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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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20/21

第二十章 世界06・老人

 目を覚ましたとき。


 遼は、自分の手を見た。


 皺があった。


 指は細く、皮膚は薄い。


 手の甲には、いくつもの茶色い斑点が浮かんでいる。


 しばらく、その手を眺めていた。


 驚かなかった。


 もう、驚くことに疲れていた。


 十九歳だった。


 三十五歳だった。


 二十三歳だった。


 三十二歳だった。


 そして今。


 鏡を見る。


 七十二歳。


 白髪。


 深く刻まれた皺。


 少し曲がった背中。


 顔だけを見れば、別人だった。


 けれど。


 鏡の中の男を見て、遼は思った。


 ――俺だ。


 不思議だった。


 顔が変わっても、自分を自分だと思う。


 身体が変わっても。


 仕事が変わっても。


 住む場所が変わっても。


 人生そのものが変わっても。


 「自分」という感覚だけは、なぜか残る。


 では。


 自分を自分だと思わせているものは、いったい何なのだろう。


 記憶か。


 身体か。


 性格か。


 それとも。


 ただ、「自分は自分だ」と感じることなのか。


「遼」


 隣から声がした。


 振り返る。


 女性が眠そうな顔でこちらを見ていた。


 白髪。


 細い腕。


 柔らかな皺。


 七十代だろう。


「起きたの?」


「ああ」


「何時?」


「六時半」


「早いね」


「年寄りだからな」


「自分で言う?」


 彼女は笑った。


 遼も笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 胸の奥に、懐かしさが広がった。


「和子」


「なに?」


「俺たち、何年一緒にいる?」


「忘れたの?」


「いや」


「じゃあ、なんで聞くの」


「聞きたくなった」


 和子は少し考えた。


「五十一年」


「そんなにか」


「そう」


「長いな」


「長いね」


 五十一年。


 その数字を聞いても、遼には実感がなかった。


 けれど。


 リビングに置かれた写真を見る。


 若い二人。


 子ども。


 家族。


 旅行。


 何でもない休日。


 病院の廊下。


 引っ越し。


 誕生日。


 結婚記念日。


 たくさんの写真があった。


 その一枚一枚に。


 二人がいた。


 遼は写真を一枚手に取った。


「これ、いつ?」


「結婚して十年くらいじゃない?」


「若いな」


「遼、髪結構あるね」


「失礼だな」


 二人で笑った。


 笑い終わる。


 静かになる。


 すると遼は、不思議なことに気づいた。


 若い頃の自分が、今の自分より幸福だったようには思えなかった。


 もちろん。


 若さには若さの幸福があっただろう。


 未来があった。


 身体が自由だった。


 何にでもなれそうな気がした。


 けれど。


 今にも幸福がある。


 朝起きて、隣に誰かがいる。


 名前を呼べば返事がある。


 今日は何を食べようかと話す。


 薬を飲んだか確認する。


 テレビの内容について、どうでもいいことで意見が食い違う。


 買い物に行く。


 疲れたら休む。


 そして夜になれば眠る。


 幸福は、派手ではなかった。


 むしろ。


 あまりにも普通だった。


 だからこそ。


 それを幸福だと認識するのが難しい。


「今日は何する?」


 和子が聞いた。


「病院」


「私も」


「じゃあ、一緒に行くか」


「うん」


 それだけの会話だった。


 それだけなのに。


 遼は少し笑った。


 若い頃なら。


 こんな一日を「幸せ」と呼んだだろうか。


 きっと呼ばなかった。


 もっと特別なものを探した。


 もっと大きな成功。


 もっと強い恋。


 もっと多くのお金。


 もっと若さ。


 もっと自由。


 人間は、持っていないものを幸福の条件にする。


 そして手に入れると。


 それを条件から外す。


 当たり前になるからだ。


 健康なときには、健康を幸福とは思わない。


 歩けるときには、歩けることをありがたいと思わない。


 隣にいる人がいるときには、その存在を奇跡とは思わない。


 失いそうになったとき。


 初めて気づく。


 自分が、何を持っていたのか。


「遼」


「ん?」


「今日、帰りに喫茶店寄らない?」


「コーヒー?」


「そう」


「いいよ」


 和子は嬉しそうに笑った。


 そして。


 左耳に触れた。


 遼は動きを止めた。


 ほんの一瞬。


 和子は気づかない。


「どうしたの?」


「……いや」


「変な顔」


「そうかな」


「そう」


 和子は笑った。


 遼は何も言わなかった。


 まただ。


 この仕草。


 同じ。


 美咲も。


 凛も。


 千夏も。


 沙織も。


 そして。


 和子も。


 左耳に触れる。


 同じ癖。


 偶然なのだろうか。


 これまでなら、そう考えただろう。


 けれど今は。


 偶然という言葉だけでは、自分を納得させられなくなっていた。


 病院からの帰り道。


 二人はゆっくり歩いた。


 昔なら十分で歩けた道に、今は二十分かかる。


 和子が途中で立ち止まった。


「疲れた?」


「ちょっと」


「休もうか」


「うん」


 ベンチに座る。


 目の前を若い夫婦が通り過ぎた。


 男性が女性の荷物を持っている。


 女性が笑っている。


 二人とも若い。


 遼はその姿を目で追った。


 そして。


 不意に、胸の奥に奇妙な感情が生まれた。


 羨ましい。


 若さが。


 未来が。


 これから始まる人生が。


 それを思った直後。


 隣を見る。


 和子がいる。


 自分より先に死ぬかもしれない。


 自分より後に死ぬかもしれない。


 どちらにしても。


 この時間には終わりがある。


 その事実を考えた瞬間。


 幸福が、急に恐ろしくなった。


 幸福とは。


 失う可能性を同時に持つことなのではないか。


 大切なものがなければ、失う怖さもない。


 だから。


 幸せになることは、同時に傷つく可能性を引き受けることでもある。


 遼は和子の手を見た。


 細い。


 皺だらけ。


 自分の手と似ている。


 五十一年。


 長い時間を共有した手だった。


「和子」


「なに?」


「俺たち、幸せだったかな」


 和子はすぐには答えなかった。


 空を見上げた。


「さあ」


「さあ?」


「ずっと幸せだったわけじゃないよ」


「……うん」


「喧嘩もしたし」


「したな」


「お金のことで揉めたこともあるし」


「あった」


「遼が仕事ばっかりしてた時期もあった」


「……あった」


「私も、ひどいこと言った」


「俺も」


 二人とも笑った。


「だから」


 和子が言った。


「ずっと幸せだったかって聞かれたら、違うと思う」


「じゃあ」


「でもね」


 和子は遼を見る。


「幸せじゃない日も、一緒にいたでしょう?」


 遼は黙った。


「それでいいんじゃない?」


 それだけだった。


 けれど。


 その言葉は、これまでの人生を静かに言い換えてしまった。


 幸せな人生。


 そんなものは、存在しないのかもしれない。


 幸せな日だけで構成された人生なんてない。


 悲しい日も。


 腹の立つ日も。


 何もしたくない日も。


 失敗する日も。


 後悔する日も。


 それら全部を含めて。


 「自分の人生」と呼ぶ。


 その人生を誰かと生きていく。


 幸福とは。


 幸福な瞬間を集めることではなく。


 幸福ではない時間さえも、「この人生でよかった」と思えることなのかもしれない。


「帰ろうか」


 和子が立ち上がった。


「ああ」


 遼も立った。


 二人はゆっくり歩き始める。


 夕方。


 雨が降り始めた。


「傘ある?」


「一本」


「じゃあ、入れて」


「近いぞ」


「いいじゃない」


 一本の傘に二人で入る。


 昔と同じだった。


 歩く速度は遅くなった。


 会話も減った。


 けれど。


 傘は一つだった。


 それだけで十分だった。


 その夜。


 遼は夢を見た。


 白い部屋。


 何もない。


 何も聞こえない。


 ただ。


 目の前に時計がある。


 十一時五十九分。


 遼は時計を見つめた。


 すると。


 どこからか声が聞こえた。


 『「あなたは、何を失うのが怖いですか?」』


 遼は答えた。


「彼女です」


 声が聞く。


 『「なぜ?」』


「分からない」


 『「では、幸福とは何ですか?」』


 遼はしばらく考えた。


 そして。


「失うのが怖いと思えるものがあること」


 答えた瞬間。


 遠くから、雨の音がした。


 そして。


 電子音。


 ピッ。


 遼は目を覚ました。


 朝だった。


 隣には和子がいる。


 眠っている。


 遼はしばらく、その寝顔を見つめていた。


 そして。


 なぜか思った。


 ――この人を知っている。


 ずっと前から。


 ずっと。


 ずっと前から。


 けれど。


 それは五十一年という意味ではなかった。


 もっと長い。


 もっと遠い。


 自分が生まれるより前から知っているような。


 そんな感覚だった。


 遼は目を閉じた。


 すると。


 別の女性の顔が浮かんだ。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 千夏。


 沙織。


 和子。


 違う顔。


 違う声。


 違う人生。


 それなのに。


 全部同じ場所へ帰ってくる。


 遼は初めて。


 その可能性を、はっきりと言葉にした。


 ――もしかして。


 『彼女たちは、みんな同じ人なのではないか』


 その考えが浮かんだ瞬間。


 時計の針が。


 十一時五十九分を指していた。


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