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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十二章 死について

 その日の朝。


 遼は、和子の寝顔を見ていた。


 眠っている人間の顔は、不思議だった。


 起きているときには、その人の性格が顔に出る。


 笑えば笑顔になる。


 怒れば険しくなる。


 考えれば眉間に皺が寄る。


 けれど眠っていると。


 ただ、一人の人間になる。


 何者でもない。


 名前さえ持たないように見える。


 遼は、和子の白髪を見つめた。


 五十一年前。


 この髪は黒かったのだろう。


 五十一年前。


 この顔には、今ある皺もなかった。


 五十一年前。


 この人は、今の自分よりずっと若かった。


 そして。


 いつか。


 この人は、いなくなる。


 その当たり前の事実が。


 今朝は、ひどく重かった。


「……遼?」


 和子が目を開けた。


「起きてたの?」


「ああ」


「何見てるの?」


「和子」


「私?」


「ああ」


 和子は少し笑った。


「変なの」


「そうかな」


「朝から人の顔見るなんて」


「寝てる顔」


「もっと変」


 遼は笑った。


 和子も笑った。


 いつもの朝だった。


 けれど。


 遼の中には、昨日から一つの問いが残っていた。


 死んだ人間は。


 どこまで、その人なのだろう。


 身体がなくなれば、その人はいなくなる。


 それは分かる。


 けれど。


 写真が残っていたら?


 声の録音が残っていたら?


 日記が残っていたら?


 誰かの記憶に残っていたら?


 それでも、その人は「いる」と言えるのだろうか。


 遼は台所へ向かった。


 コーヒーを二つ淹れる。


 和子のカップをテーブルに置く。


「ありがとう」


 和子は一口飲んだ。


 そして。


 残した。


 いつものように。


 遼は、その一口分を見た。


 それだけのことで。


 胸の奥がざわついた。


「ねえ」


「ん?」


「俺が死んだらさ」


「朝から縁起でもない」


「もしもの話」


「何?」


「俺のこと、忘れる?」


 和子はしばらく黙っていた。


「忘れたくないけど」


「うん」


「忘れるかもしれないね」


「……そうか」


「人間だから」


 和子はカップを両手で包んだ。


「遼が死んでから、何十年も生きたら。顔も声も、少しずつ思い出せなくなるかもしれない」


「寂しいな」


「うん」


「それでも俺は、俺?」


「遼は遼でしょ」


「覚えてなくても?」


「覚えてなくても」


 その答えは、妙に強かった。


 記憶がなくても。


 愛した事実は消えない。


 いや。


 そもそも「愛した」という出来事は、記憶とは別の場所にあるのかもしれない。


 遼は考えた。


 自分が今までの世界を忘れても。


 美咲との時間が消えるわけではない。


 凛との時間も。


 玲奈との時間も。


 千夏との時間も。


 沙織との時間も。


 たとえ今の自分がそれを思い出せなくても。


 そのときの自分は確かに、その人を愛していた。


 だったら。


 記憶とは何なのだろう。


 過去を保存するためのものなのか。


 それとも。


 「自分が自分である」という感覚を維持するためのものなのか。


 昼過ぎ。


 遼は一人で書斎に入った。


 古いノートが何冊も並んでいる。


 和子と過ごした五十一年間の記録だった。


 旅行の日。


 結婚記念日。


 子どもの誕生日。


 病気になった日。


 仲直りした日。


 何でもない日のことまで書いてある。


 遼は一冊を開いた。


 そこには、若い頃の自分の字があった。


 今より少し乱れている。


 文章も若い。


 けれど。


 書いていることは、今とあまり変わらなかった。


 和子が笑った。


 今日は雨だった。


 夕飯がおいしかった。


 喧嘩した。


 仲直りした。


 そんなことばかり。


 遼はページをめくる。


 そして。


 ある一文のところで手が止まった。


 『「今日、和子が言った。幸せって、たぶん、後から分かるものなんじゃないか」』


 遼は眉を寄せた。


 その言葉。


 聞いたことがある気がした。


 別の場所で。


 別の女性から。


 いや。


 もっと正確に言えば。


 同じ意味の言葉を。


 何度も。


 遼はノートを閉じた。


 胸が苦しくなった。


 自分の人生が。


 自分の記憶が。


 少しずつ信用できなくなっていく。


 記憶とは、過去の記録だと思っていた。


 けれど。


 記憶は本当に「記録」なのだろうか。


 人間は思い出すたびに、過去を作り直している。


 忘れた部分を補う。


 都合の悪い部分を薄くする。


 今の自分に合わせて、昔の意味を変える。


 だから。


 思い出すということは。


 過去を見ることではない。


 今の自分から、過去を作り直すことなのかもしれない。


 ならば。


 遼が美咲を思い出すとき。


 それは本当に美咲なのだろうか。


 それとも。


 今の遼が作った「美咲」なのだろうか。


「難しい顔してる」


 書斎の入口に和子が立っていた。


「何読んでるの?」


「昔のノート」


「懐かしい?」


「うん」


 和子が隣に座った。


 ノートを覗き込む。


「字、汚いね」


「昔からだよ」


「今もだけど」


「ひどいな」


 笑う。


 しばらくして。


 和子が言った。


「遼」


「ん?」


「もし私が先に死んだら」


「……うん」


「私のこと、忘れていいよ」


「嫌だ」


「どうして?」


「忘れたくないから」


「でも」


 和子は少し笑った。


「忘れたっていいんだよ」


「なんで?」


「遼がそのあと幸せなら」


 その言葉を聞いて。


 遼は何も言えなかった。


 忘れることは、裏切りではないのかもしれない。


 生きていくということは。


 少しずつ過去を手放すことなのかもしれない。


 亡くなった人を忘れること。


 昔好きだった人を忘れること。


 昔の自分を忘れること。


 それらは、冷たいことではない。


 人間は忘れなければ、生きていけない。


 すべてを覚えたままでは。


 過去の重さに押しつぶされる。


 だから。


 忘れることもまた。


 生きるための機能なのだ。


「でも」


 遼は言った。


「俺は忘れたくない」


「そっか」


「うん」


 和子は笑った。


 それから。


 いつものように左耳に触れた。


 遼は、その仕草を見た。


 もう。


 恐怖はなかった。


 代わりに。


 確信に近いものがあった。


 この人は。


 何かを知っている。


 あるいは。


 知らないまま、何かを覚えている。


 夕方。


 二人は居間でテレビを見ていた。


 内容はほとんど頭に入らない。


 和子が眠そうにしている。


「寝る?」


「まだいい」


「眠そうだよ」


「遼も」


「俺は起きてる」


「目閉じてるよ」


「考えてる」


「寝ながら?」


「そう」


「器用だね」


 和子が笑う。


 その声を聞きながら。


 遼は思った。


 もし。


 この人が明日いなくなったら。


 自分はどうするのだろう。


 悲しいだろう。


 苦しいだろう。


 きっと何度も名前を呼ぶ。


 写真を見る。


 声を思い出そうとする。


 けれど。


 十年後。


 二十年後。


 自分はどうなっているのだろう。


 顔を思い出せなくなっているかもしれない。


 声も。


 仕草も。


 コーヒーを一口残す癖も。


 それでも。


 和子は和子なのだろうか。


 遼は、そこで初めて気づいた。


 自分が恐れているのは。


 和子の死ではない。


 和子を失ったあと。


 『自分の中から和子まで消えてしまうこと』なのだ。


 そして。


 それは。


 これまでの世界でも同じだった。


 美咲を忘れた。


 凛を忘れた。


 玲奈を忘れた。


 千夏を忘れた。


 沙織を忘れた。


 そのたびに。


 遼は新しい女性を愛した。


 まるで。


 前の人生など最初から存在しなかったかのように。


 けれど。


 もし。


 忘れても。


 愛した事実そのものが残るのだとしたら。


 彼女たちは。


 まだ自分の中にいるのではないか。


 名前を忘れても。


 顔を忘れても。


 その人と過ごした時間が、自分という人間を作っている限り。


 消えることはない。


 そのとき。


 遼は、ふと思った。


 ――では。


 もし「彼女」が何度も姿を変えているのだとしたら。


 自分が愛しているのは。


 顔なのか。


 名前なのか。


 記憶なのか。


 それとも。


 その人の中にある、何か変わらないものなのか。


 時計を見る。


 十一時五十九分。


 遼は立ち上がった。


 和子を見る。


「どうしたの?」


「……いや」


 何でもない。


 そう言いかけて。


 やめた。


「和子」


「ん?」


「俺、たぶん」


 言葉を探す。


「何度も、君に会ってる」


 和子の表情が止まった。


「……そう」


 驚かなかった。


 その反応に。


 遼のほうが驚いた。


「驚かないの?」


「何に?」


「俺がそんなこと言ってるのに」


 和子はしばらく遼を見た。


 そして。


 穏やかに笑った。


「遼」


「うん」


「何回会っても」


 左耳に触れる。


「私は、私だよ」


 その言葉を聞いた瞬間。


 遼の中で、何かが崩れた。


 白い部屋。


 雨。


 違う顔。


 違う名前。


 違う人生。


 それでも。


 同じ笑い方。


 同じ仕草。


 同じコーヒー。


 同じ問い。


 同じ人。


 遼は目を閉じた。


 そして。


 初めて。


 その答えを口にした。


「……そうだな」


 目を開ける。


 和子がいる。


 ただ、それだけだった。


 けれど。


 それだけで。


 十分だった。


 その夜。


 遼は眠る前に、最後に一つだけ考えた。


 人間を人間たらしめるものは。


 記憶なのだろうか。


 それとも。


 記憶を失ってもなお残る、「誰かを大切にした」という事実なのだろうか。


 答えは出なかった。


 ただ。


 暗い寝室の中で。


 隣から聞こえる呼吸を感じながら。


 遼は思った。


 もし明日、すべてを忘れてしまったとしても。


 もう一度、この人を選べるなら。


 それでいい。


 時計は。


 十一時五十九分を過ぎていた。


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