではなくなるのか。
それとも、記憶を失っても、同じ人を愛することができるなら、自分はまだ自分でいられるのか。
答えを探しているうちに、また電子音が鳴った。
今度は、すぐ近くで聞こえた。
短い音。
機械が何かを確認するような音。
遼は目を開けた。
◇
朝だった。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
遼はしばらく、天井を見ていた。
見慣れない天井だった。
白い壁。
小さな照明。
見覚えのない時計。
遼はゆっくりと身体を起こした。
身体が軽かった。
軽すぎた。
肩の重さがない。
腰の鈍い痛みもない。
昨日まで感じていた疲労が、きれいに消えている。
その代わり、胸の奥に、理由の分からない喪失感があった。
何かを忘れている。
大切な何かを。
遼はベッドの脇に置かれたスマートフォンを手に取った。
画面には、見知らぬ通知が並んでいた。
大学の講義。
サークルの連絡。
友人からのメッセージ。
遼は眉をひそめた。
大学。
その言葉に、現実感がなかった。
自分は会社員ではなかったか。
昨日まで、会社へ行っていたはずだ。
結婚式を終えたばかりではなかったか。
美咲と一緒に、雨の中を歩いたはずだ。
遼は慌てて、部屋の中を見回した。
机の上には教科書が置かれていた。
壁には大学の時間割が貼られていた。
クローゼットには、スーツではなく、シャツとジーンズが並んでいる。
部屋の隅には、見覚えのないリュックがあった。
そして、机の上の写真立てには、一人の女の子が写っていた。
長い髪。
白いシャツ。
少し伏せた目。
美咲ではなかった。
少なくとも、遼の知っている美咲ではなかった。
「遼」
背後から声がした。
遼は振り返った。
ドアのところに、女の子が立っていた。
年齢は、自分と同じくらいに見えた。
髪は肩のあたりで切りそろえられていて、表情は静かだった。美咲のように、朝から明るく話しかけてくる感じではない。
けれど、彼女は遼を見ると、ほんの少しだけ目を細めた。
「起きた?」
「……うん」
「今日、一限あるよ」
「一限?」
「寝ぼけてる?」
彼女はそう言って、左耳に触れた。
その仕草を見た瞬間、遼の胸が強く鳴った。
理由は分からなかった。
ただ、懐かしかった。
懐かしいはずがない。
彼女には初めて会った。
少なくとも、遼の記憶の中では。
「どうしたの?」
「いや……」
遼は言葉を探した。
彼女は誰なのか。
ここはどこなのか。
自分はなぜ、大学生になっているのか。
そして、美咲はどこにいるのか。
聞かなければならないことは、いくつもあった。
けれど、最初に口から出たのは、別の言葉だった。
「君、誰?」
彼女は驚いたように瞬きをした。
それから、少しだけ困った顔をした。
「凛」
「凛……」
「遼の彼女」
その言葉を聞いたとき、遼の中で何かが崩れた。
彼女。
その言葉は、昨日まで美咲のためにあった。
美咲と結婚した。
美咲と暮らしていた。
美咲の手を握って眠った。
その記憶は、確かにある。
確かにあるはずなのに、思い出そうとすると、遠い場所へ逃げていく。
遼は写真立てを見た。
写真の中の凛は、笑っていなかった。
けれど、その目には、遼の知らない親密さがあった。
長い時間を一緒に過ごした人間だけが持つ、静かな視線。
「俺たち、付き合ってるの?」
「付き合ってるよ」
「いつから?」
凛は少し考えた。
「一年くらい前」
一年。
その数字を聞いた瞬間、遼の頭の奥で、何かが点滅した。
一年。
結婚。
雨。
白い部屋。
十一時五十九分。
しかし、次の瞬間には、すべてが霧の中へ沈んだ。
凛は遼の顔を見つめていた。
「本当に大丈夫?」
「うん」
「病院、行く?」
「大丈夫だよ」
そう答えた声は、自分のものなのに、少し高かった。
遼は自分の手を見た。
指が細い。
手の甲にあった小さな傷がない。
身体は若返っていた。
それを理解したとき、恐怖より先に、奇妙な納得があった。
まるで、ずっと前からこの身体を知っていたような。
まるで、これが本来の自分であるような。
「遼」
凛が言った。
「今日、講義どうする?」
遼は窓の外を見た。
空は曇っていた。
雨が降りそうだった。
そのとき、凛が机の上に置かれたコーヒーを手に取った。
一口だけ飲んで、カップを置いた。
遼は息を止めた。
それは、美咲と同じだった。
左耳に触れる仕草。
コーヒーを一口残す癖。
説明できない懐かしさ。
目の前にいるのは、知らない女の子だった。
けれど遼の心は、彼女を知っていた。
知っているはずのない彼女を、ずっと前から知っていた。
「凛」
「なに?」
「俺たちは……」
遼はそこで言葉を止めた。
俺たちは、何なのか。
恋人なのか。
夫婦なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
凛は遼の顔を見たまま、静かに待っていた。
窓の外で、雨が一滴だけ落ちた。
遼は、昨日の夜に握った美咲の手を思い出そうとした。
けれど、その感触はもう、指の間からこぼれ始めていた。




