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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第十三章 世界04・貧しい二人

 目を覚ましたとき。


 遼は、寒いと思った。


 それが最初だった。


 布団が薄い。


 部屋も寒い。


 窓の隙間から、朝の冷たい空気が入ってくる。


 遼は布団の中でしばらく動かなかった。


 動けば寒い。


 けれど、動かなければ起きられない。


 そんな、どうでもいいような問題が。


 今の自分には、ひどく重要だった。


 前の世界では、目を覚ますだけで何も困らなかった。


 部屋は暖かかった。


 ベッドは広かった。


 食べたいものがあった。


 仕事に行けば、誰かが頭を下げた。


 金もあった。


 時間さえ、ある程度は買えた。


 そして今。


 布団の薄さが、世界のすべてだった。


「……寒い」


 声に出す。


 すると。


「起きた?」


 隣から声がした。


 女の声。


 遼は振り返った。


 知らない女性がいた。


 いや。


 知らないはずなのに。


 知っている。


 そんな奇妙な感覚だった。


「おはよう」


 彼女は笑った。


 名前は。


「千夏」


 彼女が言った。


「忘れた?」


「……いや」


 遼は答えた。


「覚えてる」


 嘘だった。


 けれど。


 なぜか、その名前を口にすると安心した。


 千夏。


 二十三歳。


 明るい。


 よく笑う。


 そして。


 どうやら、自分の恋人らしい。


 部屋を見回す。


 狭い。


 古い。


 家具も少ない。


 暖房はない。


 テーブルの上には、財布が一つ。


 中を見る。


 紙幣が数枚。


 硬貨が少し。


 遼は思った。


 少ない。


 驚くほど少ない。


「今日、どうする?」


 千夏が聞いた。


「仕事」


「そっか」


「千夏は?」


「昼から」


 千夏は笑った。


「じゃあ、朝ご飯食べていこ」


 テーブルの上には、パンが二つあった。


「これだけ?」


「うん」


「足りる?」


「半分こすればいいじゃん」


 千夏は何でもないことのように言った。


 パンを半分に割る。


 少し大きいほうを遼に渡す。


「こっち、俺がもらっていいの?」


「いいよ」


「千夏のほうが小さいけど」


「私は昨日ちょっと食べたから」


「嘘だろ」


「バレた?」


 笑う。


 遼も笑った。


 どうして笑えるのか。


 自分でも分からなかった。


   ◇


 外へ出る。


 空は曇っていた。


 街は、以前の世界と大きく変わらない。


 人が歩いている。


 車が走っている。


 コンビニがある。


 電車もある。


 世界そのものが貧しいわけではない。


 ただ。


 自分たちの生活が貧しかった。


 遼は歩きながら考えた。


 貧しいという言葉は、何を意味するのだろう。


 金がないこと。


 物がないこと。


 選択肢が少ないこと。


 将来への不安が大きいこと。


 それとも。


 「もっと欲しい」と思い続けなければならないこと。


 前の世界では、何でも手に入った。


 だからこそ。


 欲しいものが分からなくなった。


 この世界では。


 欲しいものが多すぎる。


 けれど。


 買えない。


 その違いは大きいようで。


 どこか似ていた。


 どちらも。


 心が何かを求め続けている。


   ◇


 仕事は忙しかった。


 遼は小さな会社で働いていた。


 給料は高くない。


 残業もある。


 昼休みになると、同僚たちはコンビニへ向かった。


 遼は財布を開いた。


 昼食をどうするか考える。


 そのとき。


 スマートフォンが鳴った。


 千夏からだった。


 ――今日、帰りにスーパー寄れる?


 ――卵が安いよ。


 遼は笑った。


 返信する。


 ――分かった。


 しばらくして。


 もう一件届いた。


 ――あと、プリン食べたい。


 遼は少し考えてから。


 ――一個だけな。


 と送った。


 すぐに返信が来た。


 ――ケチ!


 その二文字を見て。


 遼は笑った。


 前の世界では。


 もっと高価な食事をしていた。


 高級な店。


 綺麗な料理。


 予約が必要な店。


 何万円もする食事。


 それなのに。


 今。


 「プリン一個」を買うことが。


 なぜか楽しみだった。


   ◇


 仕事が終わった。


 スーパーに寄る。


 卵。


 牛乳。


 野菜。


 安い肉。


 そして。


 プリン。


 値段を見る。


 少し迷う。


 でも。


 買った。


 帰宅すると、千夏が先に帰っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「買ってきた?」


「買った」


 袋からプリンを出す。


「やった!」


 千夏は子どものように笑った。


「これ、食べていい?」


「いいよ」


「半分こ?」


「一個買ったんだから、一個食べればいいだろ」


「でも」


 千夏は少し考えて。


「一緒に食べたい」


 と言った。


 遼は黙った。


「……じゃあ、半分こするか」


「うん」


 スプーンを二つ持ってくる。


 一つのプリンを半分ずつ食べる。


 たったそれだけだった。


 けれど。


 遼は思った。


 幸福というものは。


 量では測れない。


 値段でも測れない。


 もしかすると。


 「誰と食べたか」という記憶によって、後から幸福になるのかもしれない。


   ◇


 食後。


 二人でテレビを見た。


 古いテレビだった。


 画質も悪い。


 千夏は笑っている。


 遼も笑う。


 内容は、ほとんど覚えていない。


 それでも。


 楽しかった。


 テレビを消す。


 部屋が静かになる。


 千夏が言った。


「ねえ」


「ん?」


「私たち、貧乏だよね」


「まあな」


「嫌?」


 遼は考えた。


 嫌か。


 当然、嫌だ。


 金がない。


 自由に使えるお金がない。


 欲しいものを我慢することも多い。


 将来だって不安だ。


 病気になったらどうする。


 仕事を失ったらどうする。


 何か大きなことが起きたら。


 この生活は簡単に崩れる。


 だから。


「嫌だよ」


 正直に答えた。


 千夏は少し驚いた。


「そっか」


「でも」


 遼は続けた。


「千夏といることは嫌じゃない」


 千夏は黙った。


 それから。


「それならいいや」


 と笑った。


 その笑顔を見て。


 遼は思った。


 貧しさを幸福だと言うことは、たぶん間違っている。


 苦しいものは苦しい。


 足りないものは足りない。


 お金がないことで生まれる不安もある。


 それを「愛があれば大丈夫」と言ってしまうのは。


 簡単すぎる。


 人間は、愛だけでは生きられない。


 けれど。


 人間は、金だけでも生きられない。


 そのどちらも本当なのだ。


 幸福は。


 どちらか一方ではない。


   ◇


 夜。


 千夏がコーヒーを淹れた。


「飲む?」


「ああ」


 カップを受け取る。


 千夏は一口だけ飲んだ。


 そして。


 カップを置く。


 少しだけ残っている。


 遼は、それを見た。


 まただ。


 また、この感覚。


 胸の奥に、遠い誰かがいる。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 そして。


 今の千夏。


 違う。


 全部違う。


 顔も。


 声も。


 性格も。


 人生も。


 何もかも違う。


 それなのに。


 どうしてだろう。


 遼には、どこか同じものに思えた。


「どうしたの?」


 千夏が言った。


「いや」


 遼は首を振る。


「なんでもない」


 千夏は少し首を傾げた。


 そして。


 左耳に触れた。


 その瞬間。


 遼の中で、何かがつながりかけた。


 ――この仕草を。


 自分は知っている。


 何度も。


 何度も。


 見てきた。


 けれど。


 思い出せない。


   ◇


 時計を見る。


 11:59。


 まただ。


 遼は時計を見つめた。


 なぜ、この時間ばかり。


 千夏が隣に座る。


「眠い?」


「少し」


「じゃあ寝よ」


「うん」


 二人で布団に入る。


 狭い。


 肩が触れる。


 けれど。


 不思議と嫌ではない。


 むしろ。


 暖かい。


 遼は目を閉じた。


 そのとき。


 白い部屋が浮かんだ。


 誰かがいる。


 顔は見えない。


 声だけが聞こえる。


「あなたは、幸せですか?」


 遼は答えた。


「……分からない」


 すると。


「では、何があれば幸せになれますか?」


 と聞かれた。


 遼は考えた。


 金。


 健康。


 若さ。


 仕事。


 家。


 恋人。


 結婚。


 安定。


 どれも重要だ。


 どれも必要だ。


 けれど。


 どれか一つがあれば幸福になれるわけではない。


 では。


 全部あれば?


 前の世界を思い出す。


 金もあった。


 地位もあった。


 家もあった。


 美しい恋人もいた。


 それでも。


 何かが足りなかった。


 なら。


 何が必要なのだろう。


 答えが見つからない。


 白い部屋が、ゆっくりと暗くなる。


 最後に。


 誰かの声が聞こえた。


「足りないから、不幸なのですか?」


   ◇


 目を覚ます。


 朝だった。


 千夏はまだ眠っている。


 遼はしばらく、その寝顔を見ていた。


 外は曇っている。


 寒い。


 金もない。


 将来も不安だ。


 何一つ。


 理想的ではない。


 それでも。


 遼は思った。


 昨日、千夏と食べたプリンのことを。


 一つのプリン。


 二本のスプーン。


 二人で笑った。


 それを思い出すだけで。


 少しだけ胸が温かくなる。


 幸福というものが。


 もし「足りないものがない状態」なら。


 人間は、ほとんど永遠に幸福になれないのかもしれない。


 人間には、いつだって足りないものがある。


 だから。


 幸福とは。


 足りないものを数えないことなのか。


 それとも。


 足りないものがあるままでも。


 「これでいい」と思える瞬間なのか。


 遼には、まだ分からなかった。


 ただ。


 千夏が目を覚ました。


「おはよう」


 眠そうな声。


「おはよう」


「今日、何食べる?」


「何がある?」


「何もない」


「……それは困ったな」


「だから、買いに行こう」


「お金は?」


「ない」


「どうするんだよ」


「どうにかする」


 千夏が笑った。


 遼も笑った。


 何も解決していない。


 何も豊かになっていない。


 それでも。


 朝は来る。


 そして。


 二人は今日という一日を、一緒に始める。


 そのことだけが。


 今の遼には、少しだけ幸福に思えた。


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