第四章 結婚
結婚式の日の朝、遼は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
隣には美咲がいなかった。
一瞬、胸の奥に薄い不安が広がった。
いつもなら、彼女は遼より少し早く起きて、カーテンを開け、窓の向こうの天気を確認している。
雨なら「今日は外に出たくないね」と言い、晴れていれば「洗濯しなきゃ」と言う。
そのどちらでもない朝は、どこか現実感がなかった。
けれど、洗面所のほうから、何かを落とした音がした。
「遼、起きてる?」
「起きてる」
「よかった。ネクタイ、どこに置いたか分からない」
「昨日、テーブルの上に置いた」
「テーブルの上には、遼の靴下しかないけど」
遼はベッドから起き上がった。
結婚式の日であっても、最初に探すものはネクタイではなく、脱ぎっぱなしの靴下だった。
それが少しおかしくて、遼は笑った。
「今日くらい、靴下を見ても笑わないでよ」
「今日だから笑うんだよ」
美咲はそう言って、遼の靴下を片方だけ持ち上げた。
彼女はいつもと同じ顔をしていた。
いつもと同じように髪が少し跳ねていて、
いつもと同じように寝起きの声をしていて、
いつもと同じように左耳に触れた。
その仕草を見て、遼はなぜか安心した。
結婚するというのに、彼が求めていたのは特別な美しさでも、運命を感じさせる言葉でもなかった。
いつも通りの美咲が、いつも通りにそこにいることだった。
人生が変わる日に、変わらないものがある。
それは、思っていたよりも大切なことなのかもしれない。
◇
式場に着くと、遼は急に他人の人生を見ているような気分になった。
白い壁。磨かれた床。花の匂い。受付で笑う親戚。見慣れないスタッフ。何度も頭を下げる係員。
すべてが自分のために用意されているのに、どこか自分のものではなかった。
「新郎様、こちらへお願いします」
そう呼ばれたとき、遼は一拍遅れて振り返った。
新郎。
その言葉は、昨日まで自分の人生にはなかった。
会社員。息子。友人。美咲の恋人。
そこに新しい名前が加わった。
新郎。
肩書きというものは、本人の内側を変えるより先に、周囲の人間の見方を変える。
遼はそのことを、今日初めて実感した。
係員は遼を見て、丁寧に微笑んだ。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
そう答えながら、遼は考えた。
おめでとうございます、という言葉は、いったい何を祝っているのだろう。
美咲と出会ったことか。
美咲を選んだことか。
これから先も彼女を選び続けると決めたことか。
それとも、選ばなかった無数の可能性を、もう振り返らないことか。
結婚とは、二人が一緒になることだと、遼はこれまで思っていた。
けれど実際には、二人が一緒になると同時に、二人がならなかった人間たちを、
静かに置いていくことでもあるのかもしれない。
別の仕事を選んだ自分。
別の街に住んだ自分。
別の女性と出会った自分。
結婚しなかった自分。
それらはどこにも存在しない。存在しないから、失うこともできない。
それでも遼は、何かを失ったような気がした。
「遼」
振り返ると、美咲が立っていた。
白いドレスを着ていた。
その姿を見た瞬間、遼の中にあった考えは、ひどく簡単なものへと変わった。
きれいだ。
それだけだった。
哲学も、未来も、可能性も、選択も、すべてどうでもよくなった。
美咲がきれいだった。
そして、そのことを美咲に伝えると、彼女は少しだけ困った顔をした。
「今さら?」
「今さらだから」
「もっと早く言ってよ」
「今までだって言ってた」
「一回しか聞いてない」
「一回言ったなら、十分だろ」
「そういうところだよ」
美咲は笑った。
笑ったあと、少しだけ目を伏せた。
遼はその表情を見て、急に胸が苦しくなった。
美咲も緊張しているのだ。
自分と同じように、これから始まるものを恐れている。
結婚式は、幸せな人間だけが参加する儀式ではない。
幸せになれるかどうか分からない二人が、それでも幸せになると人前で宣言するための儀式なのだ。
遼はそう思った。
幸せだから結婚するのではない。
結婚することで、幸せになれると信じたいから結婚する。
その違いは、似ているようでまったく違っていた。
◇
式は、思っていたよりも早く進んだ。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが写真を撮った。
親戚の一人が美咲の名前を間違え、司会者がそれを聞き返し、会場の空気が一瞬だけ揺れた。
ケーキ入刀のとき、遼はナイフをどちらに傾ければいいのか分からず、美咲に小声で尋ねた。
「これ、右?」
「知らないよ」
「結婚式、初めて?」
「初めてに決まってるでしょ」
「経験者みたいな顔してるから」
「遼よりは落ち着いてるだけ」
写真撮影では、遼の笑顔が固くなった。
「もっと自然にしてください」と言われたが、遼には自然な笑顔というものが分からなかった。
結婚式で自然に笑うことなどできるのだろうか。
自分は今、人生の大きな節目にいる。
そのことを知っている人間が、どうして自然に笑えるのだろう。
けれど美咲は、カメラの向こうにいる誰かに向かって、いつものように笑った。
その笑顔を見ているうちに、遼の顔も少しずつ緩んだ。
幸福は、本人の内側から自然に湧き上がるものではなく、隣にいる誰かの表情を借りて、
ようやく自分の中に入ってくることがある。
遼はそんなことを考えた。
自分一人では笑えないとき、美咲が笑ってくれる。
美咲が不安なときは、自分が平気なふりをする。
二人でいるということは、感情を半分に分けることではない。
一人では持ちきれない感情を、交代で持つことなのかもしれなかった。
◇
式が終わるころ、外では雨が降り始めていた。
細い雨だった。
空は明るいのに、雨だけが静かに落ちていた。
「雨、降ってる」
美咲が窓の外を見て言った。
「傘、ある?」
「一本だけ」
「じゃあ、入れて」
「遼が持ってよ」
「新郎だから?」
「新郎は関係ない。」
二人は一本の傘に入った。
式場の前には、同じように傘を差した人たちが並んでいた。
誰もが誰かの隣にいて、誰もがそれぞれの生活へ戻っていく。
結婚式が終われば、結婚生活が始まる。
けれど結婚生活は、式場の外にある。
濡れた道路。
コンビニの明かり。
帰宅してから脱ぐ靴。
洗い物。
明日の仕事。
そういうものの中に、結婚は続いていく。
美咲が傘の柄を持つ遼の腕に、自分の腕を絡めた。
「今日、どうだった?」
「何が?」
「結婚式」
遼は少し考えた。
「疲れた」
「そこ?」
「あと、ケーキが甘かった」
「感想が現実的すぎる」
「美咲は?」
「私も疲れた。靴が痛い」
「じゃあ、同じだな」
「うん」
美咲はそう言って、遼の肩に頭を寄せた。
雨音が傘の上で小さく弾んでいた。
遼は、幸福というものは、もっと明るく、もっと強く、もっと分かりやすいものだと思っていた。
胸がいっぱいになり、涙が出て、世界のすべてが祝福しているように感じるもの。
けれど今、彼の中にあるのは、疲労と、甘すぎたケーキの記憶と、濡れた道路の匂いと、
美咲の体温だった。
それでも、これでいいと思った。
むしろ、これがいいと思った。
幸福は、人生から不快なものを取り除いた状態ではない。
不快なものが残ったままでも、それを誰かと共有できる状態なのかもしれない。
◇
家に帰ると、部屋は昨日までと同じだった。
ソファ。テーブル。読みかけの雑誌。冷蔵庫の音。
ただ、部屋の隅に、式場でもらった花が置かれていた。
美咲は靴を脱ぐと、深く息を吐いた。
「疲れた」
「お疲れさま」
「遼もね」
「ありがとう」
「なんか変」
「何が?」
「お互いに、お疲れさまって言ってる」
「今日から夫婦だから」
「夫婦になると、お疲れさまって言い合うものなの?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだね」
美咲は笑いながら、裾を持ち上げた。
「着替えてくる」
「うん」
「遼」
「何?」
「今日のこと、覚えてる?」
遼は彼女を見た。
「覚えてるよ」
「全部?」
「全部は無理だろ。親戚の名前も何人か忘れた」
「そうじゃなくて」
美咲は少しだけ迷うように、左耳に触れた。
「今日のこと、ちゃんと覚えててね」
遼は、その言葉の意味を考えた。
結婚式のこと。
雨のこと。
甘いケーキ。
彼女の笑顔。
自分の緊張。
それらをすべて、記憶の中に保存しておくこと。
けれど記憶というものは、保存しようとした瞬間から変質していく。
強く覚えようとした出来事ほど、後になって輪郭を失う。
反対に、どうでもいいと思っていた場面だけが、何年も経ってから突然戻ってくる。
たとえば、今朝の靴下。
たとえば、彼女の寝起きの声。
たとえば、雨の音。
「覚えておく」
遼は言った。
「本当に?」
「本当に」
美咲は安心したように笑った。
「じゃあ、着替えてくるね」
彼女が部屋の奥へ消える。
遼は一人、花を見つめた。
花はきれいだった。
けれど、きれいであることと、長く残ることは別だった。
どれほど大切に扱っても、花は枯れる。
写真に残しても、写真の中の花は永遠に咲いているわけではない。
写真を見る人間がいなくなれば、その花もまた、意味を失う。
幸福も同じなのだろうか。
幸福は、長く続くことによって幸福なのか。
それとも、短くても幸福だったと感じられれば、それで十分なのか。
遼は答えを出せなかった。
答えを出せないまま、美咲が戻ってきた。
「遼、何してるの?」
「花を見てた」
「きれいだね」
「うん」
「でも枯れたら捨ててね」
「分かった」
「あと、明日から仕事だからね」
「分かってる」
「結婚したからって休みにならないんだから」
「分かってるって」
美咲は笑った。
そして、遼の隣に座った。
二人はしばらく、何も話さなかった。
話さなくても気まずくない時間が、いつの間にか二人の間にできていた。
遼は、その沈黙を幸福と呼んでもいいような気がした。
◇
夜になった。
時計は十一時五十九分を示していた。
遼はその数字を見て、なぜか目を止めた。
十一時五十九分。
昨日も、同じ時刻を見た気がする。
その前の日も。
けれど、いつ見たのかは思い出せなかった。
「どうしたの?」
美咲が尋ねた。
「いや、時計」
「壊れてる?」
「たぶん、壊れてない」
「じゃあ、何?」
「十一時五十九分だった」
「うん。もうすぐ十二時だね」
「昨日も、十一時五十九分だった気がする」
「昨日も同じ時間だからでしょ」
「そうだけど」
「時間は毎日同じように進むよ」
美咲は当たり前のことを言った。
遼はそれ以上、何も言わなかった。
十二時になる。
数字が変わる。
ただそれだけのことだった。
けれど、その瞬間、遼は自分の人生が何かの境目に立っているような気がした。
昨日までの自分と、今日からの自分。
恋人だった自分と、夫になった自分。
選択肢を持っていた自分と、選択した自分。
時間は一秒進んだだけなのに、意味だけが大きく変わっていく。
「遼」
「ん?」
「眠い?」
「少し」
「じゃあ、寝ようか」
「うん」
二人は寝室へ向かった。
美咲が照明を消す。
部屋が暗くなる。
遼は、暗闇の中で彼女の手を探した。
指先が触れる。
美咲の手が、遼の手を握り返した。
その温度は、いつもと同じだった。
それなのに、遼は突然、強い恐怖を覚えた。
この温度を失ったら、自分はどうなるのだろう。
美咲がいなくなったら。
この部屋がなくなったら。
今日という日を思い出せなくなったら。
幸福とは、手に入れた瞬間から失う恐怖を含んでいる。
だから人は、幸福を求めながら、幸福になることを恐れる。
失う可能性のないものは、最初からそれほど大切ではない。
遼はそう思った。
「美咲」
「なに?」
「俺、今、幸せかな」
暗闇の中で、美咲はすぐには答えなかった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
「今日、結婚したのに?」
「結婚したから聞きたくなった」
美咲は小さく笑った。
「たぶん、幸せなんじゃない?」
「たぶん?」
「だって、幸せかどうかなんて、そのときは分からないでしょ」
「じゃあ、いつ分かるの?」
「あとになってからじゃない?」
遼は黙った。
あとになってから。
幸福は、その瞬間には完成しない。
過ぎ去った時間を振り返り、その中に意味を見つけたとき、初めて幸福だったと知る。
「じゃあ、今日のことも、あとで幸せだったって思うのかな」
「思うよ」
「どうして分かるの?」
「私がいるから」
美咲は、当たり前のように言った。
「私が覚えてるから。遼が忘れても、私が覚えてる」
その言葉を聞いて、遼は目を閉じた。
記憶は一人の中にだけ存在するものではないのかもしれない。
誰かが覚えていてくれることで、自分の過去は自分の外側にも残る。
自分が自分であることを証明するものは、自分の記憶だけではない。
自分を知っている誰かの中に、自分の過去が生きている。
「おやすみ、遼」
「おやすみ、美咲」
美咲の手が、少しだけ強く握られた。
遼はその感触を覚えておこうとした。
けれど、覚えようとした瞬間、意識の奥で小さな音が鳴った。
電子音のような音だった。
一度。
間を置いて、もう一度。
遼は目を開けようとした。
しかし、まぶたは重かった。
暗闇の向こうに、白い部屋が浮かんだ。
何もない部屋。
窓も、扉も、家具もない。
ただ、白い光だけがあった。
誰かが尋ねている。
あなたは、幸せですか。
遼は答えようとした。
幸せです、と。
けれど声が出なかった。
代わりに、どこか遠くで、美咲の声がした。
――覚えていてね。
遼は手を伸ばした。
けれど、触れたのは冷たい空気だった。
そして、時計の数字が変わった。
十一時五十九分から、十二時へ。
世界は、何事もなかったように次の日へ進んだ。




