第一章 幸福な朝
幸福な朝には、たいてい何の音もしない。
少なくとも、佐伯遼はそう思っていた。
目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。
カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる。
隣では、美咲がまだ眠っている。
それだけだった。
鳥が歌うわけでもない。
天使が空から降りてくるわけでもない。
世界中の人間が、自分たちの幸福を祝福してくれるわけでもない。
ただ、朝が来る。
遼は枕元の時計を見た。
六時五十五分。
いつもより少し早い。
隣を見る。
美咲は、掛け布団を肩まで引き上げて眠っていた。長い髪が頬にかかっている。
七年間、何度も見てきた寝顔だった。
付き合い始めたころは、この寝顔を見るだけで胸が苦しくなるほど嬉しかった。
今は、少しだけ安心する。
その違いを、遼はときどき考える。
恋が冷めたということではない。
むしろ逆だった。
美咲が隣にいることが、あまりにも自然になってしまったのだ。
歯を磨くことと同じくらい。
朝にカーテンを開けることと同じくらい。
冷蔵庫を開けて牛乳を確認することと同じくらい。
自然だった。
「……遼」
背中を向けたまま、美咲が言った。
「起きてる?」
「起きてる」
「何時?」
「六時五十五分」
「早い」
「美咲が寝坊してるだけじゃない?」
「五分前までなら寝坊じゃない」
「その理屈は初めて聞いた」
「今作った」
美咲は目を閉じたまま笑った。
遼も笑った。
こういう会話が好きだった。
意味がない。
結論もない。
人生を変えるような言葉でもない。
それでも、こういう言葉が一日を作っている気がする。
遼はベッドから出た。
床が冷たい。
冬の朝だった。
キッチンへ行き、電気ケトルのスイッチを入れる。
その音を聞きながら、遼はふと思った。
――幸せって、こういうことなのだろうか。
自分でも驚くほど、唐突な疑問だった。
湯が沸くまでの数十秒。
遼は何となく窓の外を見た。
向かいのマンション。
その隣のコンビニ。
道路を走る車。
自転車に乗った学生。
どこにでもある朝だった。
どこにでもある人生。
そして、自分はその人生を、かなり気に入っている。
仕事がある。
家がある。
友達もいる。
大きな病気もない。
借金もない。
そして、好きな人が隣で眠っている。
幸福になるための条件なら、もう十分すぎるほど揃っている。
なのに。
遼は、ときどき思う。
幸福というものは、手に入れた瞬間から、失うことを考え始めるのではないか、と。
幸せな人間は、幸せだから怖い。
この生活がいつまで続くのか。
明日も美咲が隣にいるのか。
自分が病気になったら。
美咲が病気になったら。
会社が潰れたら。
事故に遭ったら。
ある日突然、何かが壊れたら。
幸福とは、壊れていない状態なのではないか。
だとしたら。
幸福とは、最初から壊れる可能性を含んでいる。
「コーヒー」
背後から声がした。
振り返ると、美咲が立っていた。
髪はぼさぼさで、片方の靴下だけを履いている。
「私の分」
「もちろん」
遼は二つのマグカップを並べた。
美咲は椅子に座った。
そしてコーヒーを一口飲む。
いつものように。
ほんの少しだけ残した。
遼はそれを見て、笑った。
「何?」
「いや」
「笑ったでしょ」
「毎回一口残すなと思って」
「最後の一口って、なんか嫌じゃない?」
「コーヒーに最後の一口も何もないだろ」
「あるの」
「なんで?」
「知らない」
美咲はそう言って、残ったコーヒーを見つめた。
遼は思った。
こういうところも好きだ。
理由を説明できないところ。
理屈では理解できないのに、なぜか分かるところ。
人を好きになるというのは、たぶんそういうことなのだろう。
説明できない。
説明できないから、好きなのかもしれない。
「ねえ」
美咲が言った。
「ん?」
「遼ってさ」
「うん」
「結婚したら、幸せになれると思う?」
遼は一瞬、返事ができなかった。
美咲は何気なく言ったように見えた。
しかし、その言葉は遼の胸の奥に、妙に正確な場所を見つけて落ちた。
「急だな」
「そう?」
「そうだよ」
「七年付き合ってるんだから、急でもないでしょ」
「それは……そうだけど」
「じゃあ、どう思う?」
遼はコーヒーを飲んだ。
少し冷めていた。
「結婚したら、何か変わるのかな」
「変わらないんじゃない?」
「変わらない?」
「うん」
美咲は考えるように窓の外を見た。
「結婚した後も、朝起きて、顔洗って、仕事行って、帰ってきて、ご飯食べて、寝るんでしょ?」
「まあ」
「だったら、そんなに変わらないよ」
「でも、夫婦になる」
「今だって、ほとんど夫婦みたいなものでしょ」
「ほとんどって何?」
「ほとんどは、ほとんど」
美咲は笑った。
遼も笑った。
それから、少し沈黙した。
静かな朝だった。
遼は美咲の横顔を見る。
七年前。
初めて会ったときには、この人と結婚するなどとは考えもしなかった。
そのときの自分にとって、美咲はただの女性だった。
少し変わっていて。
よく笑って。
人の話を最後まで聞かないくせに、自分の話を聞いてもらえないと少し怒る。
そんな女性。
七年経っても、その印象はあまり変わっていない。
変わったのは、彼女に対する自分の距離だけだった。
他人だった人が、生活になった。
生活だったものが、日常になった。
そして日常は、いつしか人生と呼ばれるようになっていた。
「ねえ、遼」
「ん?」
「私、結婚したいよ」
今度は、はっきりと言った。
冗談ではなかった。
遼は美咲を見た。
美咲も遼を見ている。
その目には、不安も期待も、ほんの少しだけ混ざっていた。
遼は突然、自分がひどく残酷なことを考えているような気がした。
この人は、自分と人生を作りたいと言っている。
それなのに自分は、その人生がいつか壊れることばかり考えている。
「……俺も」
言葉が出てきた。
「俺も、したい」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、しようよ」
あまりにも簡単に言うので、遼は笑った。
「そんなコンビニで新商品買うみたいに言うなよ」
「だって、もう七年だよ?」
「そうだけど」
「遅いくらい」
美咲は立ち上がった。
遼はその背中を見ながら思った。
幸せなのだろう。
きっと。
これ以上、何が必要なのだろう。
お金も。
仕事も。
愛も。
家も。
未来も。
もう、ある。
だからこそ遼は、ほんの少しだけ怖かった。
幸福というものは、何かを手に入れることではなく、
『失いたくないものが増えていくことなのではないか』
そう思った瞬間。
窓の外で、遠くから電車の音が聞こえた。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
いつもの音だった。
美咲が振り返る。
「遼」
「ん?」
「今日、帰りにケーキ買ってきて」
「何で?」
「結婚するから」
「まだしてないだろ」
「予約」
「何の?」
「幸せの」
美咲は笑った。
遼も笑った。
そのときの遼は知らなかった。
幸福には、予約できないことを。
そしてこの朝が、
彼が覚えている人生の中で、
最後の「普通の朝」になることを。




