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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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2/21

第二章 プロポーズ

 その日の夜、遼はケーキを買って帰った。


 駅前の小さな洋菓子店で、ショートケーキを二つ。


 箱を受け取ったとき、店員から「おめでとうございます」と言われた。


 遼は少し戸惑った。


「まあ、まだなんですけどね」


 思わずそう答えると、店員は笑った。


「じゃあ、これからですね」


 何が「これから」なのか、遼にはよく分からなかった。


 結婚のことなのか。


 それとも、二人の人生のことなのか。


 あるいは、ただケーキを買った人間に対する社交辞令なのか。


 けれど、その言葉が妙に心に残った。


 これから。


 その言葉には、不思議な響きがあった。


 人間はいつも未来を「これから」と呼ぶ。


 今日までを過去にして、明日を未来にする。


 そして、その間にある細い線の上を歩いている。


 遼は、紙袋を片手に駅から自宅まで歩いた。


 冬の空気は冷たかった。


 吐いた息が白くなる。


 街路樹の枝には葉がほとんど残っていない。


 それでも、街は明るかった。


 コンビニ。


 居酒屋。


 ドラッグストア。


 交差点。


 信号待ちをする人々。


 それぞれが、それぞれの「これから」を抱えている。


 誰かは結婚する。


 誰かは離婚する。


 誰かは子どもを産む。


 誰かは会社を辞める。


 誰かは病気になる。


 誰かは明日、宝くじに当たるかもしれない。


 誰も知らない。


 それなのに、人は明日の予定を決める。


 それが少しだけ不思議だった。


 遼はマンションのエントランスに入った。


 エレベーターのボタンを押す。


 鏡に自分の顔が映る。


 普通の顔だった。


 特別に幸せそうでもない。


 不幸そうでもない。


 ただ、今日一日を終えようとしている男の顔だった。


 エレベーターが来る。


 扉が開く。


 遼は乗り込んだ。


 そのときだった。


 なぜか、胸の奥に小さな不安が生まれた。


 理由はない。


 ただ、


 ――何かを決めてしまう。


 そんな感覚があった。


 結婚のことだろう。


 そう思った。


 結婚を決める。


 人生を決める。


 誰かと一緒に生きることを決める。


 それは幸福なことだ。


 幸福なはずだ。


 なのに、どうしてこんなにも、


 「決める」


 という言葉が怖いのだろう。


 部屋に戻ると、美咲はソファに座ってテレビを見ていた。


「おかえり」


「ただいま」


「ケーキ?」


「買ってきた」


「やった」


 美咲は子どものように笑った。


 その笑顔を見ていると、さっきまでの不安が馬鹿らしく思えてきた。


「何買ったの?」


「ショートケーキ」


「二つとも?」


「うん」


「えー、チョコケーキは?」


「今日はない」


「じゃあ、明日はチョコケーキ」


「結婚したら毎日ケーキになるな」


「それは太る」


「幸せ太りするんじゃない?」


「幸せでも太るのは嫌」


 二人で笑った。


 夕飯を食べた。


 テレビを見た。


 くだらない番組に笑った。


 美咲はソファで寝てしまった。


 遼はその横で本を読んだ。


 ページをめくる音だけが部屋に響いていた。


 こういう夜が、遼は好きだった。


 何も起こらない夜。


 誰も傷つかない夜。


 明日も同じ朝が来ると信じられる夜。


 それなのに。


 その「同じ」が、少し怖い。


 遼は本を閉じた。


 隣で眠っている美咲を見る。


 七年前。


 彼女と出会った日のことを思い出そうとした。


 ――思い出せない。


 正確には、覚えている。


 駅。


 雨。


 傘。


 美咲が笑っていた。


 ただ、それだけだった。


 どうして好きになったのか。


 いつから好きになったのか。


 どちらから告白したのか。


 思い出そうとすると、記憶が薄い霧の向こうへ逃げていく。


 遼は眉を寄せた。


 七年も付き合っているのだから、そんなこともあるのかもしれない。


 人間の記憶なんて、案外いい加減だ。


 重要だったはずの瞬間より、どうでもいい一日のほうが鮮明に残っていることもある。


 初めて手を繋いだ日のことは思い出せない。


 でも、三年前のある休日に二人で食べたプリンの味は覚えている。


 なぜか。


 理由なんてない。


 人生というものは、そういうものなのかもしれない。


「……遼」


 美咲が目を覚ました。


「起きた?」


「うん……」


「寝てたよ」


「知ってる」


「寝言も言ってた」


「何て?」


「秘密」


「気になる」


「じゃあ教えない」


 美咲は眠そうに笑った。


 そして、また遼の肩にもたれた。


 遼は動かなかった。


 肩が少し重い。


 でも、その重さが心地よかった。


 しばらくして、美咲が言った。


「ねえ」


「ん?」


「本当に結婚してくれる?」


 遼は少しだけ黙った。


「するよ」


「なんか間があった」


「考えてただけ」


「何を?」


「結婚したら何が変わるのかなって」


 美咲は少し考えた。


「苗字?」


「それは変わるかもしれない」


「住所?」


「それも変わるかもしれない」


「戸籍?」


「たぶん」


「じゃあ、変わるじゃん」


「そういう話じゃなくて」


 美咲は笑った。


「じゃあ、どういう話?」


 遼は答えられなかった。


 自分でも分からない。


 結婚したら、


 今の自分ではなくなる気がする。


 それが怖いのかもしれない。


 あるいは、


 今の幸福を「幸福だった」と過去形にしてしまうのが怖いのかもしれない。


 今はまだ、二人は恋人だ。


 明日も恋人でいられる。


 来週も。


 来月も。


 きっと来年も。


 けれど結婚すると、


 「恋人だった時間」が完成してしまう。


 完成したものは、終わりに向かっているように見える。


 遼はそんなことを考えていた。


 けれど、口にはしなかった。


「……美咲」


「なに?」


「俺から言いたい」


「何を?」


「ちゃんと、プロポーズ」


 美咲が顔を上げた。


「今?」


「今じゃない」


「じゃあいつ?」


「考える」


「また考えるんだ」


「大事なことだから」


「そっか」


 美咲は嬉しそうだった。


 その表情を見て、遼は思った。


 自分が考えていることなど、どうでもいいのかもしれない。


 幸せというものは、頭の中で定義するものではない。


 こうして誰かが笑っている。


 その笑顔を見て、自分も嬉しい。


 それだけでいいのかもしれない。


 遼は美咲の髪を軽く撫でた。


「じゃあ、期待してる」


「そんなに期待しないで」


「どんなプロポーズにするの?」


「普通」


「つまらない」


「普通が一番だろ」


「私は、普通が一番嫌い」


「じゃあ、どういうのがいい?」


 美咲は少し考えた。


 そして、


「覚えていられるやつ」


 と言った。


「覚えていられるやつ?」


「うん。十年後でも、二十年後でも思い出せるやつ」


 遼は黙った。


 十年後。


 二十年後。


 その言葉を頭の中で繰り返した。


 その頃、自分たちはどうなっているだろう。


 子どもがいるだろうか。


 家を買っているだろうか。


 仕事を続けているだろうか。


 白髪になっているだろうか。


 喧嘩しているだろうか。


 仲直りしているだろうか。


 そして、


 まだ一緒にいるだろうか。


「……うん」


 遼は答えた。


「覚えてるやつにする」


 美咲は笑った。


「約束ね」


「約束」


 小指を差し出された。


 遼も小指を絡めた。


 子どもの頃以来だった。


 くだらない。


 そう思った。


 でも、悪くなかった。


 むしろ、


 とても大切なことのように思えた。


 指を離したあと、美咲が言った。


「おやすみ」


「おやすみ」


 部屋の明かりを消した。


 暗闇の中で、美咲の寝息が聞こえる。


 遼は目を閉じた。


 十年後。


 二十年後。


 そのさらに先。


 そんな未来を想像しながら眠ろうとした。


 けれど、なかなか眠れなかった。


 理由は分からない。


 ただ胸の奥で、


 何かが静かに時間を数えているような気がした。


 一。


 二。


 三。


 そんなふうに。


 何かが終わりに近づいているような。


 そんな気配だけがあった。


 午前零時を過ぎたころ。


 遼はようやく眠りについた。


 その夜、夢を見た。


 真っ白な部屋に、誰かが立っている。


 顔は見えない。


 その人が遼に尋ねる。


「あなたは、幸せですか?」


 遼は答えようとした。


 けれど、声が出なかった。


 代わりに、遠くで電子音が鳴った。


 ピッ。


 そして、


 世界が一瞬だけ暗くなった。


 遼は目を覚ました。


 朝だった。


 隣では美咲が眠っている。


 窓の外は、昨日と同じ冬の空だった。


 遼はしばらく天井を見つめた。


 夢の内容は、もうほとんど覚えていなかった。


 ただ、一つだけ。


 誰かに質問されたことだけが残っていた。


 ――あなたは、幸せですか?


 遼は答えを考えた。


 そして、


 たぶん。


 と、心の中で答えた。


 その答えに、自分でも少し驚いた。


 「はい」ではなかった。


 「たぶん」だった。


 それでも遼は、起き上がった。


 朝食を作るために。


 美咲のコーヒーを淹れるために。


 今日もまた、昨日と同じ一日を始めるために。


 そのときはまだ、


 その一日が二人にとって、


 どれほど特別な一日になるのかを知らなかった。


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