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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第十八章 愛と嫉妬

 出版社からの帰り道、沙織はずっと機嫌がよかった。


「今日、担当さんがね、新しい企画を考えてくれて」


「へえ」


「今度、海外でも出すかもしれないって」


「すごいじゃん」


「でしょ?」


 沙織は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、遼も笑った。


 笑えた。


 少なくとも、表面上は。


 けれど胸の奥では、別の何かが動いていた。


 海外。


 新刊。


 十万部。


 賞。


 インタビュー。


 その言葉が一つずつ積み重なっていく。


 まるで、自分と彼女の間に、見えない階段ができていくようだった。


 沙織は上へ行く。


 自分は同じ場所にいる。


 いや。


 もしかすると、自分だけが下がっているのかもしれない。


「遼?」


「ん?」


「聞いてる?」


「ああ。聞いてるよ」


「嘘」


 沙織は笑った。


「聞いてるけど、考え事してる顔」


「そんな顔してた?」


「してる」


 遼は苦笑した。


「小説のこと考えてた」


「次のやつ?」


「うん」


「じゃあ、いいじゃん」


 沙織はそう言った。


 その言葉が、なぜか痛かった。


 ――いいじゃん。


 彼女にとっては、それだけなのだ。


 書けばいい。


 また挑戦すればいい。


 落ちたなら次を書けばいい。


 それは正しい。


 正しいからこそ、苦しかった。


 遼には「次」が無限にあるようには思えなかった。


 一作を書くには時間がいる。


 才能もいる。


 運もいる。


 そして何より。


 書き続けても何者にもなれないかもしれない、という恐怖に耐えなければならない。


 それを沙織は知らないわけではない。


 彼女だって何度も落ちている。


 それでも彼女は、いつの間にか自分より先へ行ってしまった。


 だから余計に悔しかった。


 才能のない人間なら、諦められる。


 努力していない人間なら、羨ましく思わずに済む。


 けれど。


 努力している。


 苦労もしている。


 それでも成功している。


 そういう人間を見ると、人は自分の言い訳を失う。


 遼は、それが怖かった。


「ごめん」


 沙織が突然言った。


「何が?」


「なんか、私ばっかり話してた」


「別にいいよ」


「本当に?」


「ああ」


 沙織はしばらく遼の顔を見ていた。


 そして、少しだけ左耳に触れた。


「……遼ってさ」


「うん」


「私のこと、嫌いになった?」


 心臓が一度、大きく鳴った。


「なんで?」


「なんとなく」


「ならないよ」


「本当に?」


「ああ」


 嘘ではなかった。


 嫌いではない。


 むしろ好きだった。


 好きだからこそ、苦しかった。


 そのことを、遼はうまく説明できなかった。


 愛している人が幸せになると嬉しい。


 それは確かだ。


 けれど。


 その幸せが、自分の不幸を照らしてしまうことがある。


 好きな人の輝きが、自分の影を濃くする。


 だから嫉妬する。


 嫉妬する自分が嫌になる。


 そして、自分を嫌いになった分だけ、相手に腹が立つ。


 そんな循環が、人間の心の中にはある。


 相手は何も悪くない。


 なのに。


 悪くないからこそ、責める場所がない。


 遼は、そんな自分の心が嫌だった。


「沙織」


「ん?」


「俺、たぶん嫉妬してる」


 沙織は黙った。


「何に?」


「全部」


「全部?」


「小説が売れてることとか。賞を取ったこととか。俺より先に行ってることとか」


「そっか」


「……嫌じゃない?」


「何が?」


「俺がそんなこと思ってるの」


 沙織は少し考えた。


「嫌じゃないよ」


「どうして?」


「だって、遼が私のことどうでもいいと思ってたら、嫉妬もしないでしょ」


 遼は何も言えなかった。


 沙織は続けた。


「嫉妬って、相手が大事だから生まれることもあると思う」


「でも、醜いよ」


「人間なんだから、醜いところくらいあるよ」


 あまりにも簡単に言うので、遼は笑ってしまった。


「沙織は強いな」


「強くないよ」


「強いだろ」


「じゃあ、遼は私が何も嫉妬してないと思ってる?」


「え?」


 沙織は立ち止まった。


 駅前の信号が赤だった。


 人々が立ち止まっている。


 車のライトが雨上がりの道路に伸びていた。


「私だって嫉妬するよ」


「何に?」


「遼に」


「俺?」


「うん」


 遼には意味が分からなかった。


「沙織みたいに売れてないこと?」


「違う」


「じゃあ何?」


「私が持ってないものを持ってるから」


「……何を?」


 沙織は少し笑った。


「まだ分からない」


 信号が青になった。


 二人は歩き出した。


 それ以上、沙織は何も言わなかった。


 その日の夜。


 遼は一人で机に向かっていた。


 白い原稿用紙。


 何も書けない。


 一文字も。


 頭の中には言葉がある。


 けれど、それを文章にしようとすると、全部が嘘に思えた。


 成功したい。


 認められたい。


 沙織に追いつきたい。


 そんな気持ちで書いた文章に、何の価値があるのだろう。


 遼は椅子にもたれた。


 天井を見る。


 すると、ふいに思った。


 ――もし、沙織が売れなかったら。


 自分は安心するのだろうか。


 その想像をした瞬間、胸の奥に小さな安堵が生まれた。


 そして、その安堵に気づいた瞬間。


 吐き気がするほど、自分が嫌になった。


 彼女が不幸なら、自分は少し幸福になる。


 そんな人間になりたいわけではない。


 なのに。


 そう思ってしまう。


 人間は、誰かと比較することでしか、自分の位置を確かめられないのだろうか。


 幸福さえも。


 誰かより上か下かで測ってしまうのだろうか。


 遼は目を閉じた。


 そのときだった。


「遼」


 沙織の声がした。


 振り返る。


「まだ起きてたの?」


「ああ」


「何書いてるの?」


「何も」


「じゃあ、寝れば?」


「うん」


 沙織は机の横まで来た。


 そして、遼の原稿を覗き込んだ。


「一行もないね」


「うるさい」


「ふふ」


 沙織が笑う。


 遼も少し笑った。


 それから彼女は、机の上のコーヒーを見つけた。


「冷めてるよ」


「そうだな」


「飲まないの?」


「もういい」


 沙織はカップを手に取った。


 一口だけ飲んだ。


 そして、置いた。


 残りは一口分だった。


 遼は、その光景を見つめていた。


 まただ。


 また、この感じ。


 胸の奥に、記憶にならない記憶がある。


 誰かが同じことをしていた。


 違う顔。


 違う声。


 違う人生。


 なのに。


 同じようにコーヒーを一口残していた。


「沙織」


「ん?」


「前にも聞いたけど」


「うん」


「俺たち、本当に三年しか付き合ってない?」


 沙織は答えなかった。


 笑顔も消えた。


 ただ遼を見ている。


「どうしてそんなこと聞くの?」


「分からない」


「何か思い出した?」


「何も」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて沙織は、静かに言った。


「じゃあ、思い出さなくてもいいよ」


「え?」


「忘れてるなら、それでいい」


「でも……」


「今、私がここにいるから」


 遼は沙織を見つめた。


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥で、何かが強く震えた。


 理由は分からない。


 ただ。


 その言葉を、以前にも聞いた気がした。


 違う場所で。


 違う声で。


 違う名前の誰かから。


 ――今、私がここにいるから。


 時計を見る。


 十一時五十九分。


 秒針が、一つ進んだ。


 カチッ。


 遼は目を閉じた。


 白い部屋が見えた。


 誰もいない。


 何もない。


 ただ、遠くから声がする。


 『「あなたは、誰を愛していますか?」』


 遼は答えようとした。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 千夏。


 そして――。


 沙織。


 名前が次々に浮かぶ。


 けれど最後に残ったのは、名前ではなかった。


 ただ一人の女性の後ろ姿だった。


 雨の中。


 傘を持っている。


 こちらを振り返らない。


 遼は、その人を見ていた。


 なぜか。


 泣きそうになった。


 そして思った。


 ――俺は、この人を知っている。


 目を開ける。


 沙織が目の前にいた。


「どうしたの?」


「……いや」


「怖い夢でも見た?」


「夢じゃない」


「え?」


「分からないけど」


 遼は自分の胸に手を当てた。


「俺、たぶん……誰かを探してる」


 沙織は何も言わなかった。


 ただ。


 左耳に触れた。


 その仕草を見た瞬間。


 遼の中で、ひとつの疑問が生まれた。


 『――俺が探しているのは、彼女なのか』


 それとも。


 『彼女の中にいる、誰かなのか』


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