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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十一章 幸せな老人

 朝、目を覚ます。


 天井が見える。


 白い天井。


 カーテンの隙間から、薄い光が入っている。


 遼はしばらく動かなかった。


 隣には和子がいる。


 静かな寝息。


 布団の中で、身体を小さく丸めている。


 昨日までなら、ただの朝だった。


 けれど今は違う。


 遼は、自分の隣にいる女性を見ながら考えていた。


 ――この人は、本当に和子なのだろうか。


 もちろん、戸籍上はそうだ。


 五十一年間、一緒に暮らしてきた妻。


 写真にも、記録にも、二人の生活は残っている。


 けれど。


 記憶だけは、妙だった。


 自分には和子との五十一年分の記憶がある。


 旅行。


 喧嘩。


 食事。


 仕事。


 家族。


 病院。


 老いていく身体。


 そのどれもが、自分の人生として自然につながっている。


 なのに。


 その人生のところどころに、別の人生が混ざっている。


 美咲との生活。


 凛との生活。


 玲奈との生活。


 千夏との生活。


 沙織との生活。


 どれも夢だったとは思えない。


 夢なら、もっと曖昧なはずだ。


 ところが、それぞれの人生には匂いがあった。


 温度があった。


 くだらない会話があった。


 失敗があった。


 そして。


 幸福があった。


 それらを夢という一言で片づけることは、なぜかできなかった。


「……遼」


 和子が目を開けた。


「起きてたの?」


「ああ」


「早いね」


「考え事してた」


「また?」


「また」


 和子は眠そうに笑った。


「朝から難しい顔しないの」


「難しい顔?」


「してる」


「どんな顔だよ」


「哲学者みたいな顔」


「俺、哲学者だったのか」


「知らない」


 二人で笑った。


 それだけで。


 胸の奥が少し軽くなる。


 遼は思った。


 これも幸福なのだろうか。


 特別な出来事は何もない。


 誰かから褒められるわけでもない。


 お金が増えるわけでもない。


 若返るわけでもない。


 ただ。


 朝起きて。


 隣の人とくだらない話をする。


 それだけ。


 それだけなのに。


 人間は、こういう時間を失って初めて、その価値に気づく。


「朝ご飯、何にする?」


「パン」


「昨日もパンだったよ」


「じゃあ、ご飯」


「炊いてない」


「じゃあパン」


「結局パンじゃん」


 和子は笑った。


 遼も笑った。


 そして台所へ向かう。


 冷蔵庫を開ける。


 卵。


 牛乳。


 少し古くなった野菜。


 何年も使っている調味料。


 どれも新しくない。


 けれど。


 見慣れたものだった。


 人生とは、もしかすると「見慣れたものが増えていくこと」なのかもしれない。


 若い頃は、知らないものを求める。


 知らない街。


 知らない人。


 知らない仕事。


 知らない未来。


 年を取るほど、知っているものが大切になる。


 いつもの道。


 いつもの椅子。


 いつもの朝食。


 いつもの声。


 そして。


 いつもの人。


 遼は食パンを焼きながら、ふと思った。


 ――幸福とは、新しいものを手に入れることではなく、同じものを大切にできることなのかもしれない。


「遼」


「ん?」


「また考えてる」


「分かる?」


「分かるよ」


「五十一年一緒にいるから?」


「そう」


 和子は笑った。


 その瞬間。


 遼の胸に、奇妙な痛みが走った。


 五十一年。


 その言葉が、急に遠く感じた。


 まるで。


 誰かが用意した数字のように。


 そんな考えが浮かんだ自分に、遼は戸惑った。


 何を疑っているのだ。


 妻を疑う理由などない。


 五十一年間、一緒に暮らしてきた。


 その事実まで疑う必要はない。


 遼は自分にそう言い聞かせた。


 けれど。


 心というものは、論理だけでは納得しない。


 一度生まれた疑念は、消そうとするほど大きくなる。


 朝食を終えたあと。


 遼は古いアルバムを取り出した。


「何してるの?」


「写真を見る」


「急に?」


「ああ」


 アルバムを開く。


 若い頃の和子。


 若い頃の遼。


 二人で笑っている。


 旅行先。


 結婚記念日。


 家族で撮った写真。


 何枚も。


 何十枚も。


 遼は一枚ずつ見ていった。


 そのとき。


 手が止まった。


 写真の中の和子が。


 左耳に触れていた。


「……」


 偶然だ。


 そう思った。


 けれど。


 次の写真。


 そこでも。


 その次の写真でも。


 左耳に触れている。


 全部ではない。


 もちろん全部ではない。


 けれど。


 考え事をしている写真。


 少し困った顔をしている写真。


 笑う直前の写真。


 そのいくつかで。


 彼女の指は、左耳にあった。


「どうしたの?」


 和子が隣に座った。


「これ」


「何?」


「耳」


「私?」


「ああ」


 和子は写真を見た。


「癖じゃない?」


「いつから?」


「知らない」


「昔から?」


「たぶん」


 和子は笑った。


「そんなこと気にする?」


「……最近、気になる」


「変なの」


 和子はアルバムを閉じようとした。


 遼はその手を止めた。


「待って」


「何?」


「もう少し見たい」


「いいよ」


 二人で写真を見る。


 時間が流れる。


 若かった二人。


 歳を取っていく二人。


 髪が黒から白へ変わっていく。


 顔に皺が増えていく。


 その過程が、一枚ずつ記録されている。


 遼はそれを見ながら思った。


 人間は、変わっていく。


 昨日の自分と今日の自分は、同じではない。


 細胞も変わる。


 考え方も変わる。


 価値観も変わる。


 記憶さえ変わる。


 それでも。


 人は「同じ人間」だと思っている。


 なら。


 愛も同じなのだろうか。


 若い頃の和子と。


 今の和子。


 同じ人なのだろうか。


 もちろん、同じだ。


 遼はそう思う。


 けれど。


 同時に、別人でもある。


 五十一年の時間が、一人の人間を変えた。


 それでも遼は、同じ名前で呼ぶ。


 同じ人として愛する。


 つまり。


 愛するということは。


 変わっていく相手を、「同じ人」として受け入れ続けることなのかもしれない。


「ねえ」


 和子が言った。


「なに?」


「私、昔と今で変わった?」


「変わったよ」


「どう?」


「髪が白くなった」


「そこ?」


「皺も増えた」


「もういい」


 二人で笑った。


「でも」


 遼は続けた。


「変わってないところもある」


「どこ?」


 遼は少し考えた。


「コーヒーを一口残すところ」


 和子は目を丸くした。


「まだ覚えてたの?」


「覚えてる」


「そんなこと?」


「そんなこと」


 和子は笑った。


 そして。


 左耳に触れた。


 遼は、その手を見つめた。


 何度も見た仕草。


 違う人生で。


 違う女性から。


 何度も。


 同じ仕草。


 そして。


 その瞬間。


 遼は突然、ひとつの記憶を思い出した。


 白い部屋。


 椅子。


 向かいに座る誰か。


 若い女性。


 顔は見えない。


 けれど。


 声だけが聞こえる。


 ――「もう一度、やってみる?」


 遼は目を閉じた。


「遼?」


「……なんでもない」


「顔色悪いよ」


「大丈夫」


「本当に?」


「ああ」


 和子は心配そうに遼を見る。


 その顔を見ていると。


 また胸が痛くなる。


 この人も。


 いつかいなくなる。


 その事実を、遼は知っている。


 五十一年も一緒にいれば。


 人生の終わりが、遠いものではなくなる。


 だからこそ。


 今、この瞬間が惜しい。


 人間は、永遠に続くものを幸福とは呼ばないのかもしれない。


 終わると知っているからこそ。


 その時間に価値を感じる。


「和子」


「ん?」


「もしさ」


「うん」


「生まれ変わったら、また会いたい?」


 和子は少し考えた。


「どうかな」


「どうかなって」


「だって、次はもっといい人がいるかもしれないじゃない」


「ひどいな」


「冗談」


 和子は笑った。


 そして。


「でも」


 少しだけ間を置いて。


「また会えたら、たぶん嬉しいと思う」


 遼は笑った。


「そっか」


「うん」


 それ以上、何も言わなかった。


 昼過ぎ。


 二人は家の中で、それぞれ好きなことをして過ごした。


 和子はテレビを見る。


 遼は本を読む。


 会話はほとんどない。


 けれど。


 沈黙が苦しくない。


 若い頃は、沈黙を恐れた。


 話題がなくなることを。


 相手に飽きられることを。


 自分が退屈な人間だと思われることを。


 だから、何かを話そうとした。


 今は違う。


 沈黙そのものが、二人の共有物になっている。


 何も話さなくても。


 隣にいる。


 それでいい。


 夕方。


 和子が台所から声をかけた。


「コーヒー飲む?」


「ああ」


 二つのカップ。


 いつものように。


 和子は一口だけ飲む。


 そして。


 カップを置く。


 遼はそれを見た。


 胸の中に、奇妙な確信が生まれた。


 この仕草を。


 自分は何度も見ている。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 けれど。


 その「何度も」が。


 五十一年の中に存在しているのか。


 それとも。


 五十一年とは別の場所に存在しているのか。


 遼には分からなかった。


 夜。


 二人は寝室へ戻った。


 和子が布団に入り、電気を消す。


「おやすみ」


「おやすみ」


 暗闇。


 隣から呼吸が聞こえる。


 遼は目を閉じた。


 すると。


 また白い部屋が浮かんだ。


 今度は、声がはっきりしていた。


 『「あなたは、幸せですか?」』


 遼は答えた。


「はい」


 『「なぜですか?」』


 遼は考えた。


 そして。


「隣にいるから」


 少しの沈黙。


 声が聞く。


 『「誰が?」』


 遼は答えようとした。


 和子。


 そう言おうとした。


 けれど。


 口から出た言葉は違った。


「……彼女」


 その瞬間。


 白い部屋の向こうに、女性が立った。


 顔は見えない。


 けれど。


 左手が耳元へ伸びる。


 そして。


 彼女が言った。


 『「また、会えたね」』


 遼は目を開けた。


 暗い寝室だった。


 隣には和子がいる。


 眠っている。


 何も変わっていない。


 けれど。


 遼は眠れなくなった。


 ただ一つ。


 胸の中に残っていた。


 ――「また」。


 その言葉は。


 今日初めて聞いたはずなのに。


 なぜか。


 ずっと昔から知っている言葉だった。


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