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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十五章 喧嘩ばかりの恋人

 真琴とは、よく喧嘩をした。


 それは、付き合い始めてから分かったことではなかった。


 初めから分かっていた。


 遼が考えてから話すと、真琴は「考えすぎ」と言う。


 遼が予定を立てようとすると、真琴は「そのとき決めればいい」と言う。


 遼が何かを心配すると、真琴は「まだ起きてないじゃん」と笑う。


 遼が黙ると、真琴は「何で黙ってるの」と怒る。


 真琴が怒ると、遼はどうして怒っているのか考える。


 そして、それがさらに真琴を怒らせる。


 最悪だった。


 相性だけを測るなら。


 たぶん、かなり悪い。


「なんでそうなるの?」


 ある夜、真琴が言った。


「何が?」


「私が怒ってるのに、遼はずっと黙ってる」


「どう答えればいいか考えてる」


「それが嫌なの」


「じゃあ、どうすればいい?」


「それを自分で考えてよ」


「……」


「ほら、また黙った」


 遼は息を吐いた。


「真琴は無茶苦茶だよ」


「遼は面倒くさい」


「それは否定できない」


「私も否定しない」


 真琴はソファに座ったまま、そっぽを向いた。


 遼も何も言わなかった。


 部屋に沈黙が落ちる。


 以前なら、この沈黙が怖かった。


 嫌われたのではないか。


 関係が壊れるのではないか。


 自分が何か間違えたのではないか。


 そんなことを考えていた。


 けれど。


 真琴といると、少しずつ分かってきた。


 喧嘩は、必ずしも関係の終わりではない。


 むしろ。


 相手がまだ自分に何かを求めているからこそ、腹が立つこともある。


 本当にどうでもよくなった相手には、怒る気力すらなくなる。


 そのことに気づいたとき、遼は少し怖くなった。


 愛情と怒りは、意外なほど近い場所にある。


 相手に期待するから、失望する。


 失望するから、腹が立つ。


 腹が立つということは。


 まだ、その人に期待しているということなのかもしれない。


「遼」


 真琴が言った。


「何?」


「こっち見て」


 遼は真琴を見る。


 真琴は少しだけ困った顔をしていた。


「私たち、付き合わないほうがよかったのかな」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 以前の世界なら。


 きっと、すぐに「そんなことない」と言っていた。


 けれど今は。


 簡単に答えられなかった。


「……分からない」


 真琴は少し驚いた。


「普通、そこで否定するでしょ」


「でも、本当に分からない」


「ひどい」


「ごめん」


「謝ればいいと思ってる?」


「思ってない」


「じゃあ何で謝るの?」


「傷つけたと思ったから」


「……」


 真琴が黙った。


 今度は遼が不安になる番だった。


 何か言わなければ。


 そう思う。


 けれど、何を言っても嘘になりそうだった。


 真琴との関係が正しいのかどうか。


 自分には分からない。


 ただ。


 一緒にいたいと思う。


 それだけは分かる。


「でも」


 遼は言った。


「別れたいとは思わない」


 真琴は顔を上げた。


「どうして?」


「分からない」


「またそれ?」


「うん」


 遼は苦笑した。


「たぶん、分からないことばっかりなんだよ」


 真琴はしばらく遼を見つめていた。


 そして。


「私も」


 そう言った。


   ◇


 翌朝。


 真琴は何事もなかったように朝食を作っていた。


「パン焼く?」


「うん」


「目玉焼きは?」


「お願い。……昨日のこと、まだ怒ってる?」


「ちょっと」


「そっか」


「遼は?」


「俺も、ちょっと」


「じゃあ、おあいこ」


 真琴は笑った。


 遼も笑った。


 それだけだった。


 仲直りというほど大げさではない。


 謝罪もなかった。


 約束もない。


 ただ、昨日と同じ場所で、昨日と同じように朝食を食べている。


 遼は思った。


 人間関係には、明確な修復作業などないのかもしれない。


 壊れたものを元通りにするのではなく。


 壊れたところを抱えたまま、また一日を始める。


 その繰り返しが、関係を続けるということなのではないか。


 完璧に理解する。


 完璧に許す。


 完璧に相性がいい。


 そんなものは、最初から必要ないのかもしれない。


「ねえ」


 真琴が言った。


「何?」


「今日どこ行く?」


「決めてない」


「じゃあ、適当に行こう」


「適当って……」


「嫌?」


 遼は少し考えた。


「……嫌じゃない」


「じゃあ決まり」


 真琴は立ち上がった。


 そのとき。


 左耳に触れた。


 ほんの一瞬。


 遼は、その仕草を見つめた。


 まただ。


 胸の奥に、あの違和感が生まれる。


 この仕草を知っている。


 何度も。


 何年も。


 いや。


 何人もの女性から。


 どうしてなのか。


 まだ分からない。


 けれど、以前ほど恐ろしくはなかった。


 分からないことがある。


 それでも、今日を生きることはできる。


 そのことを、この世界で少しずつ覚え始めていた。


   ◇


 街を歩いていると、真琴が突然言った。


「遼ってさ」


「うん」


「私のどこが好きなの?」


 また、その質問だった。


 遼は立ち止まった。


「……分からない」


「それ禁止」


「じゃあ……」


 遼は真琴を見る。


「一緒にいると、自分が変になるから」


「何それ」


「考えすぎなくなる」


「それ、私が馬鹿ってこと?」


「違う」


「じゃあ何?」


「俺にはないものを持ってる」


 真琴は黙った。


 遼は続けた。


「俺は、何かを決める前に、失敗しない方法を考える」


「うん」


「真琴は、失敗してから考える」


「ひどい」


「でも、真琴といると、失敗してもいい気がする」


 真琴はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく笑った。


「じゃあ、私の勝ち?」


「何の勝負?」


「遼を変えた」


「変えられたのかな」


「変わったよ」


 遼は歩きながら考えた。


 自分は以前まで、「自分らしさ」を守ろうとしていた。


 考える自分。


 慎重な自分。


 真面目な自分。


 記憶の中にある自分。


 けれど。


 人間は、自分一人で完成するものではない。


 誰かと出会えば変わる。


 失えば変わる。


 愛されれば変わる。


 傷つけば変わる。


 年齢によっても。


 環境によっても。


 社会によっても。


 それなら。


 変わっていくことそのものが、人間なのではないか。


 だとしたら。


 世界が変わるたびに自分が違う人間になっているのではなく。


 ただ、その世界で違う自分が生まれているだけなのかもしれない。


「遼?」


「ん?」


「また難しいこと考えてる」


「うん」


「やめて」


「無理」


「じゃあ手つないで」


「なんで?」


「考えなくて済むから」


 遼は笑った。


 そして、真琴の手を取った。


 温かかった。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 自分がここにいることを、確かめられるような気がした。


   ◇


 夜。


 二人は家に戻った。


 真琴はテレビをつけた。


 遼はコーヒーを淹れた。


 二人分。


 真琴はカップを受け取る。


「ありがと」


「どういたしまして」


 一口。


 そして、残りを少しだけ残す。


 遼はまた、それを見ていた。


「何?」


「いや」


「最近、よく私を見るよね」


「そうかな」


「そうだよ」


 真琴は首を傾げた。


 その仕草も。


 左耳に触れる仕草も。


 コーヒーを一口残すことも。


 全部、知っている。


 けれど。


 この人は、これまでの誰とも違う。


 遼は考えた。


 もし、この世界が終わって。


 次の世界に行ったら。


 真琴も、また別の誰かになるのだろうか。


 そして自分は。


 また、その人を好きになるのだろうか。


 もしそうなら。


 自分が愛しているのは「彼女」なのか。


 それとも。


 彼女と一緒にいることで生まれる「自分」なのか。


 答えは出なかった。


 そのとき、真琴が言った。


「遼」


「ん?」


「私、変わってる?」


「かなり」


「じゃあ、遼は?」


「俺?」


「うん」


 遼は少し考えた。


「分からない」


 真琴は笑った。


「それ、遼の口癖になってるよ」


「そうかも」


「でも」


 真琴はカップを置いた。


「分からないままでいいんじゃない?」


「……」


「だって、分かったらつまらないじゃん」


 遼は真琴を見る。


 そして思った。


 自分は幸福を探しすぎていたのかもしれない。


 幸福とは何か。


 愛とは何か。


 自分とは何か。


 答えを見つければ、安心できると思っていた。


 けれど。


 答えがないからこそ、人は考え続ける。


 考え続けながら、それでも誰かと食事をする。


 誰かと喧嘩をする。


 誰かと笑う。


 そして、また次の日を迎える。


 人生とは。


 答えを得ることではなく。


 答えが分からないまま、それでも選び続けることなのかもしれない。


   ◇


 その夜。


 遼はベッドに横になった。


 隣の部屋から、真琴の声が聞こえる。


「おやすみ」


「おやすみ」


 扉が閉まる。


 静かになる。


 遼は目を閉じた。


 すると。


 暗闇の中に、あの声が現れた。


『あなたは、誰ですか?』


遼は答えなかった。


『記憶がなくても?』


 沈黙。


『彼女がいなくても?』


 遼は少し考えた。


「……分からない」


 そう答えた。


 しかし。


 その言葉に、以前のような不安はなかった。


 分からない。


 だからこそ。


 明日、自分で選べる。


 誰といるのか。


 何をするのか。


 何を大切にするのか。


 そして。


 どんな自分になるのか。


 声が消える。


 最後に、電子音が鳴った。


 ピッ。


 遼は眠りについた。


 夢の中で。


 誰かが言った。


「あなたが変わっても、私が変わっても」


 その声は、真琴だった。


 いや。


 真琴ではなかった。


 もっと遠いところから聞こえてくる声だった。


「それでも、また選べるよ」


 遼は目を覚まさなかった。


 ただ、眠りながら思った。


 ――もし、自分が自分であることを決めるのが記憶ではないのなら。


 ――自分を決めるものは、いったい何なのだろう。


 その問いだけを抱えたまま。


 夜は静かに過ぎていった。


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