↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/18

第四章 結婚

結婚式の日の朝、遼は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。


隣には美咲がいなかった。


一瞬、胸の奥に薄い不安が広がった。

いつもなら、彼女は遼より少し早く起きて、カーテンを開け、窓の向こうの天気を確認している。

雨なら「今日は外に出たくないね」と言い、晴れていれば「洗濯しなきゃ」と言う。


そのどちらでもない朝は、どこか現実感がなかった。


けれど、洗面所のほうから、何かを落とした音がした。


「遼、起きてる?」


「起きてる」


「よかった。ネクタイ、どこに置いたか分からない」


「昨日、テーブルの上に置いた」


「テーブルの上には、遼の靴下しかないけど」


遼はベッドから起き上がった。


結婚式の日であっても、最初に探すものはネクタイではなく、脱ぎっぱなしの靴下だった。


それが少しおかしくて、遼は笑った。


「今日くらい、靴下を見ても笑わないでよ」


「今日だから笑うんだよ」


美咲はそう言って、遼の靴下を片方だけ持ち上げた。


彼女はいつもと同じ顔をしていた。


いつもと同じように髪が少し跳ねていて、

いつもと同じように寝起きの声をしていて、

いつもと同じように左耳に触れた。


その仕草を見て、遼はなぜか安心した。


結婚するというのに、彼が求めていたのは特別な美しさでも、運命を感じさせる言葉でもなかった。

いつも通りの美咲が、いつも通りにそこにいることだった。


人生が変わる日に、変わらないものがある。


それは、思っていたよりも大切なことなのかもしれない。


   ◇


式場に着くと、遼は急に他人の人生を見ているような気分になった。


白い壁。磨かれた床。花の匂い。受付で笑う親戚。見慣れないスタッフ。何度も頭を下げる係員。


すべてが自分のために用意されているのに、どこか自分のものではなかった。


「新郎様、こちらへお願いします」


そう呼ばれたとき、遼は一拍遅れて振り返った。


新郎。


その言葉は、昨日まで自分の人生にはなかった。


会社員。息子。友人。美咲の恋人。


そこに新しい名前が加わった。


新郎。


肩書きというものは、本人の内側を変えるより先に、周囲の人間の見方を変える。

遼はそのことを、今日初めて実感した。


係員は遼を見て、丁寧に微笑んだ。


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


そう答えながら、遼は考えた。


おめでとうございます、という言葉は、いったい何を祝っているのだろう。


美咲と出会ったことか。


美咲を選んだことか。


これから先も彼女を選び続けると決めたことか。


それとも、選ばなかった無数の可能性を、もう振り返らないことか。


結婚とは、二人が一緒になることだと、遼はこれまで思っていた。


けれど実際には、二人が一緒になると同時に、二人がならなかった人間たちを、

静かに置いていくことでもあるのかもしれない。


別の仕事を選んだ自分。


別の街に住んだ自分。


別の女性と出会った自分。


結婚しなかった自分。


それらはどこにも存在しない。存在しないから、失うこともできない。


それでも遼は、何かを失ったような気がした。


「遼」


振り返ると、美咲が立っていた。


白いドレスを着ていた。


その姿を見た瞬間、遼の中にあった考えは、ひどく簡単なものへと変わった。


きれいだ。


それだけだった。


哲学も、未来も、可能性も、選択も、すべてどうでもよくなった。


美咲がきれいだった。


そして、そのことを美咲に伝えると、彼女は少しだけ困った顔をした。


「今さら?」


「今さらだから」


「もっと早く言ってよ」


「今までだって言ってた」


「一回しか聞いてない」


「一回言ったなら、十分だろ」


「そういうところだよ」


美咲は笑った。


笑ったあと、少しだけ目を伏せた。


遼はその表情を見て、急に胸が苦しくなった。


美咲も緊張しているのだ。


自分と同じように、これから始まるものを恐れている。


結婚式は、幸せな人間だけが参加する儀式ではない。

幸せになれるかどうか分からない二人が、それでも幸せになると人前で宣言するための儀式なのだ。


遼はそう思った。


幸せだから結婚するのではない。


結婚することで、幸せになれると信じたいから結婚する。


その違いは、似ているようでまったく違っていた。


   ◇


式は、思っていたよりも早く進んだ。


誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが写真を撮った。


親戚の一人が美咲の名前を間違え、司会者がそれを聞き返し、会場の空気が一瞬だけ揺れた。


ケーキ入刀のとき、遼はナイフをどちらに傾ければいいのか分からず、美咲に小声で尋ねた。


「これ、右?」


「知らないよ」


「結婚式、初めて?」


「初めてに決まってるでしょ」


「経験者みたいな顔してるから」


「遼よりは落ち着いてるだけ」


写真撮影では、遼の笑顔が固くなった。


「もっと自然にしてください」と言われたが、遼には自然な笑顔というものが分からなかった。


結婚式で自然に笑うことなどできるのだろうか。


自分は今、人生の大きな節目にいる。


そのことを知っている人間が、どうして自然に笑えるのだろう。


けれど美咲は、カメラの向こうにいる誰かに向かって、いつものように笑った。


その笑顔を見ているうちに、遼の顔も少しずつ緩んだ。


幸福は、本人の内側から自然に湧き上がるものではなく、隣にいる誰かの表情を借りて、

ようやく自分の中に入ってくることがある。


遼はそんなことを考えた。


自分一人では笑えないとき、美咲が笑ってくれる。


美咲が不安なときは、自分が平気なふりをする。


二人でいるということは、感情を半分に分けることではない。


一人では持ちきれない感情を、交代で持つことなのかもしれなかった。


   ◇


式が終わるころ、外では雨が降り始めていた。


細い雨だった。


空は明るいのに、雨だけが静かに落ちていた。


「雨、降ってる」


美咲が窓の外を見て言った。


「傘、ある?」


「一本だけ」


「じゃあ、入れて」


「遼が持ってよ」


「新郎だから?」


「新郎は関係ない。」


二人は一本の傘に入った。


式場の前には、同じように傘を差した人たちが並んでいた。

誰もが誰かの隣にいて、誰もがそれぞれの生活へ戻っていく。


結婚式が終われば、結婚生活が始まる。


けれど結婚生活は、式場の外にある。


濡れた道路。


コンビニの明かり。


帰宅してから脱ぐ靴。


洗い物。


明日の仕事。


そういうものの中に、結婚は続いていく。


美咲が傘の柄を持つ遼の腕に、自分の腕を絡めた。


「今日、どうだった?」


「何が?」


「結婚式」


遼は少し考えた。


「疲れた」


「そこ?」


「あと、ケーキが甘かった」


「感想が現実的すぎる」


「美咲は?」


「私も疲れた。靴が痛い」


「じゃあ、同じだな」


「うん」


美咲はそう言って、遼の肩に頭を寄せた。


雨音が傘の上で小さく弾んでいた。


遼は、幸福というものは、もっと明るく、もっと強く、もっと分かりやすいものだと思っていた。


胸がいっぱいになり、涙が出て、世界のすべてが祝福しているように感じるもの。


けれど今、彼の中にあるのは、疲労と、甘すぎたケーキの記憶と、濡れた道路の匂いと、

美咲の体温だった。


それでも、これでいいと思った。


むしろ、これがいいと思った。


幸福は、人生から不快なものを取り除いた状態ではない。


不快なものが残ったままでも、それを誰かと共有できる状態なのかもしれない。


   ◇


家に帰ると、部屋は昨日までと同じだった。


ソファ。テーブル。読みかけの雑誌。冷蔵庫の音。


ただ、部屋の隅に、式場でもらった花が置かれていた。


美咲は靴を脱ぐと、深く息を吐いた。


「疲れた」


「お疲れさま」


「遼もね」


「ありがとう」


「なんか変」


「何が?」


「お互いに、お疲れさまって言ってる」


「今日から夫婦だから」


「夫婦になると、お疲れさまって言い合うものなの?」


「たぶん」


「たぶんばっかりだね」


美咲は笑いながら、裾を持ち上げた。


「着替えてくる」


「うん」


「遼」


「何?」


「今日のこと、覚えてる?」


遼は彼女を見た。


「覚えてるよ」


「全部?」


「全部は無理だろ。親戚の名前も何人か忘れた」


「そうじゃなくて」


美咲は少しだけ迷うように、左耳に触れた。


「今日のこと、ちゃんと覚えててね」


遼は、その言葉の意味を考えた。


結婚式のこと。


雨のこと。


甘いケーキ。


彼女の笑顔。


自分の緊張。


それらをすべて、記憶の中に保存しておくこと。


けれど記憶というものは、保存しようとした瞬間から変質していく。

強く覚えようとした出来事ほど、後になって輪郭を失う。

反対に、どうでもいいと思っていた場面だけが、何年も経ってから突然戻ってくる。


たとえば、今朝の靴下。


たとえば、彼女の寝起きの声。


たとえば、雨の音。


「覚えておく」


遼は言った。


「本当に?」


「本当に」


美咲は安心したように笑った。


「じゃあ、着替えてくるね」


彼女が部屋の奥へ消える。


遼は一人、花を見つめた。


花はきれいだった。


けれど、きれいであることと、長く残ることは別だった。


どれほど大切に扱っても、花は枯れる。


写真に残しても、写真の中の花は永遠に咲いているわけではない。

写真を見る人間がいなくなれば、その花もまた、意味を失う。


幸福も同じなのだろうか。


幸福は、長く続くことによって幸福なのか。


それとも、短くても幸福だったと感じられれば、それで十分なのか。


遼は答えを出せなかった。


答えを出せないまま、美咲が戻ってきた。


「遼、何してるの?」


「花を見てた」


「きれいだね」


「うん」


「でも枯れたら捨ててね」


「分かった」


「あと、明日から仕事だからね」


「分かってる」


「結婚したからって休みにならないんだから」


「分かってるって」


美咲は笑った。


そして、遼の隣に座った。


二人はしばらく、何も話さなかった。


話さなくても気まずくない時間が、いつの間にか二人の間にできていた。


遼は、その沈黙を幸福と呼んでもいいような気がした。


   ◇


夜になった。


時計は十一時五十九分を示していた。


遼はその数字を見て、なぜか目を止めた。


十一時五十九分。


昨日も、同じ時刻を見た気がする。


その前の日も。


けれど、いつ見たのかは思い出せなかった。


「どうしたの?」


美咲が尋ねた。


「いや、時計」


「壊れてる?」


「たぶん、壊れてない」


「じゃあ、何?」


「十一時五十九分だった」


「うん。もうすぐ十二時だね」


「昨日も、十一時五十九分だった気がする」


「昨日も同じ時間だからでしょ」


「そうだけど」


「時間は毎日同じように進むよ」


美咲は当たり前のことを言った。


遼はそれ以上、何も言わなかった。


十二時になる。


数字が変わる。


ただそれだけのことだった。


けれど、その瞬間、遼は自分の人生が何かの境目に立っているような気がした。


昨日までの自分と、今日からの自分。


恋人だった自分と、夫になった自分。


選択肢を持っていた自分と、選択した自分。


時間は一秒進んだだけなのに、意味だけが大きく変わっていく。


「遼」


「ん?」


「眠い?」


「少し」


「じゃあ、寝ようか」


「うん」


二人は寝室へ向かった。


美咲が照明を消す。


部屋が暗くなる。


遼は、暗闇の中で彼女の手を探した。


指先が触れる。


美咲の手が、遼の手を握り返した。


その温度は、いつもと同じだった。


それなのに、遼は突然、強い恐怖を覚えた。


この温度を失ったら、自分はどうなるのだろう。


美咲がいなくなったら。


この部屋がなくなったら。


今日という日を思い出せなくなったら。


幸福とは、手に入れた瞬間から失う恐怖を含んでいる。


だから人は、幸福を求めながら、幸福になることを恐れる。


失う可能性のないものは、最初からそれほど大切ではない。


遼はそう思った。


「美咲」


「なに?」


「俺、今、幸せかな」


暗闇の中で、美咲はすぐには答えなかった。


「どうしてそんなこと聞くの?」


「なんとなく」


「今日、結婚したのに?」


「結婚したから聞きたくなった」


美咲は小さく笑った。


「たぶん、幸せなんじゃない?」


「たぶん?」


「だって、幸せかどうかなんて、そのときは分からないでしょ」


「じゃあ、いつ分かるの?」


「あとになってからじゃない?」


遼は黙った。


あとになってから。


幸福は、その瞬間には完成しない。


過ぎ去った時間を振り返り、その中に意味を見つけたとき、初めて幸福だったと知る。


「じゃあ、今日のことも、あとで幸せだったって思うのかな」


「思うよ」


「どうして分かるの?」


「私がいるから」


美咲は、当たり前のように言った。


「私が覚えてるから。遼が忘れても、私が覚えてる」


その言葉を聞いて、遼は目を閉じた。


記憶は一人の中にだけ存在するものではないのかもしれない。


誰かが覚えていてくれることで、自分の過去は自分の外側にも残る。


自分が自分であることを証明するものは、自分の記憶だけではない。


自分を知っている誰かの中に、自分の過去が生きている。


「おやすみ、遼」


「おやすみ、美咲」


美咲の手が、少しだけ強く握られた。


遼はその感触を覚えておこうとした。


けれど、覚えようとした瞬間、意識の奥で小さな音が鳴った。


電子音のような音だった。


一度。


間を置いて、もう一度。


遼は目を開けようとした。


しかし、まぶたは重かった。


暗闇の向こうに、白い部屋が浮かんだ。


何もない部屋。


窓も、扉も、家具もない。


ただ、白い光だけがあった。


誰かが尋ねている。


あなたは、幸せですか。


遼は答えようとした。


幸せです、と。


けれど声が出なかった。


代わりに、どこか遠くで、美咲の声がした。


――覚えていてね。


遼は手を伸ばした。


けれど、触れたのは冷たい空気だった。


そして、時計の数字が変わった。


十一時五十九分から、十二時へ。


世界は、何事もなかったように次の日へ進んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。