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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十三章 結婚式をもう一度

 結婚式を、もう一度することになった。


 その話を最初にしたのは、和子だった。


「ねえ、遼」


 朝食のあと、和子はいつものようにコーヒーを淹れていた。


 窓から入ってくる光は、昔よりずっと弱く感じた。


 もちろん、光が弱くなったわけではない。


 自分たちの目が、少しずつ変わってしまったのだ。


「結婚式、もう一回やってみない?」


「……結婚式?」


「そう」


 和子は笑った。


「五十一年前の写真、見つけたの」


 テーブルの上に、一枚の写真が置かれた。


 若い二人が写っている。


 まだ皺もなく、髪も黒く、未来がいくらでも残されているような顔をしていた。


 遼は写真を見つめた。


 その中にいる男が、自分だということが、少し不思議だった。


 自分の顔なのに、自分ではない。


 そんな感覚だった。


「若いね」


「遼もね」


「和子だって」


「私は今のほうがいいけど」


「どうして?」


「いろいろ知ってるから」


 和子はそう言って、写真を裏返した。


 そこには日付が書いてあった。


 五十一年前。


 その数字を見て、遼は少しだけ息を止めた。


 五十一年。


 人生の半分どころではない。


 もしかすると、人生そのものと言っていい時間だった。


 嬉しいこともあった。


 悲しいこともあった。


 喧嘩もした。


 仲直りもした。


 何度も「もう無理だ」と思った日があった。


 それでも翌朝には、同じ食卓に座っていた。


 それが結婚だった。


 少なくとも、遼にとってはそうだった。


「どうして、もう一回したいの?」


 尋ねると、和子は少し考えた。


「確認したいから」


「何を?」


「私たちが、ちゃんとここまで来たってこと」


 その言葉を聞いて、遼は笑った。


 そして、すぐに笑えなくなった。


 ここまで来た。


 その言葉には、始まりだけではなく、終わりも含まれている。


 五十一年という時間は、長い。


 けれど、永遠ではない。


 むしろ長い時間を生きたからこそ、そのことがよく分かる。


「いいよ」


 遼は言った。


「もう一回、結婚式しよう」


「うん」


 和子は嬉しそうに笑った。


 そのとき、彼女は左耳に触れた。


 何気ない仕草だった。


 昔から変わらない仕草。


 遼は、それを見つめた。


 胸の奥に、またあの感覚が生まれる。


 知っている。


 ずっと前から知っている。


 けれど、どこで知ったのか分からない。


 和子と出会うより前から知っていたような気さえする。


 ――いや。


 もしかすると。


 自分が覚えていないだけなのかもしれない。


   ◇


 小さな式場を借りた。


 大げさなものではなかった。


 五十一年前のような大きな式ではない。


 家族も、昔からの知人も、ほんの少しだけ。


 白い花が飾られた。


 古い写真が何枚か並べられた。


 若い二人。


 子どもが生まれた頃の二人。


 旅行先で笑っている二人。


 病院の待合室で眠そうにしている二人。


 そして、歳を重ねた二人。


 写真の中の二人は、少しずつ変わっていた。


 顔も変わる。


 髪も変わる。


 体も変わる。


 生活も変わる。


 考え方だって変わる。


 それでも、写真の中にはいつも同じ二人がいた。


 遼はそれを見ながら、ふと思った。


 人間は、一体いつから別人になるのだろう。


 顔が変わったときか。


 考え方が変わったときか。


 記憶を失ったときか。


 それとも――。


「遼」


 声をかけられて振り向く。


 和子が立っていた。


「どうしたの?」


「いや」


 遼は首を振った。


「何でもない」


「また難しいこと考えてる?」


「たぶん」


「結婚して五十一年経っても変わらないね」


「それ、褒めてる?」


「褒めてる」


 和子は笑った。


 その笑顔を見て、遼は思う。


 自分は、この人のことをどれくらい知っているのだろう。


 好きな食べ物。


 苦手なもの。


 怒ったときの沈黙。


 嬉しいときの笑い方。


 悲しいときに、少しだけ目を伏せる癖。


 コーヒーを最後まで飲まないこと。


 考え込むと左耳に触れること。


 五十一年かけて、少しずつ知ってきた。


 けれど。


 それでも、人間を全部知ることなどできない。


 妻でさえ。


 自分でさえ。


 人間は、自分自身のことすら完全には分からない。


 だからこそ、誰かと生きるということは、相手を完全に理解することではないのかもしれない。


 理解できない部分を残したまま、それでも隣にいること。


 分からないまま、選び続けること。


 それが愛なのかもしれない。


   ◇


 式が始まった。


 昔と同じように、二人は向かい合った。


 けれど、五十一年前とは何もかも違う。


 若さはない。


 未来が無限にあるわけでもない。


 これから五十一年を共に生きることも、おそらくできない。


 それでも。


 遼は不思議なくらい穏やかだった。


「誓いますか?」


 問いかけられる。


 遼は和子を見る。


 五十一年前にも、同じような問いをされた。


 あのとき、自分は何を考えていたのだろう。


 きっと、未来のことを考えていた。


 これから何が起こるのか。


 どんな家に住むのか。


 どんな人生になるのか。


 どれくらい幸せになれるのか。


 あの頃の自分は、未来を見ていた。


 今の自分は違う。


 未来よりも、ここまでの時間を見ている。


 そして思う。


 幸福だったかどうかなんて、簡単には答えられない。


 幸せな日もあった。


 幸せではない日もあった。


 泣いた日も。


 怒った日も。


 後悔した日も。


 それでも、その全部を含めて「幸せだった」と言うことはできる。


 幸福とは、苦しみがなかったという意味ではない。


 不幸な日が一日もなかったという意味でもない。


 その人生を、自分のものとして受け入れられること。


 もしかすると、それが幸福なのかもしれない。


「遼?」


 和子が小さく呼んだ。


「ああ」


 遼は頷いた。


「誓います」


 和子も言った。


「私も」


 二人は笑った。


 そして、拍手が起きた。


 遼はその音を聞きながら、なぜか胸の奥が痛くなった。


 終わってしまう。


 そんな予感がした。


 式が終わることではない。


 もっと大きな何かが。


 けれど、その予感を言葉にすることはできなかった。


   ◇


 帰宅すると、和子はコーヒーを淹れた。


 二人でテーブルにつく。


「今日は疲れたね」


「うん」


「でも、楽しかった」


「俺も」


 和子はカップを持った。


 一口飲んで、テーブルに置く。


 そして、残りを少しだけ残した。


 遼は思わず笑った。


「何?」


「いや」


「何よ」


「昔から変わらないなと思って」


「何が?」


「コーヒー」


 和子はカップを見た。


「最後まで飲まないほうが、おいしいの」


「そんな理屈ある?」


「あるの」


 二人で笑った。


 ほんの数秒。


 けれど、その数秒が、遼にはとても大切に思えた。


 幸福というものは、案外こういうところにあるのかもしれない。


 大きな出来事ではない。


 人生を変えるような奇跡でもない。


 ただ、いつもの人がいつもの癖を見せて、それを知っている自分が少し笑う。


 それだけ。


 それだけなのに。


 それが五十一年続けば、人はそれを人生と呼ぶ。


「ねえ、遼」


「ん?」


「もし、もう一度人生があったら」


 和子が言った。


「また私と結婚する?」


 遼は答えなかった。


 すぐには答えられなかった。


 なぜなら、その質問を、どこかで聞いたことがあるような気がしたからだ。


 別の場所で。


 別の時間で。


 別の彼女から。


 同じ問いを。


 胸の奥がざわついた。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 千夏。


 沙織。


 そして、和子。


 名前も。


 年齢も。


 顔も。


 性格も。


 人生も。


 何もかも違う。


 それなのに。


 なぜ、どの女性にも同じ感覚を抱くのだろう。


 ――また会えた。


 そんな感覚を。


「どうしたの?」


 和子が尋ねる。


 遼は彼女を見た。


 そして、ゆっくり笑った。


「するよ」


「本当に?」


「うん」


「何回でも?」


 その言葉に、遼の心臓が一度だけ強く鳴った。


「……何回でも」


 和子は満足そうに笑った。


「じゃあ、約束ね」


「約束」


 二人は指を絡めた。


 その瞬間だった。


 時計が目に入った。


 十一時五十九分。


 まただ。


 遼は立ち上がろうとした。


 けれど、体が動かなかった。


 部屋の音が遠くなる。


 和子の声も。


 時計の音も。


 自分の呼吸さえも。


 世界が、薄い膜の向こう側へ移っていく。


「和子……」


「なに?」


「俺たちは……」


 何を聞こうとしたのか、自分でも分からない。


 けれど、和子は微笑んだ。


 まるで、質問の続きを知っているかのように。


「大丈夫」


 その言葉が、妙に懐かしかった。


「忘れても、また会えるから」


 ――何を?


 何を忘れるというのだろう。


 何にまた会うというのだろう。


 問いを口にする前に、世界が白くなった。


   ◇


 白い部屋。


 何もない。


 床も。


 壁も。


 天井も。


 ただ、白い。


 遼は立っていた。


 目の前に、いつもの問いが浮かぶ。


『あなたは、幸せですか?』


 遼は、それを見つめた。


 今までなら「はい」と答えていた。


 あるいは「たぶん」と。


 けれど、今日は違った。


「分からない」


 初めて、そう答えた。


 少し沈黙があった。


『なぜですか?』


「幸せって、答えじゃない気がする」


『では、何ですか?』


 遼は考えた。


 長い時間をかけて。


 そして、ようやく言った。


「選んだことだと思う」


『何を?』


「この人生を」


『誰と?』


 遼は目を閉じた。


 浮かんだのは、一人の女性だった。


 いや。


 一人ではなかった。


 いくつもの顔が重なった。


 笑う美咲。


 静かな凛。


 強い玲奈。


 明るい千夏。


 嫉妬深い自分を見つめた沙織。


 そして、五十一年を共に生きた和子。


 全部違う。


 全部、同じ。


 その矛盾が、もう怖くなかった。


「彼女を」


 遼は答えた。


「何度でも選ぶこと」


 白い部屋が静まり返った。


 そして、初めて問いが変わった。


『では、あなたは誰ですか?』


 遼は顔を上げた。


 その質問だけは、答えられなかった。


 自分は誰なのか。


 二十九歳の会社員だった自分。


 十九歳の大学生だった自分。


 三十五歳の金持ちだった自分。


 貧しい青年だった自分。


 売れない小説家だった自分。


 七十二歳の老人だった自分。


 どれも確かに自分だった。


 けれど。


 もし記憶が違えば。


 年齢が違えば。


 人生が違えば。


 それでも自分は、自分なのだろうか。


 答えが出ない。


 そのとき、遠くから声がした。


「遼」


 聞き慣れた声だった。


 遼は振り返る。


 そこには誰もいない。


 それでも、なぜか分かった。


 彼女だ。


 いつものように。


 左耳に触れている。


 そして、ほんの少しだけ笑っている。


 遼は手を伸ばした。


 指先が触れる寸前。


 白い世界が崩れた。


   ◇


 次に目を開けたとき。


 知らない天井があった。


 遼はしばらく動かなかった。


 驚きもしなかった。


 悲しくもなかった。


 ただ、静かに天井を見つめた。


 自分の年齢が分からない。


 仕事も分からない。


 住んでいる場所も分からない。


 隣に誰がいるのかも。


 けれど。


 なぜか、ひとつだけ確信していた。


 この世界にも、彼女はいる。


 そのとき、隣から声がした。


「起きた?」


 遼はゆっくり振り向いた。


 知らない女性だった。


 知らない顔。


 知らない声。


 知らない人生。


 それなのに。


 胸の奥だけが、先に答えを知っていた。


 ――また、会えた。


 女性が微笑む。


「おはよう、遼」


 窓の外では、雨が降っていた。


 そして、時計は。


 十二時を示していた。


 世界が、始まった。


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