第十四章 百円の幸福
百円は、百円だった。
当たり前のことなのに。
その朝の遼には、それが少し不思議に思えた。
財布の中には、百円玉が一枚あった。
それだけだった。
千夏の財布には、十円玉が二枚。
合わせても百二十円。
「どうする?」
千夏がテーブルの上の硬貨を見ながら言った。
「どうするって?」
「朝ご飯」
「……買えないな」
「うん」
二人で硬貨を見る。
百二十円。
昔の遼なら、そんな金額を気にすることなどなかった。
コンビニで何気なく飲み物を買って。
食べたいものがあれば注文して。
金額などほとんど見ずに支払っていた。
その頃は。
百円という数字は、数字でしかなかった。
今は違う。
百円が、一日の問題になる。
人生を左右するほどではない。
けれど。
少なくとも。
今日の朝をどうするかは決められる。
「パン、買えるかな」
千夏が言った。
「百二十円じゃ無理だろ」
「一個ならあるかも」
「一個をどうするんだよ」
「半分こ」
千夏は笑った。
遼も笑った。
「また半分か」
「いいじゃん」
千夏は立ち上がった。
「行こう」
◇
近所の小さな店に入る。
パンが並んでいる。
百円。
百二十円。
百五十円。
二百円。
遼は一つ一つ値段を見る。
普段なら気にもしない数字が。
今日は妙に鮮明だった。
「これ」
千夏が指を差した。
百円のパン。
「これなら買える」
「残り二十円だな」
「うん」
「何に使う?」
「二十円じゃ何も買えないよ」
「そうだな」
千夏はパンを手に取った。
少しだけ迷ってから。
「これにしよう」
レジへ向かう。
百円を支払う。
店員からパンを受け取る。
たったそれだけ。
けれど。
遼は、そのパンを大切に袋にしまった。
◇
帰宅して。
一つのパンを二つに割る。
少し不格好に割れてしまった。
「こっちのほうが大きい」
千夏が言った。
「千夏が食べろよ」
「遼が食べて」
「いや、千夏」
「遼」
「千夏」
二人で譲り合う。
最後には。
「じゃあ、じゃんけん」
ということになった。
勝ったほうが大きいほうを食べる。
「最初はグー」
「じゃんけん――」
千夏が勝った。
「やった」
「そんなに嬉しいか?」
「うん」
千夏は笑った。
大きいほうを取る。
そして。
「……やっぱり交換しようか」
「え?」
「遼のほうが大きいから」
「今、勝っただろ」
「勝ったけど」
千夏は自分のパンを見る。
「なんか、こっちのほうが美味しそう」
「同じパンだぞ」
「そうだけど」
遼は笑った。
くだらない。
本当にくだらない。
パンの大きさを気にするなんて。
昨日までの自分なら。
そんなことを幸福と呼ぶ人間を、少し可哀想だと思ったかもしれない。
でも。
今は。
この時間が嫌ではなかった。
むしろ。
なくしたくないと思った。
◇
食べ終わったあと。
千夏が言った。
「ねえ」
「ん?」
「残った二十円、どうする?」
「貯金」
「二十円だけ?」
「二十円でも金は金だろ」
「真面目だなあ」
千夏は笑った。
それから少し考えて。
「じゃあ、次に何か買うときに使おう」
「何を?」
「分からない」
「それじゃ決められないだろ」
「じゃあ、幸せなことに使う」
遼は千夏を見る。
「幸せなこと?」
「うん」
「例えば?」
「分からない」
千夏はまた笑った。
「幸せなことって、そのときにならないと分からないじゃん」
その言葉に。
遼は少し驚いた。
幸福を。
あらかじめ決めておくことはできない。
幸福のためにお金を貯める。
幸福のために働く。
幸福のために何かを手に入れる。
そうやって未来に幸福を置いてしまうと。
今はいつも、その途中になってしまう。
でも。
千夏は。
二十円を未来の「幸せなこと」のために残した。
それは。
今が不幸だからではない。
今日より少し先に。
また二人で何かを選ぶためだった。
遼は、その違いが少し分かる気がした。
◇
昼過ぎ。
二人は散歩に出た。
目的地はない。
お金がないから。
電車には乗れない。
遠くにも行けない。
だから。
歩いた。
住宅街を抜ける。
小さな公園があった。
ベンチに座る。
子どもたちが遊んでいる。
犬を連れた人が歩いている。
老人がゆっくりと通り過ぎる。
どこにでもある日曜日。
遼は思った。
世界は。
何も知らない。
自分たちが百円しか持っていないことも。
昨日何を食べたかも。
将来がどうなるかも。
世界はただ。
そこにある。
幸福も。
不幸も。
世界の側からやってくるわけではない。
人間が。
出来事に意味を与える。
そう考えると。
幸福というものは。
意外と主観的なのかもしれない。
けれど。
すべてが主観なら。
貧しさも苦しさも。
「考え方を変えれば幸せ」と言えてしまう。
それも違う。
現実には。
金がないことで苦しい人間がいる。
病気で苦しむ人間がいる。
仕事を失って苦しむ人間がいる。
孤独で苦しむ人間がいる。
「幸せだと思えば幸せ」という言葉だけでは。
現実の苦しさを消すことはできない。
だから。
幸福は。
心だけでも。
環境だけでも。
説明できない。
その両方の間にある。
人間と世界の。
ちょうど境目に。
◇
「遼」
「ん?」
「何考えてる?」
「幸福について」
「また?」
「また」
千夏が笑った。
「好きだねえ」
「そうかも」
「じゃあ、質問」
「何?」
「百円で幸せになれると思う?」
遼は少し考えた。
「なれると思う」
「じゃあ、一万円なら?」
「もっとなれる?」
「じゃあ、百万円」
「……分からない」
「一億円」
「分からない」
千夏は笑った。
「じゃあ、百円と一億円、どっちが幸せ?」
遼は答えなかった。
百円では買えないものがある。
一億円でも買えないものがある。
けれど。
一億円があれば。
百円ではできないことがたくさんできる。
だから。
金は幸福ではないが。
幸福の可能性を増やすことはある。
そんな気がした。
「お金って」
遼は言った。
「幸せそのものじゃなくて、選択肢なのかもしれない」
「選択肢?」
「うん」
「じゃあ、選択肢が多いほうが幸せ?」
「……それも分からない」
遼は苦笑した。
「選択肢が多すぎると、選べなくなるから」
「確かに」
千夏は空を見上げた。
「じゃあ、私たちには選択肢が少ないね」
「そうだな」
「でも」
千夏は笑った。
「今日、何をするかは選べるよ」
遼は彼女を見る。
「散歩するか」
「うん」
「家に帰るか」
「うん」
「残り二十円を使うか」
「うん」
「貯めるか」
「うん」
「……じゃあ、もう十分じゃない?」
千夏が笑った。
「何が?」
「選択肢」
遼も笑った。
◇
夕方。
二人は帰り道に小さな自動販売機を見つけた。
百円の飲み物があった。
遼は財布を見る。
二十円。
足りない。
「残念」
千夏が言った。
「別にいいだろ」
「飲みたかった?」
「少し」
「私も」
二人で自動販売機を見つめる。
しばらくして。
千夏が言った。
「じゃあ、次にしよう」
「そうだな」
歩き出す。
その瞬間。
遼は振り返った。
自動販売機の横に。
小さな水たまりがあった。
そこに夕焼けが映っていた。
空は赤い。
雲も赤い。
ただの水たまりだった。
けれど。
きれいだった。
「千夏」
「ん?」
「あれ」
「何?」
「あの水たまり」
千夏が見る。
「ああ」
「綺麗だな」
「ほんとだ」
二人は少しだけ立ち止まった。
百円の飲み物は買えなかった。
けれど。
百円では買えない夕焼けが。
そこにあった。
◇
夜。
帰宅して。
千夏がコーヒーを淹れた。
一口飲む。
そして。
いつものように。
少しだけ残した。
遼は、その光景を見る。
胸の奥がざわめく。
誰か。
また誰か。
名前が浮かぶ。
美咲。
凛。
玲奈。
そして。
千夏。
違う人間。
違う人生。
違う世界。
それなのに。
同じ仕草。
同じコーヒー。
同じような温度。
遼は考える。
もし。
人間から記憶を全部取り去ったら。
その人は。
それでも同じ人間なのだろうか。
もし。
顔を変えて。
年齢を変えて。
性格を変えて。
仕事を変えて。
住む場所を変えて。
それでも誰かを愛するとしたら。
愛しているのは。
いったい何なのだろう。
遼には。
まだ分からなかった。
◇
時計を見る。
11:59。
秒針が進む。
五十七。
五十八。
五十九。
零時。
カチッ。
その瞬間。
遼はふと。
十円玉を見た。
朝。
自分たちの一日を始めるために使った百円。
残った二十円。
たったそれだけ。
けれど。
その百円があったから。
二人はパンを買った。
パンを半分にした。
じゃんけんをした。
笑った。
散歩した。
水たまりを見た。
そんな一日になった。
百円が幸福を生んだのか。
それとも。
百円に意味を与えたのが自分たちだったのか。
たぶん。
後者なのだろう。
幸福は。
物の中に入っているわけではない。
お金の中にも。
家の中にも。
仕事の中にも。
人間は、そこに意味を見つける。
そして。
意味を見つけられるとき。
世界は少しだけ違って見える。
遼は十円玉を握った。
冷たかった。
ただの金属だった。
でも。
今日という一日を思い出すと。
不思議と温かく感じた。
その夜。
遼は眠りに落ちる直前。
白い部屋に立っていた。
誰かが尋ねる。
「あなたは、幸せですか?」
遼は少し考えた。
そして。
「……たぶん」
と答えた。
前にも。
同じ答えをした気がした。
けれど。
今回は。
その「たぶん」が。
少しだけ好きだった。
幸福というものは。
きっと。
断言できるものではない。
だからこそ。
人間は毎日。
「今日は幸せだった」と思い直す。
昨日の幸福を。
今日も幸福だと思えるとは限らない。
明日の幸福が。
今日と同じ形をしているとも限らない。
それでも。
その一瞬を。
幸福だと思えるなら。
それでいいのかもしれない。
白い部屋が消える。
最後に。
遼の手の中から。
一枚の十円玉が落ちた。
――ころん。
小さな音がした。
そして。
世界は静かになった。




