第十九章 同じ癖
人を好きになる理由を、遼は何度も考えた。
顔が好きだった。
声が好きだった。
優しいところが好きだった。
よく笑うところが好きだった。
そういう理由なら、いくらでも挙げられる。
けれど、それはたいてい後から作られたものだった。
好きになってしまったあとで、人は理由を探す。
好きだから優しく見える。
好きだから、その声が特別に聞こえる。
好きだから、他の人なら気にも留めない仕草まで愛おしくなる。
つまり。
愛には、原因より先に結果がある。
人は誰かを好きになってから、「なぜ好きなのか」を考える。
では。
自分が好きになった相手が、自分の記憶によって作られた存在だったら?
その疑問が浮かんでから、遼は沙織を見るたびに、以前よりも彼女を観察するようになった。
それは恋人を見る目ではなかった。
研究者が対象を見るような目だった。
彼女は朝起きると、カーテンを少しだけ開ける。
全部は開けない。
外が晴れていても、雨でも同じだった。
コーヒーを淹れる。
必ず少しだけ残す。
考え事をすると、左耳に触れる。
笑うとき、ほんの少しだけ首を傾ける。
そして、本当に困ったときには。
一度だけ目を閉じる。
それだけ。
どれも珍しい仕草ではない。
人間なら誰にでもありそうなものだ。
だからこそ、遼は怖かった。
偶然なのかもしれない。
自分が勝手に意味を見つけているだけなのかもしれない。
人間の脳は、意味のないところにも意味を見つける。
雲の形を顔に見たり。
雑音の中から言葉を聞いたり。
偶然続いただけの出来事を「運命」と呼んだりする。
だから、これもただの偶然だ。
そう思おうとした。
けれど。
偶然にしては、少し多すぎた。
「何見てるの?」
沙織が言った。
「いや」
「私?」
「……うん」
「変なの」
沙織は笑った。
それから、左耳に触れた。
遼は思わず言った。
「それ」
「何?」
「耳」
「耳?」
「考えるとき、触るよな」
「そう?」
「うん」
沙織は自分の耳に触れた。
「これ?」
「ああ」
「昔からかな」
「知らない」
「じゃあ、今から癖ってことにしようかな」
「なんで?」
「遼が見つけたから」
沙織は笑った。
その瞬間。
遼の中で、別の声が重なった。
――「そういうところ」
凛の声。
――「予約しとく?」
美咲の声。
――「別にいいじゃん」
千夏の声。
どれも違う。
性格も。
話し方も。
人生も。
顔も。
なのに。
時々、同じ場所に触れる。
同じように笑う。
同じようにコーヒーを残す。
そして、同じように遼を見る。
まるで。
同じ人間が、別の人生を演じているみたいに。
「遼?」
「……ごめん」
「また考え事?」
「ああ」
「何考えてるの?」
遼は答えなかった。
代わりに聞いた。
「沙織」
「うん」
「俺のこと、どうして好きになった?」
「またそれ?」
「ちゃんと聞きたい」
沙織は少し考えた。
「変なところ」
「それ、前にも言われた気がする」
「誰に?」
「……分からない」
沙織は笑った。
「じゃあ、私も分からない」
「え?」
「どうして好きになったのかなんて、後からならいくらでも理由を作れるよ」
遼は黙った。
「最初から理由があったわけじゃないと思う」
「じゃあ、何だったの?」
「気づいたら」
「気づいたら?」
「好きだった」
簡単な言葉だった。
けれど。
その言葉は、遼の中に深く沈んだ。
気づいたら。
人はいつもそうなのかもしれない。
好きになる瞬間を、自分で選べない。
幸せになる瞬間も。
不幸になる瞬間も。
ある日突然、自分の中に何かが生まれている。
それを後から説明しようとする。
あの人が優しかったから。
あの場所が好きだったから。
あの仕事が楽しかったから。
でも、本当は。
理由などなかったのかもしれない。
ただ、そう感じた。
それだけ。
「ねえ、遼」
「ん?」
「もし私が小説を書いてなくても、好き?」
「もちろん」
「もし売れてなかったら?」
「好きだよ」
「もし、私の顔が今と違ったら?」
遼は黙った。
なぜそんな質問をするのか分からなかった。
「……好きだと思う」
「思う?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「だって、今の沙織しか知らないから」
沙織は少し笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、遼は妙な感覚に襲われた。
今の沙織しか知らない。
そのはずだった。
なのに。
なぜか。
自分は彼女の「別の顔」を知っている気がした。
明るい女性。
静かな女性。
気の強い女性。
貧しい女性。
そのどれもが、沙織とは違う。
けれど。
どこかで繋がっている。
遼はスマートフォンを取り出した。
写真フォルダを開く。
この世界の写真。
沙織との写真。
二人で食べた料理。
旅行。
駅。
雨の日。
何気ない自撮り。
その中に、一枚だけ見覚えのない写真があった。
知らない場所。
知らない女性。
そして。
自分。
「……これ」
遼の指が止まった。
「どうしたの?」
沙織が覗き込む。
「この写真、誰?」
「え?」
「俺と、この人」
写真には、二人の男女が写っていた。
女性は沙織ではない。
少なくとも、この世界の沙織では。
「知らない」
「でも俺だ」
「……本当だね」
沙織の声が少し低くなった。
遼は写真を拡大した。
背景は、古い喫茶店だった。
女性は笑っている。
顔はよく見えない。
けれど。
左手が耳元にある。
遼の背中に、冷たいものが走った。
「この人……」
「誰?」
沙織が聞く。
「分からない」
写真の日付を見る。
数字が表示されていた。
この世界で二人が付き合い始めるより、ずっと前。
遼は息を呑んだ。
「これ、いつ撮った?」
「私に聞かれても」
沙織は答えながら、写真を見つめている。
その顔から笑顔が消えていた。
「遼」
「うん」
「その写真」
「うん」
「消したほうがいいんじゃない?」
遼は沙織を見た。
「どうして?」
「分からない」
「じゃあ、なんで?」
「……なんとなく」
また、その言葉だった。
なんとなく。
人間は「分からない」を隠すために、なんとなくと言う。
遼はそう思った。
けれど同時に。
沙織自身も、本当に分からないのかもしれないと思った。
説明できない恐怖。
理由のない懐かしさ。
言葉になる前の記憶。
人間の心には、そういうものがある。
記憶は、思い出せるものだけではない。
忘れているのに、身体だけが知っていることがある。
見たことのない道を「懐かしい」と感じる。
初めて聞く曲に、昔から知っていたような感覚を覚える。
初対面の人間に、なぜか安心する。
理屈より先に、身体が答えてしまう。
ならば。
自分の中に残っているこの感覚も。
記憶なのだろうか。
それとも。
記憶ではない何かなのだろうか。
「遼」
「ん?」
「その写真、私に送って」
「なんで?」
「ちょっと気になるから」
「分かった」
遼は写真を送った。
沙織のスマートフォンが震える。
彼女は画面を見た。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
顔が変わった。
驚き。
悲しみ。
懐かしさ。
そして。
何かを確かめるような表情。
けれど、それはすぐに消えた。
「どうした?」
「……何でもない」
「本当に?」
「うん」
沙織はスマートフォンを伏せた。
そして、左耳に触れた。
遼はもう、それを偶然とは思えなかった。
その夜。
遼は眠れなかった。
机に向かい、昼間の写真を何度も見返す。
知らない女性。
知らない場所。
知らない時間。
なのに。
自分は、その写真を見ていると安心した。
おかしい。
怖いはずなのに。
安心する。
その矛盾が、一番怖かった。
やがて午前零時を過ぎた。
時計の針が静かに進む。
十一時五十九分。
まただ。
遼は時計を見た。
秒針が止まったように見えた。
その瞬間。
部屋の中に、かすかな電子音が響いた。
ピッ。
遼は立ち上がった。
音はどこからしたのか分からない。
机の上のパソコンでもない。
スマートフォンでもない。
時計でもない。
それなのに。
確かに聞こえた。
遼は目を閉じた。
白い部屋。
何もない空間。
そして。
女性の声。
『「あなたは、私を知っていますか?」』
遼は答えなかった。
答えられなかった。
その声が誰のものなのか。
分からない。
けれど。
声を聞いた瞬間。
胸の奥が痛んだ。
会いたい。
そう思った。
誰に?
分からない。
ただ。
誰かに会いたい。
ずっと探していた誰かに。
目を開ける。
そこには沙織が立っていた。
「遼?」
「……沙織」
「どうしたの?」
「俺さ」
「うん」
「もし」
言葉が喉につかえた。
「もし、俺が君を何度も忘れてるとしたら」
沙織の表情が止まった。
「……何度も?」
「ああ」
「どうしてそんなこと思うの?」
「分からない」
沙織は黙った。
そして。
ゆっくりと遼の隣に座った。
「じゃあ」
「うん」
「忘れるたびに、また好きになればいいんじゃない?」
遼は彼女を見た。
沙織は笑っていた。
いつもの笑顔だった。
けれど。
その目だけは、少し寂しそうだった。
「それじゃ、遼は大変だね」
「何が?」
「私を何回も好きにならなきゃいけないから」
遼は笑った。
なぜか涙が出そうになった。
そして思った。
もしかすると。
愛とは、相手を覚えていることではないのかもしれない。
記憶がなくても。
理由がなくても。
名前すら知らなくても。
もう一度、同じ人を選んでしまうこと。
もしそれが愛なのだとしたら。
自分はいったい、何度この人を選んできたのだろう。
その問いだけが。
夜の静かな部屋に、いつまでも残っていた。




