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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第十二章 大喧嘩

 人間は、相手を幸せにしたいと思う。


 少なくとも、遼はそう思っていた。


 好きな人が笑っていると、自分まで嬉しくなる。


 好きな人が困っていると、助けたくなる。


 好きな人が欲しいと言ったものを、与えたくなる。


 それは愛情と呼ばれるものなのだろう。


 けれど。


 その「与えたい」という気持ちは、ときどき奇妙な方向へ進んでしまう。


 相手が何を望んでいるのかを聞く前に。


 自分が「相手にとって幸せだ」と思うものを、与えようとしてしまう。


 幸福とは。


 本人が決めるものなのに。


   ◇


「来月の予定だけど」


 玲奈が朝食の席で言った。


「うん」


「三日間、空けておいて」


「どこか行くの?」


「旅行」


「どこへ?」


「海外」


 遼は少し驚いた。


「急だな」


「前から言ってたでしょ」


「そうだっけ」


「言った」


 玲奈はスマートフォンを操作した。


「ホテルも取ってある」


「もう?」


「うん」


 遼は笑った。


「さすが玲奈だな」


「何それ」


「いや、決めるの早いなって」


「遼は遅すぎるのよ」


 玲奈は笑った。


 そのときは、それだけだった。


 少なくとも。


 遼はそう思っていた。


   ◇


 その日の昼。


 会社で一件の報告があった。


 玲奈が以前から進めていた仕事が、予定より早く終わりそうだという。


 遼は嬉しかった。


 玲奈はその仕事を大切にしていた。


 だから、帰宅するとすぐに言った。


「玲奈、仕事のほう、うまくいってるみたいだな」


「うん」


「よかった」


「ありがとう」


「じゃあ、旅行の日程、変更しよう」


 玲奈の手が止まった。


「……どうして?」


「仕事、忙しくなるだろ?」


「なるけど」


「じゃあ、無理して行かなくていいよ」


「無理してないよ」


「でも」


「行きたいって言ったの、私だよ」


「分かってる」


「じゃあ、なんで?」


 遼は少し考えた。


「玲奈が大変そうだから」


 その瞬間。


 玲奈の表情が変わった。


「……大変そう?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「どういう意味?」


「仕事が忙しいなら、旅行なんて行かなくてもいいだろ」


「行きたいって言ってるじゃん」


「でも」


「でも、何?」


 声が少し強くなった。


 遼は戸惑った。


「俺は玲奈のことを考えて――」


「それ」


「え?」


「その言い方、嫌い」


 遼は黙った。


「『玲奈のことを考えて』って言えば、何でも許されると思ってない?」


「そんなつもりじゃ」


「じゃあ、私がどうしたいかは?」


「もちろん考えてる」


「考えてないよ」


 玲奈の声は震えていた。


「遼が考えてるのは、玲奈はこうしたほうが幸せだろうっていう、遼の中の私でしょう?」


 言葉が胸に刺さった。


「違う」


「違わない」


「俺は……」


「私のためって言って、私の選択を奪わないで」


 遼は何も言えなかった。


 玲奈は目を伏せた。


「私が仕事を頑張るのも」


「……」


「旅行に行きたいのも」


「……」


「遼と一緒にいたいのも」


「……」


「全部、私が決めたい」


 静かな声だった。


 だからこそ。


 遼には、その言葉が重かった。


「俺は、玲奈に幸せになってほしいだけだよ」


 ようやく、それだけを言った。


 玲奈は遼を見た。


「私も、遼に幸せになってほしい」


「じゃあ……」


「だから怖いの」


「何が?」


「お互いに『あなたの幸せのため』って言いながら」


 玲奈は苦しそうに笑った。


「お互いの人生を決め始めたら、どうするの?」


 遼は答えられなかった。


   ◇


 その夜。


 二人はほとんど話さなかった。


 同じ家にいる。


 同じ空気を吸っている。


 けれど。


 心だけが、少し離れた場所にある。


 遼はリビングのソファに座っていた。


 テレビはついている。


 けれど、何も頭に入ってこない。


 自分は間違ったのだろうか。


 玲奈を大切にしたかった。


 苦しませたくなかった。


 だから予定を変えようとした。


 それの何が悪いのか。


 考えても分からない。


 けれど。


 玲奈が傷ついたという事実だけは、確かだった。


 心理学では。


 人間は自分の善意を疑うことが難しい。


 悪意なら、悪いと分かる。


 欲望なら、自分のためだと理解できる。


 けれど。


 「あなたのため」という言葉を口にした瞬間。


 自分の行動を正しいものだと思いやすくなる。


 善意は、ときどき最も見えにくい支配になる。


 遼は、そのことを初めて実感していた。


 自分は玲奈を愛している。


 だから幸せにしたい。


 でも。


 幸せにする、という言葉には。


 どこか傲慢な響きがある。


 誰かを幸せにできると思っている。


 まるで。


 相手の人生の答えを、自分が知っているかのように。


   ◇


 夜十一時過ぎ。


 玲奈がリビングに入ってきた。


 遼は顔を上げた。


「まだ起きてたの」


「ああ」


「……眠れない?」


「少し」


 玲奈は向かい側に座った。


 しばらく沈黙が続いた。


「ごめん」


 遼が言った。


 玲奈は何も答えなかった。


「俺、玲奈のことを分かってるつもりになってた」


「……うん」


「でも、分かってなかった」


 玲奈は少しだけ顔を上げた。


「私も、ごめん」


「玲奈が謝ることじゃないだろ」


「あるよ」


 彼女は笑った。


「私も、自分の気持ちをちゃんと言わなかったから」


「……」


「遼なら分かってくれると思ってた」


 その言葉に、遼は胸が苦しくなった。


 分かってくれると思われることは。


 嬉しいことだと思っていた。


 でも。


 分かってくれると思われるほど。


 分からなかったときの失望は大きい。


「玲奈」


「うん」


「俺たちって、うまくいってるのかな」


 玲奈は少し考えた。


「どうだろう」


「分からない?」


「うん」


 それから。


「でも」


 玲奈は遼を見た。


「喧嘩したからって、不幸になったわけじゃないと思う」


 遼は黙った。


「幸せって、ずっと仲がいいことじゃないのかもしれないね」


「じゃあ何?」


「喧嘩しても」


 玲奈は少し笑った。


「もう一回、話そうと思えること」


 その言葉は、静かだった。


 けれど遼には。


 これまで聞いたどんな幸福論よりも、強く響いた。


 幸福とは。


 不快なことがない状態ではない。


 悲しくないことでも。


 喧嘩をしないことでも。


 何も失わないことでもない。


 傷ついたあとに。


 それでも、その人ともう一度向き合いたいと思えること。


 もしかすると。


 幸福とは、そういう「選び直せること」なのかもしれない。


「旅行」


 玲奈が言った。


「うん」


「予定通り行こう」


「いいの?」


「行きたいから」


 遼は笑った。


「分かった」


「ただし」


「何?」


「行き先は私が決める」


「分かった」


「文句言わないで」


「分かった」


「あと、仕事の電話は禁止」


「それは無理かも」


「じゃあ一日三回まで」


「多いな」


 玲奈が笑った。


 遼も笑った。


 ほんの少し。


 本当に、ほんの少しだけ。


 二人の間にあった距離が縮まった。


   ◇


 その夜。


 遼はベッドの中で目を閉じた。


 玲奈は隣で眠っている。


 呼吸の音が聞こえる。


 規則正しい。


 生きている音だった。


 遼は、ふと思った。


 幸福とは。


 手に入れるものではなく。


 関係の中で、何度も作り直すものなのではないか。


 恋人になったから幸福。


 結婚したから幸福。


 金持ちだから幸福。


 そんな単純なものではない。


 人間は、一度手に入れた幸福を守っていればいいわけではない。


 毎日少しずつ。


 相手の気持ちを聞き。


 自分の気持ちを伝え。


 間違えたら謝り。


 傷つけたら向き合い。


 それでも一緒にいたいと思えるかを、何度も選び直す。


 その繰り返しが。


 人生なのかもしれない。


 時計を見る。


 11:59。


 遼は眉を寄せた。


 まただ。


 最近、この時間を見ることが増えた。


 偶然だ。


 きっと偶然。


 そう思おうとした。


 けれど。


 目を閉じた瞬間。


 白い部屋が浮かんだ。


 誰かがいる。


 顔は見えない。


 声だけが聞こえる。


「あなたは、幸せですか?」


 遼は答えようとした。


 けれど。


 今度は、その質問の意味そのものが分からなかった。


 幸せかどうか。


 それを決めるのは誰なのだろう。


 自分か。


 玲奈か。


 それとも。


 自分たち二人の間にある何かなのか。


 答えを探しているうちに。


 白い部屋は消えた。


   ◇


 翌朝。


 玲奈がコーヒーを淹れていた。


 一口飲む。


 そして、カップを置く。


 いつものように。


 少しだけ残す。


 遼はその光景を見つめた。


 胸の奥に、また知らない記憶が触れた。


 小さな部屋。


 凛。


 雨。


 そして。


 もっと前の誰か。


 美咲。


 どうして。


 違う女性なのに。


 同じものを感じるのだろう。


 遼は考えた。


 人間が誰かを愛するとき。


 顔を愛しているのか。


 声を愛しているのか。


 性格を愛しているのか。


 記憶を愛しているのか。


 それとも。


 それらすべてが変わっても残る、もっと説明できない何かを愛しているのか。


 まだ分からない。


 ただ。


 玲奈がコーヒーを残したことだけは。


 なぜか、嬉しかった。


 そして遼はまだ知らなかった。


 自分が探している「幸福」が。


 少しずつ。


 「条件」から「人間そのもの」へと形を変え始めていることを。


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