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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十四章 世界07・正反対

 目を覚ました瞬間、遼は自分が嫌いだった。


 理由は分からない。


 まだ何もしていない。


 誰とも話していない。


 鏡すら見ていない。


 それなのに、胸の奥に、説明のつかない自己嫌悪があった。


 天井は白かった。


 前の世界と同じような白。


 けれど、前の世界とは違う。


 そのことが、なぜか分かった。


 遼はゆっくりと身体を起こした。


 ベッドの脇には、見慣れないスマートフォン。


 画面を点ける。


 日付。


 名前。


 仕事。


 年齢。


 いくつかの情報が表示されていた。


 二十五歳。


 会社員。


 独身。


 佐伯遼。


 ――独身。


 その文字を見て、遼は少しだけ安心した。


 そして、その安心に気づいた瞬間、今度は気持ち悪くなった。


 どうして安心したのだろう。


 結婚していたはずではないか。


 いや。


 していた。


 和子と。


 五十一年間。


 その記憶は確かにある。


 若い二人の写真。


 五十一年間の生活。


 小さな結婚式。


 コーヒーを一口だけ残す和子。


 左耳に触れる仕草。


 そして――。


 また会えるから。


 遼は目を閉じた。


 胸の奥に、和子の顔が浮かんだ。


 次の瞬間には、別の顔が浮かんだ。


 美咲。


 凛。


 玲奈。


 千夏。


 沙織。


 そして、和子。


 何人もの女性が、頭の中で重なっていく。


 名前も違う。


 顔も違う。


 声も違う。


 人生も違う。


 それなのに。


 遼は彼女たちを思い出すたび、同じ場所が痛くなった。


 胸の奥。


 心臓の少し左。


 そこに、誰か一人分の空席があるようだった。


 その空席だけが、世界を変えても残っている。


「……俺は、誰なんだ」


 口に出してみる。


 答える人はいない。


 鏡を見る。


 そこには二十五歳の男がいた。


 若い。


 少なくとも、七十二歳の老人ではない。


 けれど、その顔を見て、遼は妙な違和感を覚えた。


 この顔も自分だ。


 なのに、自分ではない。


 七十二歳の自分も。


 三十五歳の自分も。


 十九歳の自分も。


 全部、自分だった。


 では、自分を自分にしているものは何なのか。


 顔ではない。


 年齢でもない。


 仕事でもない。


 記憶ですらないのかもしれない。


 だとしたら。


 人間の「同一性」とは、いったい何なのだろう。


   ◇


 午前九時。


 遼は街を歩いていた。


 どうやら今日は休日らしい。


 けれど、どこへ行けばいいのか分からない。


 自分の家なのだから帰る場所は分かる。


 自分の身体なのだから歩き方も分かる。


 それなのに、自分の人生だけが分からない。


 不思議な感覚だった。


 これまでの世界では、世界が変わるたびに「彼女」がいた。


 彼女だけが、遼を現実につなぎ止めてくれていた。


 知らない人生でも。


 知らない仕事でも。


 知らない年齢でも。


 彼女が「遼」と呼べば、自分が誰なのか分かった。


 けれど、この世界では。


 まだ彼女がいない。


 それが怖かった。


 彼女がいなければ、自分が自分である証拠が何もないように感じる。


 そこで、遼は気づいた。


 自分は彼女を愛しているだけではない。


 彼女によって、自分自身を確認していたのかもしれない。


 彼女が自分を知っている。


 だから、自分は自分でいられる。


 その考えが浮かんだとき、背筋が冷たくなった。


 もしそうなら。


 人間は一人では、自分が誰なのか分からないのではないか。


 自分とは、自分の中にあるものではなく。


 誰かとの関係の中にしか存在できないのではないか。


「面倒くさいこと考えてるね」


 突然、声がした。


 遼は振り返った。


 一人の女性が立っていた。


 短い髪。


 ラフな服装。


 片手にはコンビニの袋。


 表情は、どこか不機嫌そうだった。


「……誰?」


 遼が尋ねる。


 女性は眉を上げた。


「ひどくない?」


「いや……」


「普通、彼女にそれ言う?」


「彼女?」


「うん」


 女性は当然のように言った。


「真琴。あなたの彼女」


 遼の胸が、大きく鳴った。


 ――まただ。


 理由はない。


 記憶もない。


 初めて見る顔。


 それなのに。


 知っている。


 この人を。


「……真琴」


「そう」


 彼女は遼の顔を覗き込んだ。


「なんか変」


「何が?」


「今日の遼、変」


「いつもは?」


「もっと適当」


「適当?」


「うん。もっと何も考えてない顔してる」


「それは褒めてる?」


「褒めてない」


 真琴は笑った。


 遼はその笑顔を見つめた。


 美咲とは違う。


 凛とも。


 玲奈とも。


 千夏とも。


 沙織とも。


 和子とも。


 まったく違う。


 性格も違う。


 この女性は、遼とは正反対なのだろう。


 遼が考え込めば、彼女は笑う。


 遼が慎重になれば、彼女は先に進む。


 遼が言葉を選べば、彼女は思ったことをそのまま言う。


「お腹すいた」


 真琴が言った。


「食べれば?」


「一緒に食べるの」


「どこで?」


「そこ」


 彼女が指差した先には、小さな公園があった。


 ベンチに座り、コンビニのおにぎりを食べる。


 特別なことは何もない。


 なのに。


 遼は妙に落ち着いていた。


「ねえ」


 真琴が言う。


「何?」


「私のこと、好き?」


 唐突だった。


 遼は黙った。


 これまで何度も答えてきた質問だった。


 けれど。


 今回は違う。


「……分からない」


 真琴が目を丸くした。


「何それ」


「ごめん」


「謝られても困る」


 彼女は少し不満そうに口を尖らせた。


「じゃあ、今は?」


「今?」


「今、私と一緒にいてどう?」


 遼は考えた。


 そして答えた。


「楽しい」


「じゃあ、それでいいじゃん」


 真琴は笑った。


「好きって、そんな難しいことじゃないでしょ」


 遼は、その言葉を聞いて、少し驚いた。


 これまでの世界では、愛について考え続けてきた。


 なぜ好きなのか。


 記憶がなくても愛せるのか。


 条件が変わっても愛は残るのか。


 けれど。


 真琴は、そんな問いを簡単に飛び越えてしまった。


「今、一緒にいたい」


 それだけ。


 それが好きということなのかもしれない。


 遼は、少し笑った。


「何?」


「いや」


「また考えてる」


「うん」


「じゃあ、今日は考えるの禁止」


「無理だよ」


「じゃあ、私が邪魔する」


「どうやって?」


「いっぱい喋る」


「それは困る」


「ほら、笑った」


 遼は気づいた。


 自分が笑っていた。


 久しぶりだった。


 いや。


 昨日も笑ったのかもしれない。


 その前の日も。


 けれど、そんな記憶はどうでもよく思えた。


 今、この瞬間に笑っている。


 それだけで十分だった。


   ◇


 夕方。


 二人で歩いて帰った。


 真琴は突然立ち止まった。


「遼」


「ん?」


「こっち」


 彼女が遼の手を引いた。


 その仕草に、遼は一瞬だけ息を止めた。


 懐かしかった。


 誰かに手を引かれた記憶。


 何度もある。


 けれど、今の感覚は初めてだった。


 真琴は歩きながら言った。


「私たちってさ」


「うん」


「たぶん、あんまり相性よくないよね」


「……そう思う?」


「思う」


 即答だった。


「私、遼みたいに考えすぎる人、苦手」


「俺も真琴みたいに考えなさすぎる人、苦手」


「じゃあ、別れる?」


 冗談のような声だった。


 遼は答えられなかった。


 普通なら。


 相性が悪い。


 考え方が違う。


 価値観も違う。


 なら、離れたほうがいい。


 そう考えるのだろう。


 けれど。


 なぜか、離れたくなかった。


「……嫌だ」


 真琴が笑った。


「じゃあ、いいじゃん」


 あまりにも簡単だった。


 遼は思う。


 相性がいいことと、好きになることは、同じではない。


 価値観が同じことと、一緒に生きたいと思うことも。


 人間関係は、条件の足し算ではない。


 相手の欠点を見つけて、それでも一緒にいたいと思うこと。


 自分と違うところを見つけて、それでも離れないこと。


 もしかすると。


 愛とは「一致」ではなく、「共存」なのかもしれない。


 そんなことを考えていると、真琴が突然言った。


「遼」


「何?」


「私のこと、忘れないでね」


 遼の足が止まった。


 胸の奥が凍る。


 その言葉を。


 聞いたことがある。


 別の場所で。


 別の女性から。


 何度も。


 けれど、真琴は気にせず歩いていく。


「ほら、早く」


「ああ」


 遼は追いかけた。


 彼女の背中を見つめる。


 左耳に触れる仕草。


 ほんの一瞬だった。


 真琴は何も言わない。


 遼も言わない。


 ただ、その小さな仕草だけが、これまでの世界と同じだった。


   ◇


 夜。


 家に戻る。


 真琴はソファに座って、テレビを見ている。


 遼はキッチンでコーヒーを淹れた。


 二つのカップを置く。


 真琴は一口飲んだ。


「苦い」


「砂糖入れる?」


「いらない」


 そう言って、カップを置いた。


 少しだけ残っている。


 遼はそのカップを見つめた。


 ――一口。


 そして、左耳。


 十一時五十九分。


 また時計が、その時刻を示している。


 世界は違う。


 人生も違う。


 彼女も違う。


 なのに。


 同じものが、いくつもある。


 偶然なのだろうか。


 それとも。


 遼は時計を見つめた。


 秒針が動く。


 十一時五十九分。


 五十八秒。


 五十九秒。


 そして。


 十二時。


 何も起こらなかった。


 遼は、なぜか少し安心した。


 けれど。


 その安心の奥に、別の感情があった。


 ――もし世界が変わっても。


 自分は自分なのか。


 その問いだった。


 真琴がテレビを消す。


「寝よう」


「ああ」


 二人はそれぞれの部屋へ向かった。


 遼はベッドに横になる。


 目を閉じる。


 今日一日の出来事を思い出す。


 真琴の笑顔。


 くだらない会話。


 公園。


 帰り道。


 そして、あの言葉。


『私のこと、忘れないでね』


 遼は胸の中で答えた。


 忘れたくない。


 けれど。


 自分には、忘れてしまう未来があるような気がした。


 根拠などない。


 ただ、身体の奥が知っている。


 やがて眠りに落ちる直前。


 いつもの声が聞こえた。


『あなたは、誰ですか?』


 遼は目を開けようとした。


 けれど、開かなかった。


 声が続く。


『記憶が違っても?』


 沈黙。


『年齢が違っても?』


 沈黙。


『性格が違っても?』


 遼は考えた。


 そして、初めてその問いに、自分自身の言葉で答えた。


「……分からない」


 声は返ってこなかった。


 ただ、暗闇の中で。


 真琴の笑い声だけが聞こえた。


 その笑い声が遠ざかっていく。


 そして最後に。


 小さな電子音が、一度だけ鳴った。


 ピッ。


 遼は眠った。


 自分が何者なのかを知らないまま。


 そして。


 自分が何度目の人生を生きているのかも知らないまま。


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