第十五章 幸福の格差
人間は、生まれる場所を選べない。
親も。
家も。
国も。
時代も。
自分の最初の人生さえ。
選ぶことはできない。
遼は、そのことについて考えていた。
この世界に来てから。
何度も。
何度も。
幸福について考えた。
金があること。
ないこと。
好きな人がいること。
失うこと。
豊かな家。
狭い部屋。
百円のパン。
高級な食事。
どれも幸福になり得る。
けれど。
それを聞いていると。
ひとつの疑問が残る。
では。
『生まれた環境によって、幸福になる可能性にも差があるのではないか。』
◇
その日は、雨だった。
千夏と遼は、駅前のベンチに座っていた。
傘を一本しか持っていなかったので。
二人で一つの傘に入っている。
「寒いね」
千夏が言った。
「うん」
「温かいもの食べたい」
「俺も」
駅前には、大きなレストランがあった。
ガラス張りの店内。
暖かそうな照明。
人々が楽しそうに食事をしている。
千夏が、その店を見た。
「入りたい?」
「……入りたい」
「私も」
二人で笑った。
でも。
入らなかった。
財布の中には、ほとんどお金がない。
食事代を払えば。
明日が困る。
それは。
「我慢すればいい」と言って済ませられる問題ではなかった。
遼は、窓の向こうを見た。
同じ雨の日。
同じ街。
同じ人間。
なのに。
暖かい店の中にいる人と。
外で傘を差している自分たち。
どちらが幸福なのだろう。
簡単には答えられない。
店の中の人間にも。
悩みはあるだろう。
夫婦喧嘩をしているかもしれない。
仕事がうまくいっていないかもしれない。
誰にも言えない孤独を抱えているかもしれない。
だから。
外にいる自分たちのほうが不幸だとも言えない。
けれど。
同時に。
「心の持ちようだから」と言ってしまうこともできない。
寒いものは寒い。
お金がなければ。
買えないものがある。
選べない人生がある。
それは。
心の問題だけではない。
◇
「ねえ、遼」
「ん?」
「もし、お金持ちだったら何したい?」
千夏が聞いた。
「急だな」
「いいから」
遼は考えた。
前の世界を思い出す。
高級な家。
高級な車。
自由な時間。
何でも買える生活。
けれど。
それでも幸福ではなかった。
「旅行かな」
「どこ?」
「どこでもいい」
「じゃあ私は海」
「海?」
「うん。大きい海」
千夏は笑った。
「朝から海を見て、何もしない」
「それだけ?」
「それだけ」
遼は笑った。
「安いな」
「何言ってるの」
千夏が頬を膨らませる。
「海まで行くのにお金かかるでしょ」
「ああ」
「旅館にも泊まりたい」
「結局金かかるじゃん」
「だって」
千夏は笑った。
「幸せになりたいもん」
その言葉に。
遼は黙った。
幸福になりたい。
それは誰にでもある願いだ。
けれど。
幸福を求めるための条件は。
人によって違う。
ある人には。
旅行が簡単にできる。
ある人には。
旅行そのものが夢になる。
ある人には。
今日の食事が問題になる。
ある人には。
食事は当然のことで、その先にあるものを考える余裕がある。
幸福は平等ではない。
少なくとも。
幸福を探すための余裕は。
平等ではない。
◇
数日後。
会社で給料が出た。
遼は明細を見た。
今月も多くはない。
家賃。
光熱費。
食費。
交通費。
必要なものを書き出していく。
残った金額は。
ほんの少しだった。
それを見て。
遼は、妙な気持ちになった。
以前の世界では。
数字の桁が違った。
けれど。
数字が増えたからといって。
幸福が増えたわけではなかった。
なら。
お金は関係ないのか。
いや。
それも違う。
今の遼にとって。
給料は重要だった。
生活を支えている。
食事を買える。
家に住める。
千夏と一緒に暮らせる。
つまり。
お金は幸福そのものではない。
しかし。
幸福を守るための土台にはなる。
その土台が崩れれば。
人間は幸福について考える余裕さえ失うことがある。
遼は思った。
幸福とは。
もしかすると。
ピラミッドのようなものなのかもしれない。
まず。
今日を生きられること。
その上に。
安心がある。
その上に。
人とのつながりがある。
その上に。
夢や自由がある。
そして。
一番上に。
「自分は幸せだ」と思える心がある。
どこか一つが欠けても。
人間は生きていける。
けれど。
欠けた場所によっては。
上まで登ることが難しくなる。
◇
夜。
千夏とテレビを見ていた。
ニュースが流れていた。
裕福な家庭の子どもと、そうでない家庭の子どもの間で、教育環境に差があるという話だった。
千夏は黙って画面を見ていた。
「どう思う?」
遼が聞いた。
「……嫌だな」
「何が?」
「生まれた場所で、人生が決まるみたいなの」
遼は黙った。
「もちろん、全部が決まるわけじゃないけど」
千夏は続けた。
「最初から持ってるものが違うって、やっぱりずるいよね」
「そうだな」
「でも」
「うん」
「持ってないからって、幸せになれないわけじゃないよね」
遼は千夏を見た。
「……そうだと思う」
「じゃあ、いいじゃん」
「でも」
遼は言った。
「幸せになれるかどうかと、幸せになるためにどれだけ苦労するかは、別だと思う」
千夏は少し黙った。
「そうだね」
それだけだった。
けれど。
その短い言葉の中には。
何かを諦めた人間だけが持つような静けさがあった。
◇
その夜。
千夏は早く眠った。
遼は一人でベランダに出た。
雨は止んでいた。
濡れた道路に、街灯が映っている。
遠くの高層マンションには。
無数の明かりがついていた。
あの一つ一つの窓の向こうに。
それぞれの人生がある。
笑っている人。
泣いている人。
喧嘩している人。
誰かを待っている人。
誰にも待たれていない人。
幸福な人。
不幸な人。
そして。
自分が幸福なのかどうかすら分からない人。
遼は思った。
人間は。
他人の幸福を見ることによって。
自分の不幸を知ることがある。
もし。
世界中の人間が同じものしか持っていなければ。
幸福という概念は、今とは違っていたのだろうか。
豪邸が一軒しかなければ。
その家に住む人は幸福だと思うかもしれない。
でも。
全員が豪邸に住めば。
豪邸は特別ではなくなる。
高級車も。
高価な時計も。
高い給料も。
社会の中では。
他人との比較によって意味が変わる。
幸福は。
自分の心だけでは完結しない。
社会の中で。
他人と比べながら。
自分がどこにいるのかを感じながら。
人間は幸福を判断している。
つまり。
幸福とは。
極めて個人的な感情でありながら。
同時に。
極めて社会的なものでもある。
その矛盾が。
人間を難しくしている。
◇
遼は部屋に戻った。
千夏は眠っている。
その寝顔を見た。
静かな顔。
安心しているように見える。
遼は布団を少しだけ直した。
千夏が目を覚ます。
「……遼?」
「ごめん。起こした?」
「ううん」
眠そうに笑う。
「どうしたの?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
千夏は目を閉じた。
そして。
「おやすみ」
「おやすみ」
それだけだった。
遼も横になる。
狭い布団。
薄い壁。
安い部屋。
少ないお金。
不安定な未来。
幸福になるための条件だけを並べれば。
この人生は。
決して恵まれているとは言えない。
それでも。
隣には人がいる。
自分を待っている人がいる。
今日、一緒に笑った人がいる。
そのことを思うと。
胸の奥が温かくなる。
遼は目を閉じた。
幸福は。
平等ではない。
けれど。
だからといって。
幸福が存在しないわけでもない。
人間は。
不平等な世界の中で。
それでも幸福を見つけようとする。
ある人は。
百円で。
ある人は。
一億円で。
ある人は。
誰かの笑顔で。
ある人は。
一人でいる時間で。
同じ「幸福」という言葉を使っていても。
その中身は。
人によってまったく違う。
だからこそ。
遼は思った。
幸福を比較することは。
そもそもできないのではないか。
けれど。
そう思った直後。
別の疑問が浮かんだ。
――では。
『自分が幸せだと思っていることを、他人が不幸だと言ったら?』
そのとき。
自分は。
本当に幸せだと言えるのだろうか。
◇
時計を見る。
11:59。
遼は苦笑した。
まただ。
最近。
この時間ばかり気になる。
あと一分。
何かが終わるような。
そんな感覚。
けれど。
何が終わるのかは分からない。
秒針が進む。
五十七。
五十八。
五十九。
零時。
カチッ。
音がした。
その瞬間。
千夏が寝返りを打った。
遼は、その音を聞きながら。
ふと考えた。
もし。
幸福が人生の条件によって決まるのなら。
自分は、この世界で不幸になるはずだった。
もし。
幸福が金額によって決まるのなら。
自分は、百円のパンで笑えなかったはずだった。
もし。
幸福が社会的な成功によって決まるのなら。
自分は、今の人生を望まなかったはずだった。
なのに。
自分は今。
隣で眠る千夏を見て。
幸福だと思っている。
――たぶん。
その「たぶん」は。
いつの間にか。
少しずつ強くなっていた。
◇
眠りに落ちる。
白い部屋。
いつもの場所。
けれど。
今夜は少し違った。
正面に誰かがいる。
顔は見えない。
「あなたは、幸せですか?」
遼は答えなかった。
代わりに。
「あなたは?」
と聞いた。
初めて。
質問を返した。
白い部屋が静まり返る。
誰も答えない。
遼は思った。
幸福について尋ねる人間は。
幸福を知っているのだろうか。
それとも。
自分自身も探しているのだろうか。
その瞬間。
遠くで。
小さな電子音が鳴った。
ピッ。
遼は目を開けようとした。
けれど。
目を開ける前に。
誰かの声が聞こえた。
「次は、何を試してみますか?」
◇
朝。
千夏が笑っていた。
「遼、起きて」
「……ん」
「仕事遅れるよ」
「分かった」
「朝ご飯」
「何?」
「昨日の残り」
「ああ」
二人で朝食を食べる。
特別なものではない。
昨日の残り。
少し冷めている。
それでも。
千夏が笑っている。
遼も笑っている。
窓から朝の光が入ってくる。
その光を見ながら。
遼は思った。
人間は。
与えられた人生の中から。
幸福を探すしかない。
選べなかったものを嘆きながら。
それでも。
選べるものを探す。
そして。
選んだものに。
意味を与える。
それが。
生きるということなのかもしれない。
ただ。
まだ一つだけ。
遼には分からないことがあった。
自分が今。
千夏を好きなのは。
この世界で出会ったからなのか。
それとも。
どの世界に行っても。
同じ人を好きになるからなのか。
その答えを。
遼はまだ知らなかった。
そして。
その疑問こそが。
次の世界へ向かうための。
最初の扉になろうとしていた。




