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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第十一章 お金で買えないもの

 金で買えるものは、思っていたよりも多かった。


 腹が減れば、好きなものを好きなだけ食べられる。


 遠くへ行きたければ、飛行機に乗ればいい。


 嫌な人間とは、付き合わなければいい。


 欲しいものがあれば、値札を見る必要もない。


 時間さえ、ある程度なら買うことができる。


 自分の代わりに誰かに仕事をしてもらえばいい。


 面倒な手続きを誰かに任せればいい。


 掃除も、料理も、移動も。


 金は、人間が人生の中で「やりたくないこと」を、かなりの範囲まで引き受けてくれる。


 だから遼は思った。


 もしかすると。


 金持ちというのは、幸福な人間なのではなく、


 『不幸になる理由を減らせる人間なのかもしれない』


 けれど。


 不幸になる理由を減らしたところで。


 幸福になるとは限らない。


 そのことを、遼は少しずつ理解し始めていた。


   ◇


「今日、時間ある?」


 玲奈がそう言ったのは、朝食の途中だった。


「夜なら」


「じゃあ、食事に行こう」


「どこ?」


「決めてない」


「珍しいな」


 玲奈は笑った。


「たまには決めないのもいいでしょ」


 その日の夜。


 二人は車に乗った。


 運転手が行き先を尋ねる。


 玲奈は少し考えてから答えた。


「……適当に走って」


 運転手は一瞬だけ戸惑ったが、「かしこまりました」と答えた。


 窓の外を街の明かりが流れていく。


 遼はその景色を眺めながら、ふと凛のことを思い出した。


 あの小さな部屋。


 二人で何を食べるか決めるだけでも、ずいぶん時間がかかった。


 高いものは買えなかった。


 だからこそ、何を買うかを真剣に考えた。


 スーパーで安い弁当を二つ買って。


 どちらの味にするかで少し揉めて。


 結局、凛が「半分ずつにしよう」と言った。


 あのとき。


 遼は笑った。


 理由もなく。


 今思えば、あれは幸福だったのかもしれない。


 けれど。


 当時の自分は、それを幸福だとは思っていなかった。


 幸福というものは。


 後から名前をつけられることのほうが多いのかもしれない。


「何考えてるの?」


 玲奈が聞いた。


「昔のこと」


「昔?」


「ああ」


 遼は窓の外を見た。


「前の……」


 そこまで言って、言葉を止めた。


 前の世界。


 そんな言葉が喉まで出かかった。


「前の?」


 玲奈が不思議そうに見る。


「いや。昔の恋人のことを思い出してた」


 自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。


 玲奈は黙った。


 車内に、静かな時間が流れた。


「その人のほうが好きだった?」


「分からない」


 遼は正直に答えた。


「分からないって?」


「今の俺には、何が本当の記憶なのか、よく分からないんだ」


 玲奈は遼を見た。


 少しだけ眉を寄せる。


「変なの」


「そうだな」


「でも」


 玲奈は窓の外に目を戻した。


「分からないなら、分からないままでいいんじゃない?」


「いいのかな」


「過去って、答え合わせするためにあるものじゃないでしょ」


 遼は黙った。


「その人といた時間が幸せだったなら、それでいいんじゃない?」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


 凛。


 そして。


 美咲。


 二人の名前が、遠い記憶の中で重なった。


 どちらも自分にとって大切だった。


 その事実だけは、不思議なほど確かだった。


   ◇


 食事をした。


 高級なレストランだった。


 料理は美しかった。


 味も申し分なかった。


 店員の対応も完璧だった。


 窓から見える夜景は、絵葉書のようだった。


「おいしい?」


 玲奈が聞いた。


「うん」


「本当に?」


「本当」


 玲奈は笑った。


 しかし。


 その笑顔は、どこか寂しそうだった。


「どうした?」


「別に」


「何かあるだろ」


「……遼は、こういうところ好き?」


「嫌いじゃない」


「そう」


 玲奈はナイフとフォークを置いた。


「私はね」


「うん」


「こういうところに来るたびに思うの」


 彼女は少しだけ間を置いた。


「お金って、すごいなって」


「どういう意味?」


「自分が働かなくても、誰かが一生懸命作ったものを食べられる」


 遼は黙って聞いていた。


「すごく便利よね」


「そうだな」


「でも」


 玲奈は小さく笑った。


「便利と幸せって、同じじゃないんだよね」


 その言葉が、妙に静かだった。


 大きなレストランなのに。


 周囲ではたくさんの人が話しているのに。


 二人のテーブルだけ、世界から切り離されたように感じた。


「じゃあ、何が幸せなんだろう」


 遼が言った。


「分からない」


 玲奈は即答した。


「分からないんだ」


「うん」


「それでも?」


「それでも」


 玲奈は遼を見た。


「幸せになりたいとは思うよ」


 その目は真剣だった。


「でも、幸せになろうとすると、いつも何かを間違える気がする」


「何を?」


「幸せになるために、お金を稼いだり、仕事を頑張ったり、いい家に住んだり、

 いいものを食べたりするでしょう?」


「うん」


「そうしているうちに」


 玲奈は少し笑った。


「幸せになるための人生が、いつの間にか人生そのものになっちゃう」


 遼は返す言葉がなかった。


 幸福を手に入れるために生きる。


 そのために時間を使う。


 その時間を失ったことに気づかない。


 幸福とは何かを考える暇がなくなる。


 なんという皮肉だろう。


   ◇


 帰り道。


 雨が降り始めた。


 窓ガラスに雨粒が当たる。


 遼は、その音を聞いていた。


 なぜか懐かしかった。


「雨、好き?」


 玲奈が聞いた。


「……たぶん」


「たぶん?」


「昔、雨の日に好きな人と歩いた気がする」


「昔の人?」


「ああ」


 玲奈は笑った。


「じゃあ、私とは?」


「え?」


「私とは、雨の日に歩いたことない?」


 遼は考えた。


 分からない。


 思い出せない。


 けれど。


「ある気がする」


 そう答えた。


「気がするだけ?」


「うん」


「そっか」


 玲奈は、それ以上聞かなかった。


 車が赤信号で止まる。


 窓の外で、傘を差した人たちが歩いている。


 その中に、若い男女がいた。


 一つの傘に二人で入っている。


 男が傘を持っている。


 女が少しだけ男の肩に寄っている。


 特別な光景ではない。


 どこにでもある。


 だからこそ。


 遼は目を離せなかった。


 幸せというものは。


 もしかすると、ああいうものなのかもしれない。


 高価なものでも。


 大きな成功でも。


 誰かに羨まれる人生でもない。


 ただ。


 雨の中で、一つの傘に二人で入る。


 それだけ。


 それだけなのに。


 その時間を失いたくないと思う。


 その瞬間を、誰かと共有したいと思う。


 それを幸福と呼ぶのかもしれない。


「遼」


「ん?」


「何か欲しいものある?」


 玲奈が聞いた。


「今?」


「うん」


 遼は考えた。


 この世界なら、ほとんど何でも買える。


 欲しい車。


 家。


 時計。


 旅行。


 服。


 食事。


 自由。


 時間。


 けれど。


「……ないな」


 そう答えた。


「何も?」


「うん」


 玲奈は少し笑った。


「それなら、いいじゃん」


「そうかな」


「だって」


 玲奈は窓の外を見た。


「欲しいものがないって、結構幸せじゃない?」


 遼は、その言葉について考えた。


 確かにそうかもしれない。


 けれど。


 欲しいものがないことと。


 満たされていることは。


 同じではない。


 欲望が消えただけかもしれない。


 諦めただけかもしれない。


 あるいは。


 本当に満たされているのかもしれない。


 人間の心は、自分自身でさえ簡単には分からない。


   ◇


 家に着いた。


 玲奈は先に車を降りた。


 遼も続く。


 玄関の前で、玲奈が振り返った。


「今日、楽しかった?」


「うん」


「本当に?」


「本当」


「ならよかった」


 玲奈は笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 遼は思った。


 この人も。


 この世界も。


 たぶん、悪くない。


 むしろ。


 とても恵まれている。


 何も足りないようには見えない。


 それなのに。


 玲奈は、幸福を探している。


 自分も、幸福を探している。


 前の世界でも。


 その前の世界でも。


 そして今も。


 まるで。


 自分たちは何かを探し続けているようだった。


 何を探しているのかは、分からない。


 ただ。


 探している。


 そのことだけが、妙にはっきりしていた。


 寝室へ向かう途中。


 廊下の時計が目に入った。


 ――11:59。


 遼は足を止めた。


 まただ。


 この時間。


 どうして、こんなにも気になるのだろう。


 秒針が進む。


 五十七。


 五十八。


 五十九。


 そして。


 零時。


 カチッ。


 音がした。


 遼は目を閉じた。


 すると。


 どこか遠くから、女性の声が聞こえた気がした。


 ――遼。


 誰の声だろう。


 美咲?


 凛?


 それとも。


 玲奈?


 目を開ける。


 そこには誰もいない。


 ただ。


 廊下の先にある鏡に、自分の姿が映っていた。


 三十五歳の男。


 高価な服。


 高価な時計。


 何不自由のない生活。


 そして。


 どこか寂しそうな顔。


 遼は鏡の中の自分を見つめた。


「俺は……」


 言葉が出てこなかった。


 幸福なのか。


 不幸なのか。


 それすら分からない。


 ただ。


 その夜、眠る直前に一つだけ分かったことがあった。


 『幸福には、値札がついていない』


 だから。


 いくら払えば手に入るのかも。


 いつ手に入ったのかも。


 誰にも分からない。


 そして遼はまだ知らなかった。


 この世界で最も高価なものが。


 金では決して買えないものだということを。


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