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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第十七章 世界05・売れない小説家

 目を覚ましたとき、机の上に原稿が積まれていた。


 白い紙の束だった。


 百枚を超えている。


 けれど、それを見ても遼は何も思わなかった。


 驚きもしなかった。


 悲しくもなかった。


 ただ、


 ――またか。


 と思った。


 それが何を意味するのか、自分でも分からなかった。


 窓の外では、雨が降っていた。


 細い雨だった。


 音を立てるほどではないのに、世界中を濡らしてしまいそうな雨。


 遼はベッドから起き上がり、机の前まで歩いた。


 原稿の一番上には、赤い文字があった。


 『落選』


 たった二文字だった。


 それだけなのに、胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。


 机の横には、賞の応募要項が置かれている。


 文学新人賞。


 応募総数、一千を超える。


 その中から選ばれるのは、ほんの数人。


 遼は、自分の名前がそこに載る未来を、何度も想像していた。


 受賞者として名前を呼ばれる。


 書店に自分の本が並ぶ。


 誰かが自分の文章について語る。


 インタビューを受ける。


 そして――。


「また落ちた?」


 背後から声がした。


 遼は振り返った。


 女が立っていた。


 長い髪。


 少し眠そうな目。


 白いシャツに、黒いパンツ。


 年齢は、自分より少し上だろうか。


 三十代前半。


 彼女は遼の顔を見ると、小さく笑った。


「うん」


「そっか」


「うん」


「残念だったね」


「……うん」


 それだけだった。


 彼女は机の上の原稿を手に取った。


 ざっと目を通す。


 そして、何も言わずに元の場所へ戻した。


「どうだった?」


 遼が聞いた。


「何が?」


「俺の小説」


「読んでない」


「じゃあ、なんで手に取ったの?」


「落ちた顔してたから」


 彼女は笑った。


 その笑い方に、妙な懐かしさを覚えた。


 遼は眉を寄せた。


「……何?」


「何が?」


「いや」


 なんでもない、と言おうとして、やめた。


 彼女が左耳に触れたからだ。


 考えるときのように。


 ほんの一瞬だけ。


 指先で耳たぶに触れて、それから手を下ろす。


 見間違いかと思った。


「沙織」


「ん?」


「俺たちって、いつから付き合ってたっけ?」


 彼女は少しだけ目を丸くした。


「何それ」


「なんとなく」


「三年」


「三年……」


「正確には三年と八か月」


「そんなに?」


「忘れたの?」


 沙織は笑った。


 怒っている様子はなかった。


 むしろ楽しそうだった。


「遼って、たまに変なこと聞くよね」


「そうかな」


「そうだよ」


 そう言って、彼女は台所へ向かった。


 冷蔵庫を開ける音。


 食器の触れ合う音。


 ケトルのスイッチが入る音。


 その一つ一つが、ひどく普通だった。


 普通すぎた。


 遼は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。


 そして、ふと気づいた。


 この部屋を知っている。


 窓の向こうに見える建物も。


 近所のコンビニも。


 駅までの道も。


 郵便受けの位置も。


 自分の財布がどこにあるかも。


 全部知っている。


 なのに。


 自分がどうしてここにいるのかだけが、分からない。


 いや。


 正確には、分からないというより――。


 思い出せない。


 遼は目を閉じた。


 すると、いくつかの顔が浮かんだ。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 千夏。


 名前だけだった。


 顔は、霧の向こうにある。


 誰だったのか。


 どうして知っているのか。


 どうして胸が痛むのか。


 考えようとすると、記憶は砂のように指の隙間から落ちていった。


「コーヒー飲む?」


 沙織の声がした。


「ああ」


 やがて、机の上に二つのカップが置かれた。


 湯気が立っている。


 遼は一口飲んだ。


 苦い。


 少しだけ酸味がある。


 沙織はカップを持ったまま、窓の外を見ていた。


 そして、ほんの少しだけ飲む。


 それから置いた。


 残りは、一口分。


 遼は、そのカップを見つめた。


 なぜだろう。


 胸の奥がざわついた。


「どうしたの?」


「いや……」


「また変な顔してる」


「沙織って、コーヒー全部飲まないんだな」


「え?」


「いつも一口残す」


「そう?」


「うん」


「知らなかった」


 沙織は笑った。


 そしてまた左耳に触れた。


 今度は、はっきり見えた。


 遼は何も言わなかった。


 言えなかった。


 それよりも気になったことがあった。


 机の端に置かれた本だった。


 表紙には、沙織の名前がある。


 新刊。


 発売されたばかりらしい。


 遼はそれを手に取った。


「これ、売れてるの?」


「まあまあ」


「まあまあって……」


「十万部くらい」


 遼の手が止まった。


「……十万?」


「うん」


「十万部って、まあまあなの?」


「私の中ではね」


 沙織は何でもないことのように言った。


 十万部。


 その数字が、遼には遠い世界のものに思えた。


 自分は、一冊も出していない。


 何年も書いている。


 何十本も書いた。


 そのたびに落ちた。


 一次選考で落ちることもある。


 最終候補まで残ったこともある。


 けれど、いつも最後には誰か別の人が選ばれる。


 その「誰か」の中に、沙織がいたこともある。


 恋人なのに。


 自分が欲しかった場所に、彼女はいる。


 自分が何年も手を伸ばして届かなかった場所に、彼女は当たり前のように立っている。


 遼は本を閉じた。


「すごいな」


「何が?」


「十万部」


「遼もそのうち行くよ」


「……そのうちって、いつ?」


 口から出た言葉に、自分自身が驚いた。


 沙織は黙った。


 遼も黙った。


 雨の音だけが聞こえる。


 その瞬間、遼は初めて理解した。


 自分は、彼女を愛している。


 そして同時に。


 彼女が羨ましい。


 それどころか。


 ほんの少しだけ、憎い。


 その感情に気づいた瞬間、遼は自分がひどく醜い人間になったような気がした。


 恋人の成功を喜べない。


 自分より才能のある恋人を、心の底から祝福できない。


 それは愛ではないのではないか。


 そう思った。


 けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。


 ――本当にそうだろうか。


 誰かを愛するということは、その人のすべてを肯定することなのだろうか。


 相手の成功を、自分の成功のように喜べなければならないのだろうか。


 嫉妬してはいけない。


 羨ましがってはいけない。


 醜い感情を持ってはいけない。


 そんなことを要求するなら、愛とはあまりにも人間離れしている。


 むしろ。


 醜い感情を抱いたまま、それでも相手のそばにいること。


 それもまた、愛なのではないか。


「遼」


「ん?」


「今日、出版社行くんだけど」


「うん」


「一緒に来る?」


「俺が?」


「うん」


「なんで?」


「帰りにご飯食べようよ」


「……俺、小説落ちたばっかりだけど」


「だから?」


 沙織は不思議そうに首を傾げた。


「落ちたら、ご飯食べちゃいけないの?」


 遼は思わず笑った。


「いや」


「じゃあ行こう」


「うん」


 その瞬間だった。


 何かが胸の奥で、かすかに引っかかった。


 ――この会話を、知っている。


 そう思った。


 初めてではない。


 けれど、いつだったのか思い出せない。


 別の場所。


 別の女性。


 別の人生。


 それなのに。


 同じように、自分の隣に誰かがいて。


 同じように、どうでもいいことで笑っている。


 遼は沙織の横顔を見た。


 彼女は窓の外を見ている。


 雨を見ながら、左耳に触れる。


 そして、少しだけ残ったコーヒーを飲む。


 遼は息を止めた。


「……沙織」


「ん?」


「俺たち、前にも会ったことある?」


 沙織は振り返った。


 数秒、遼を見つめる。


 それから。


「変なの」


 そう言って笑った。


「私たち、三年以上付き合ってるよ」


「そうじゃなくて」


「じゃあ、何?」


「分からない」


 遼自身にも分からなかった。


 何を聞きたいのか。


 何を知りたいのか。


 ただ。


 この女性を初めて見た気がしなかった。


 それだけだった。


 沙織はしばらく遼を見ていた。


 そして、静かに言った。


「遼」


「うん」


「人ってさ」


「うん」


「自分が忘れたことまで、全部なくなると思う?」


 遼は答えられなかった。


 雨が少し強くなった。


 窓ガラスを叩く音が、部屋の中まで入り込んでくる。


 時計を見る。


 十一時五十八分。


 秒針が進む。


 十一時五十九分。


 その瞬間。


 どこからともなく、電子音が聞こえた。


 ピッ。


 遼は顔を上げた。


「今の、何?」


「何が?」


「音」


「聞こえなかったけど」


 沙織はそう言って、また笑った。


 そして。


 遼は気づいた。


 沙織の顔を見ながら、自分が考えていることに。


 ――この人となら。


 また、幸せになれる気がする。


 その「また」という言葉が、ひどく怖かった。


 まだ何も思い出していないのに。


 なぜ自分は、そんな言葉を知っているのだろう。


 遼は窓の外を見た。


 雨の向こうに、知らない街があった。


 けれどその街を、どこか懐かしいと思った。


 そしてまだ知らなかった。


 この世界では。


 『「幸せになれない理由」が、初めて「愛している相手そのもの」になろうとしていることを』


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