第十六章 それでも結婚する
結婚には、勇気がいる。
少なくとも。
遼はそう思うようになっていた。
好きだから、一緒にいたい。
それだけなら。
もっと簡単だった。
今日会いたい。
明日も会いたい。
一緒にご飯を食べたい。
くだらない話をしたい。
それだけなら。
未来のことを考えなくてもいい。
けれど。
結婚となると。
話は違う。
仕事。
お金。
住む場所。
家族。
病気。
老後。
子どものこと。
失敗したときのこと。
何も起きていない未来を。
まだ何も知らない二人で。
「それでも一緒にいる」と決める。
結婚とは。
幸福を約束することではない。
もしかすると。
『幸福ではない日も含めて、一緒に生きると約束することなのかもしれない。』
◇
「遼」
「ん?」
「結婚しない?」
千夏は、あまりにも普通に言った。
夕食のあとだった。
テーブルの上には、安いスーパーで買った惣菜の容器が並んでいる。
洗い物はまだ終わっていない。
テレビでは、誰かがくだらないことで笑っている。
そんな夜だった。
遼は、千夏を見た。
「急だな」
「急じゃないよ」
「そう?」
「前から考えてた」
千夏は少しだけ目を逸らした。
「……嫌?」
「いや」
遼は答えた。
「嬉しい」
「じゃあ、いいじゃん」
千夏は笑った。
あまりにも簡単だった。
遼は少し笑って。
それから。
「でも」
と言った。
「俺たち、お金ないぞ」
「知ってる」
「仕事だって、そんなに安定してない」
「知ってる」
「いい家にも住めない」
「知ってる」
「旅行だって、そんなにできない」
「知ってる」
「将来、もっと大変になるかもしれない」
「うん」
「それでも?」
千夏はしばらく黙っていた。
そして。
「それでも」
と言った。
その言葉は。
とても小さかった。
けれど。
遼の胸の奥には、深く響いた。
◇
「どうして俺なの?」
遼が聞いた。
「どうしてって?」
「もっといい人がいるかもしれない」
「いるかもね」
千夏は即答した。
「……否定しないんだ」
「だって、いるかもしれないじゃん」
「じゃあ」
遼は少し笑った。
「なんで?」
千夏は考えた。
左耳に触れる。
その仕草を見て。
遼の胸が、また少しざわついた。
「分かんない」
「分からない?」
「うん」
「そんな理由でいいのか?」
「いいんじゃない?」
千夏は笑った。
「好きになる理由って、後から考えるものじゃない?」
遼は黙った。
確かに。
人間は誰かを好きになると。
その後で理由を探す。
優しいから。
面白いから。
顔が好きだから。
一緒にいて安心するから。
価値観が合うから。
けれど。
それらは本当に「原因」なのだろうか。
好きになったあとに。
人間が意味をつけているだけなのではないか。
もしそうなら。
愛情とは。
理由よりも先に存在する感情なのかもしれない。
◇
「遼は?」
「俺?」
「私と結婚したい?」
遼は答えなかった。
すぐに答えることができなかった。
なぜなら。
頭の中に。
いくつもの人生が浮かんだからだ。
美咲。
凛。
玲奈。
そして。
千夏。
違う女性。
違う人生。
違う性格。
違う顔。
それなのに。
どこか似ている。
そして。
自分は。
どの世界でも。
彼女たちを好きになった。
その事実が。
遼を少し怖くさせていた。
もし。
自分が誰を選んでも。
同じように好きになるのだとしたら。
愛とは何なのだろう。
相手を選んでいるのか。
それとも。
自分の中にある「愛する能力」が。
相手に反応しているだけなのか。
千夏が言った。
「無理に答えなくていいよ」
「……いや」
遼は首を振った。
「結婚したい」
千夏が笑った。
「じゃあ、決まり」
「そんな簡単?」
「簡単じゃないよ」
「え?」
「今まで、ずっと考えてた」
千夏は言った。
「遼とだったら、貧乏でもいいかなって」
遼は笑った。
「貧乏なのは嫌だけどな」
「私も嫌」
「そこは一緒なんだな」
「うん」
二人で笑った。
◇
結婚式はしなかった。
お金がなかったから。
役所へ行って。
必要な書類を書いた。
窓口の人が確認する。
名前。
住所。
生年月日。
いくつかの質問。
そして。
書類が受理された。
「これで終わりです」
職員が言った。
遼は少し拍子抜けした。
もっと。
何か特別な音がすると思っていた。
鐘が鳴るとか。
世界が変わるとか。
何か。
人生の大きな節目にふさわしい出来事が。
起こると思っていた。
けれど。
何も起きなかった。
ただ。
紙一枚で。
二人の関係が変わった。
帰り道。
千夏が言った。
「なんか、普通だね」
「うん」
「結婚した感じしない」
「俺も」
「じゃあ、ご飯食べよう」
「何食べる?」
「安いもの」
「結婚したのに?」
「結婚したからだよ」
千夏が笑う。
遼も笑う。
その日。
二人は駅前の安い店で食事をした。
特別な料理ではなかった。
特別な一日でもなかった。
けれど。
遼は。
この日を覚えていたいと思った。
◇
夜。
帰宅して。
二人でテレビを見る。
いつもの部屋。
いつものソファ。
いつものコーヒー。
何も変わっていない。
なのに。
何かだけが変わっている。
千夏が言った。
「ねえ」
「ん?」
「幸せ?」
遼は笑った。
「またそれ?」
「だって」
千夏は笑う。
「大事でしょ」
遼は考えた。
今まで。
何度この質問をされたのだろう。
そして。
何度、答えられなかったのだろう。
幸福とは何か。
考えれば考えるほど。
分からなくなる。
金があっても。
幸福とは限らない。
金がなくても。
幸福になれる。
愛があっても。
傷つく。
喧嘩もする。
不安にもなる。
社会は不平等だ。
人生も平等ではない。
それでも。
人間は。
その中で幸福を探す。
では。
幸福とは。
条件ではなく。
『選択なのではないか』
今日。
この人と一緒にいたい。
明日も。
その次の日も。
うまくいかなくても。
喧嘩しても。
お金がなくても。
それでも。
もう一度。
この人を選びたいと思う。
それが。
幸福なのかもしれない。
「うん」
遼は答えた。
「幸せ」
千夏は笑った。
「そっか」
「千夏は?」
「私も」
それだけだった。
けれど。
それで十分だった。
◇
夜が深くなる。
千夏が眠る。
遼は一人で時計を見る。
11:59。
また。
この時間。
遼は、もう驚かなかった。
最近では。
この時間を見ると。
何かを待っているような気持ちになる。
何が起こるのか。
分からない。
けれど。
何かが終わるような。
何かが始まるような。
不思議な感覚。
秒針が進む。
五十七。
五十八。
五十九。
零時。
カチッ。
その音がした。
千夏が眠ったまま。
少しだけ寝返りを打つ。
遼は彼女を見る。
そして。
突然。
強烈な既視感に襲われた。
この光景を。
自分は知っている。
何度も。
何度も。
誰かの隣で眠った。
美咲。
凛。
玲奈。
千夏。
違う人生。
違う女性。
けれど。
同じような夜。
同じような時計。
同じようなコーヒー。
同じような幸福。
そして。
同じような――。
「結婚……」
遼は呟いた。
その瞬間。
胸の奥に、奇妙な恐怖が生まれた。
もし。
結婚するたびに。
何かが終わっているのだとしたら。
自分は今まで。
何回。
何かを終わらせてきたのだろう。
◇
眠りに落ちる。
白い部屋。
いつもの場所。
しかし。
今までよりも明るかった。
正面に誰かがいる。
「あなたは、幸せですか?」
遼は答えた。
「はい」
今度は迷わなかった。
すると。
「なぜ?」
と聞かれた。
遼は考えた。
千夏がいるから。
好きだから。
結婚したから。
違う。
どれも正しい。
でも。
どれも十分ではない。
「……分からない」
結局。
そう答えた。
白い部屋は静かだった。
やがて。
「それでも?」
と声がした。
遼は少し笑った。
「それでも」
そう答えた。
その瞬間。
白い部屋に雨の音が響いた。
ぽつ。
ぽつ。
ぽつ。
遠くで。
誰かが笑っている。
美咲の声。
凛の声。
玲奈の声。
千夏の声。
全部が重なって。
一つの声になった。
――おやすみ。
◇
朝。
遼は目を覚ました。
隣に千夏はいなかった。
「千夏?」
返事がない。
ベッドから起き上がる。
部屋が妙に静かだった。
リビングにもいない。
キッチンにもいない。
「千夏?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
テーブルの上に。
一枚の紙が置いてあった。
遼は手に取る。
そこには。
何も書かれていなかった。
ただ。
紙の端に。
小さく。
数字が一つだけ印刷されていた。
『4』
遼は、その数字を見つめた。
意味が分からない。
けれど。
胸の奥だけは。
その数字を知っていた。
何かが終わった。
そして。
何かが始まる。
そんな気がした。
遼は窓を開けた。
外は。
雨だった。
◇
世界が暗くなる。
音が消える。
匂いが消える。
記憶が。
ゆっくりと。
遠ざかっていく。
千夏の顔。
声。
笑い方。
一緒に食べたパン。
二十円。
百円。
水たまり。
結婚。
全部が。
指の隙間からこぼれるように消えていく。
遼は必死に手を伸ばした。
忘れたくない。
この世界を。
この人を。
忘れたくない。
けれど。
記憶は。
自分の意思とは関係なく。
薄くなっていく。
最後に残ったのは。
一つだけだった。
千夏の声。
――それでも。
そして。
世界が消えた。
◇
次に目を覚ましたとき。
遼は。
知らない天井を見ていた。
けれど。
もう。
驚かなかった。
どこかで。
分かっていた。
また。
新しい人生が始まる。
また。
誰かと出会う。
また。
恋をする。
また。
幸福を探す。
ただ。
今度の遼には。
一つだけ。
新しい疑問があった。
『なぜ、自分は何度も同じことを繰り返しているのだろう』
その答えを。
遼はまだ知らない。
そして。
彼女が。
なぜ毎回違う姿をしているのかも。
まだ。
知らなかった。




