第三章 幸福の予約
プロポーズをする日を決めるのは、思っていたより難しかった。
誕生日では特別すぎる。
クリスマスでは、街のイルミネーションに負ける気がする。
だからといって、何でもない平日にプロポーズするのも味気ない。
遼は会社の昼休みにスマートフォンを眺めながら、カレンダーを何度も指でスクロールしていた。
四月。
五月。
六月。
七月。
八月。
どの日にも、それぞれの理由があった。
そして、どの日にも、決定的な理由がなかった。
「何してるの?」
向かいの席から同僚の田辺が覗き込んできた。
「予定見てる」
「仕事の予定?」
「まあ、そんなところ」
「嘘つくとき、目が泳ぐよな」
「泳いでない」
「めちゃくちゃ泳いでる」
田辺は笑った。
遼はスマートフォンを伏せた。
「プロポーズ?」
「……なんで分かった?」
「顔」
「顔?」
「昨日からずっと変」
「どう変?」
「幸せそうなのに、死刑判決を待ってる人みたい」
遼は思わず笑った。
「例えが悪すぎるだろ」
「でも似てる」
田辺は弁当の唐揚げを箸でつまんだ。
「結婚って、そんな怖い?」
「怖いというか……」
遼は言葉を探した。
「決めるじゃん」
「何を?」
「これからのこと」
「みんな決めるだろ」
「でも、決めた瞬間に他の可能性を捨てることになる」
田辺は唐揚げを口に入れた。
しばらく咀嚼してから、
「それ、結婚じゃなくて人生の話じゃん」
と言った。
遼は返事をしなかった。
たぶん、その通りだった。
結婚が怖いわけではない。
人生を一つに決めてしまうことが怖い。
もし別の人生を選んでいたら。
もし別の場所に住んでいたら。
もし別の仕事をしていたら。
もし別の人と出会っていたら。
人間は、そういう「もし」をいくつも捨てながら生きている。
だからこそ、選んだ人生を愛する必要がある。
遼はそう思っていた。
けれど、その考え方にはどこか奇妙なところがある。
選ばなかった人生があるから、今の人生を大切にする。
では、選ばなかった人生を全部忘れることができたら。
人はもっと幸福になれるのだろうか。
「お前さ」
田辺が言った。
「考えすぎなんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。彼女が好きなんだろ?」
「好き」
「じゃあ、結婚すればいい」
「そんな簡単じゃない」
「何が?」
遼は答えなかった。
田辺には分からない。
自分にも分からない。
ただ、遼はずっと、
幸福とは「これ以上望むものがない状態」なのだと思っていた。
だから、怖い。
これ以上望まなくなったら。
その先には何があるのだろう。
人間は、何かを望んでいる間だけ生きているのではないか。
もっと良い仕事。
もっと大きな家。
もっと多くのお金。
もっと長い休暇。
もっと深い愛。
そして最後に、
もっと幸せになりたい。
幸福を手に入れてしまったら、
「もっと」がなくなる。
それは、死に似ている気がした。
もちろん、そんなことを美咲に言ったことはない。
言えるはずもない。
だから遼は、
「プロポーズするなら、いつがいいと思う?」
と田辺に聞いた。
田辺は即答した。
「今日」
「今日?」
「思いついたなら今日」
「そんな簡単に?」
「人生なんて、だいたいそんなもんだよ」
田辺は笑った。
「明日死ぬかもしれないし」
「縁起でもないな」
「だから今日」
遼は笑った。
けれど、その言葉だけは妙に残った。
今日。
今日という日は、明日になれば昨日になる。
当たり前のことなのに、急に恐ろしいほど美しいことのように思えた。
その日の午後。
遼は仕事をしながら、何度も時計を見た。
五時。
五時半。
六時。
六時十五分。
退勤時刻を過ぎても、しばらく席を立てなかった。
机の上の書類は片付いている。
メールも返信した。
仕事は終わっている。
それなのに、帰ることが怖かった。
帰れば、美咲がいる。
プロポーズをする。
返事をもらう。
人生が変わる。
そんなことを考える。
六時五十九分。
遼は立ち上がった。
七時。
会社を出た。
駅へ向かう途中、小さな花屋が目に入った。
赤い薔薇。
白い百合。
黄色いチューリップ。
店先に並んでいる。
遼は足を止めた。
プロポーズといえば花だろうか。
でも、美咲は花を飾る習慣がない。
水を替えるのも面倒だと言う。
それでも、特別な日くらい花があってもいい。
そう思って店に入った。
「何かお探しですか?」
「プロポーズに……」
そこまで言って、遼は恥ずかしくなった。
店員は微笑んだ。
「おめでとうございます」
遼は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
花束を受け取った。
帰り道、花の香りがした。
冬の冷たい空気の中で、その匂いだけが妙に生々しかった。
生きているものの匂いだと思った。
家に着く。
玄関のドアを開ける。
「おかえり」
「ただいま」
いつもの声。
いつもの部屋。
いつもの美咲。
遼は一瞬、立ち止まった。
何も変わっていない。
なのに、
自分だけが何かを知ってしまったような気がした。
「どうしたの?」
「いや」
遼は花束を背中に隠した。
「何か隠してる?」
「隠してない」
「隠してる人の言い方」
美咲が近づいてくる。
遼は笑った。
「夕飯は?」
「カレー」
「やった」
「あと、サラダ」
「それはいらない」
「食べなさい」
いつもの会話だった。
遼は思った。
もしかすると、プロポーズなんてしなくてもいいのではないか。
今のままでいい。
このまま何年も一緒にいればいい。
結婚という形式など必要ない。
そう思った。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
美咲は結婚したいと言った。
自分も結婚したいと言った。
ならば、怖いからという理由だけで立ち止まってはいけない。
遼は花束をテーブルに置いた。
「これ」
「何?」
「花」
「見れば分かる」
「そうじゃなくて」
「私に?」
「うん」
美咲は花束を見た。
そして遼を見た。
「今日?」
「今日」
「何かの日だっけ?」
「何もない」
「じゃあ、なんで?」
遼は深呼吸した。
「何もない日だから」
美咲の表情が少し変わった。
遼は続けた。
「記念日とか誕生日とかじゃなくて、普通の日に言いたかった」
「どうして?」
「普通の日のほうが、たぶん俺たちらしいから」
美咲は黙った。
遼は膝をつかなかった。
指輪も出さなかった。
ただ、立ったまま彼女を見た。
「美咲」
「うん」
「俺と結婚してください」
静かだった。
あまりにも静かだったので、冷蔵庫のモーター音まで聞こえた。
美咲は何も言わない。
遼の心臓だけが、うるさかった。
失敗したかもしれない。
もっとちゃんとした言い方があったのではないか。
もっと感動的な場所がよかったのではないか。
夜景。
レストラン。
海。
ホテル。
映画みたいなプロポーズ。
そんなものを期待していたのではないか。
遼は急に不安になった。
「……嫌?」
美咲が首を横に振った。
「違う」
「じゃあ」
「嬉しい」
美咲は笑った。
泣いてはいなかった。
ただ、少しだけ目を細めていた。
「遅い」
「ごめん」
「七年」
「うん」
「七年待った」
「ごめん」
「でも」
美咲は花束を抱えた。
「待った甲斐があった」
その言葉を聞いた瞬間、遼の胸の奥にあった何かがほどけた。
幸福とは、もしかすると、
こういうことなのかもしれない。
何かを手に入れることではなく、
誰かに「待っていた」と言ってもらえること。
「よろしくお願いします」
美咲が言った。
「こちらこそ」
二人は笑った。
それから夕飯を食べた。
カレーは少し辛かった。
サラダは結局、遼も食べた。
食後、美咲は花を花瓶に生けた。
花瓶の位置を少し変えたり、角度を調整したりしている。
遼はソファからそれを眺めていた。
「ねえ」
「何?」
「結婚式、どうする?」
「したい?」
「美咲は?」
「遼がしたいならする」
「俺はどっちでも」
「じゃあ、しよう」
「どうして?」
「一回くらい、主役になってみたい」
「もう十分主役じゃない?」
「誰の?」
「俺の」
美咲が笑った。
「そういうこと、もっと言えばいいのに」
「恥ずかしいから無理」
「結婚したら言える?」
「たぶん」
「じゃあ、結婚しよう」
「うん」
それから二人は、結婚式について話した。
どんな料理がいい。
誰を呼ぶ。
写真はどうする。
旅行はどこへ行く。
新しい家はどうする。
子どもは。
仕事は。
老後は。
未来の話は、不思議だった。
話している間は、未来が本当に存在しているように思える。
まるで予約できるもののように。
来年。
十年後。
二十年後。
その日になれば、今日話した未来が自分たちの前に現れる。
遼はそう思った。
そして、その考えが少しだけ怖かった。
人間は未来を予約することができない。
できるのは、
予約したつもりになることだけだ。
それでも人は、未来について話す。
家を買う。
旅行を予約する。
結婚式場を押さえる。
子どもの名前を考える。
明日も生きていることを、
当たり前のように仮定する。
それは愚かなことなのだろうか。
それとも、人間が幸福になるために必要な、
小さな嘘なのだろうか。
時計を見る。
十一時五十九分。
遼は何となく時計を見つめた。
秒針が動く。
十一時五十九分五十秒。
五十一。
五十二。
五十三。
美咲が隣から言った。
「どうしたの?」
「いや……」
五十七。
五十八。
五十九。
午前零時。
日付が変わった。
遼は笑った。
「何でもない」
「変なの」
美咲も笑った。
遼はその笑顔を見た。
そして思った。
今日から、自分たちは婚約者になる。
明日からは結婚の準備をする。
その先には、結婚式がある。
その先には、二人で暮らす未来がある。
その先にも、きっと人生がある。
何十年も。
ずっと。
遼はその未来を想像した。
白髪になった美咲。
年を取った自分。
同じ家。
同じ食卓。
少しずつ減っていく友人。
増えていく病院の診察券。
そして最後には――。
そこまで考えて、遼は思考を止めた。
最後のことを考える必要はない。
今はまだ。
今は、
幸福なのだから。
「おやすみ」
美咲が言った。
「おやすみ」
二人は寝室へ向かった。
電気を消す。
暗闇。
美咲の手が遼の手を探した。
指が触れる。
そして、絡まる。
遼は目を閉じた。
幸福は、手のひらに収まるほど小さい。
そう思った。
その夜、遼は深く眠った。
夢は見なかった。
ただ、眠りに落ちる直前。
どこか遠くで、
小さな電子音が一度だけ鳴った。
ピッ。
遼はそれに気づかなかった。
そして翌朝も、
世界は何事もなかったように、
同じ朝を迎えることになっていた。




