第十章 世界03・金持ち
目を覚ましたとき、天井が高かった。
それが最初に思ったことだった。
前の世界では、天井など意識したこともなかった。
十九歳の遼が暮らしていた部屋は、古いアパートの一室だった。
少し手を伸ばせば壁に届きそうな狭さで、雨の日には窓の隙間から湿った空気が入り込んできた。
凛は、その部屋を気に入っていた。
遼も、いつの間にか好きになっていた。
けれど今、遼の頭上にある天井は、そんな記憶を笑うように高かった。
白い。
広い。
そして、何もない。
ベッドから身体を起こす。
柔らかい。
柔らかすぎる。
身体が沈み込み、立ち上がるまでに少し時間がかかった。
部屋を見回す。
大きな窓。
厚いカーテン。
床には見たこともないほど高そうな絨毯。
壁際には、意味が分からないほど大きなテレビ。
机の上には腕時計が置かれていた。
手に取る。
自分の名前が刻まれていた。
――佐伯遼。
名前は同じだった。
それだけで、なぜか少し安心した。
けれど。
名前が同じだから、自分は同じ人間なのだろうか。
そんな疑問が、以前よりも自然に浮かぶようになっていた。
鏡を見る。
そこにいたのは、十九歳の自分ではなかった。
少し大人びた顔。
三十五歳くらいに見える。
髪型も違う。
服装も違う。
左手には、見覚えのない時計。
スマートフォンを見ると、通知がいくつも届いていた。
会社。
秘書。
取引先。
銀行。
ニュース。
知らない言葉がいくつも並んでいる。
そして、その中に一件だけ、他とは違う通知があった。
――玲奈:今日、夜は何時に帰れそう?
遼は、その名前を見つめた。
玲奈。
知らない。
なのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。
その感覚だけは知っていた。
誰かを待っているときの感覚。
誰かに会えると知ったときの感覚。
誰かが自分を待っているかもしれない、という感覚。
「……玲奈」
声に出してみる。
名前は、思ったよりも簡単に口から出た。
まるでずっと呼んできた名前のように。
◇
朝食は、ホテルのようだった。
テーブルには料理が何品も並んでいた。
パン。
卵料理。
果物。
スープ。
見たことのない料理まである。
目の前に座っていた女性が、新聞を閉じた。
「おはよう」
「……おはよう」
玲奈。
それが彼女だった。
三十三歳。
長い髪。
整った顔立ち。
服装も、話し方も、すべてが隙なく整っている。
凛とはまるで違う。
美咲とも違う。
けれど。
玲奈は、考え込むように左耳へ指を触れた。
一瞬。
遼の心臓が止まりそうになった。
――まただ。
なぜだろう。
そう思った。
けれど、理由は分からない。
「どうしたの?」
「いや……」
遼は首を振った。
「なんでもない」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
代わりにコーヒーを一口飲んだ。
そして、カップを置いた。
残ったコーヒーは、ほんの少し。
遼はそれを見ていた。
見てしまっていた。
理由は分からない。
ただ、それが懐かしかった。
誰かがいつもコーヒーを残していた。
誰だっただろう。
美咲。
……凛。
その二つの名前が、頭の中で重なった。
遼は目を閉じる。
胸の奥に、雨の匂いがした。
古いアパート。
小さなテーブル。
一つの傘。
凛の声。
そして、結婚。
全部が遠い。
夢だったような気がする。
「遼?」
玲奈の声で目を開けた。
「ぼーっとしてる」
「少し考え事をしてた」
「仕事?」
「たぶん」
玲奈は小さく笑った。
「あなた、仕事のことばかり考えてるものね」
「そうなの?」
「そうよ」
その言い方には、少しだけ寂しさがあった。
遼は気づいた。
この女性は、自分のことをよく知っている。
自分も、この女性を知っているはずだった。
けれど、その知識だけが、自分の中から抜け落ちている。
奇妙だった。
目の前にいる人間よりも、その人間と過ごしたはずの「過去」のほうが知らない。
「俺たちって……」
遼は言いかけた。
「何?」
「いや」
聞けなかった。
どうして自分たちは一緒にいるのか。
いつから付き合っているのか。
なぜ結婚していないのか。
なぜ玲奈は、自分のことをそんな目で見るのか。
聞けば、答えは返ってくるだろう。
けれど。
答えを聞いたところで、自分の記憶になるわけではない。
他人から教えられた過去は、自分の過去なのだろうか。
遼はふと思った。
人間は、自分が覚えている人生しか生きられない。
だとしたら。
忘れてしまった人生は、本当に自分の人生だったと言えるのだろうか。
◇
車に乗った。
運転手がいる。
後部座席は広かった。
窓の外を眺めながら、遼は街を見ていた。
高層ビル。
高級店。
大きな広告。
人々が忙しそうに歩いている。
世界は変わっていない。
けれど、自分の立っている場所だけが違った。
会社に着くと、何人もの人間が頭を下げた。
「社長、おはようございます」
社長。
その言葉に、遼は一瞬だけ足を止めた。
自分は社長なのか。
どうやらそうらしい。
父親から引き継いだ会社。
資産。
地位。
人脈。
何でも手に入る。
そういう人生なのだろう。
会議では、誰も遼に反対しなかった。
意見を言う者はいた。
しかし、最終的には遼の言葉で決まる。
昼食には高価な料理が並んだ。
仕事が終われば、秘書が明日の予定を確認する。
時計を見る。
午後十一時三十二分。
まだ仕事が残っている。
ふと、机の上の写真に目が止まった。
玲奈だった。
二人で写っている。
笑っている。
幸せそうに見える。
けれど。
遼には、その写真を見たときの感情が分からなかった。
写真の中の自分は笑っている。
玲奈も笑っている。
それなのに。
今の自分は、少しも笑えなかった。
幸せそうに見えることと。
幸せであることは。
同じではない。
そんな当たり前のことを、なぜか今まで知らなかった気がした。
◇
夜。
帰宅すると、玲奈はリビングにいた。
「遅かったね」
「ごめん」
「別に」
玲奈はテレビを見ていた。
けれど、遼が座ると音量を少し下げた。
「疲れた?」
「少し」
「お風呂、先に入る?」
「玲奈は?」
「私はもう入った」
そんな会話だった。
特別なことは何もない。
なのに。
遼は、不思議な気持ちになった。
豪華な家。
高価な家具。
好きなものを好きなだけ買える生活。
何かに困ることなど、ほとんどない。
それなのに。
この部屋は、凛の部屋よりずっと広いのに。
なぜか少しだけ、狭く感じた。
「玲奈」
「ん?」
「幸せ?」
玲奈は黙った。
すぐには答えなかった。
左耳に触れる。
そして、少し考えてから言った。
「どうして急にそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
「遼って、たまに変なこと聞くよね」
「そう?」
「うん」
玲奈は笑った。
それから窓の外を見た。
遠くのビルの明かりが、夜の街に無数に浮かんでいる。
「幸せよ」
「……そうなんだ」
「でも」
玲奈は続けた。
「幸せだからって、満たされるとは限らないんじゃない?」
遼は黙った。
「変な話だけど」
玲奈は少し笑った。
「欲しいものが全部手に入ると、次に何を欲しがればいいのか分からなくなるのよ」
その言葉は、妙に胸に残った。
貧しかった世界では、百円で買えるものが幸福になった。
この世界では、百万円のものでも買える。
それでも、人間の心は満たされない。
では。
幸福とは、手に入れたものの量ではないのだろうか。
ならば。
幸福とは、一体どこにあるのだろう。
「遼」
「ん?」
「明日、早いんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、もう寝よう」
「うん」
二人は立ち上がった。
その瞬間。
リビングの時計が目に入った。
――11:59。
秒針が動く。
十一時五十九分五十八秒。
五十九秒。
そして。
零時。
カチッ。
小さな音がした。
遼は、なぜかその音を知っていた。
もっと前にも聞いた。
何度も。
何度も。
けれど、その「何度も」が、どれほどの回数なのかは分からない。
ただ。
胸の奥で、誰かが囁いた。
――もうすぐ終わる。
遼は振り返った。
玲奈は、もう廊下の向こうにいた。
「どうしたの?」
「……いや」
遼は時計を見た。
零時。
何も起きない。
当然だ。
何も起きるはずがない。
ここは自分の人生なのだから。
そう思った。
けれど。
その夜、眠りに落ちる直前。
遼は、また白い部屋にいた。
何もない。
音もない。
ただ、正面に誰かが座っている。
顔は見えない。
声だけが聞こえる。
「あなたは、幸せですか?」
遼は答えようとした。
けれど。
その瞬間、別の声が聞こえた。
――お金があれば幸せになれる?
その声が消えると、白い部屋も消えた。
最後に見えたのは。
テーブルの上に置かれた、一杯のコーヒーだった。
そして。
飲みかけのまま、少しだけ残っていた。




