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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十六章 好きと相性

 遼は、紙に二人の名前を書いた。


 佐伯遼。


 真琴。


 その下に、いくつかの項目を書いていく。


 価値観。


 生活習慣。


 金銭感覚。


 休日の過ごし方。


 会話のテンポ。


 将来への考え方。


 感情表現。


 そして最後に。


 相性。


 丸をつける。


 ――あまり良くない。


「何してるの?」


 背後から真琴の声がした。


 遼は慌てて紙を隠した。


「何でもない」


「嘘」


 真琴が紙を奪う。


「ちょっと」


 彼女は読む。


 そして。


「何これ」


「いや……」


「私たちの相性診断?」


「診断っていうか、整理」


「同じじゃん」


 真琴は紙を見ながら、声を出して笑った。


「価値観、△」


「うん」


「生活習慣、×」


「うん」


「金銭感覚、△」


「まあ」


「会話のテンポ、×」


「それは真琴が速すぎる」


「感情表現、×」


「……」


「相性、×」


 真琴は顔を上げた。


「ひどい彼氏」


「客観的に見たら、そうなる」


「じゃあ別れる?」


 遼の手が止まった。


 真琴は笑っている。


 いつもの冗談なのか、本気なのか分からない。


 それが、彼女らしかった。


「……嫌だ」


「なんで?」


「分からない」


「またそれ」


 真琴は紙を四つに折った。


 そしてゴミ箱に入れた。


「そんなの、捨てちゃえば?」


「でも」


「相性が悪いから別れるの?」


「普通は、そのほうがいいんじゃないかな」


「普通って誰?」


 遼は答えられなかった。


 真琴は続ける。


「友達に聞いたら?」


「何を?」


「私と別れたほうがいいか」


「それは……」


「家族でもいいよ」


「……」


「みんなが『別れたほうがいい』って言ったら?」


 遼は考えた。


 その状況を想像する。


 友人も。


 家族も。


 周囲の人間も。


 誰もが言う。


 その女性とは合わない。


 もっと自分に合う人がいる。


 価値観の近い人を選んだほうがいい。


 将来、苦労する。


 その意見は、きっと正しい。


 社会には、人間関係を安定させるための経験則がある。


 似た者同士のほうがうまくいく。


 価値観が近いほうが衝突は少ない。


 生活のリズムが似ているほうが楽だ。


 将来の目標が一致しているほうが、人生設計もしやすい。


 どれも間違っていない。


 むしろ、合理的だ。


 けれど。


 恋愛は、合理性だけで決まらない。


 合理的なら愛せるわけでもない。


 不合理だから愛せないわけでもない。


「それでも」


 遼は言った。


「俺は真琴といたい」


 真琴は少し黙った。


「じゃあ、それでいいじゃん」


「……そうなのかな」


「そうだよ」


 あまりにも簡単だった。


 遼には、その簡単さが少し羨ましかった。


   ◇


 午後。


 二人はショッピングモールを歩いていた。


 真琴が服を見る。


 遼はその横で待つ。


「これどう?」


「似合うと思う」


「ちゃんと見てる?」


「見てるよ」


「嘘」


「本当」


「じゃあ、どこがいい?」


 遼は服を見る。


「……色」


「それだけ?」


「形も」


「適当」


「難しいな」


「もういい」


 真琴は笑った。


 こういうやり取りが、最近は増えていた。


 以前の世界なら、もっと違った。


 美咲とは穏やかだった。


 凛とは静かだった。


 玲奈とは緊張感があった。


 千夏とは苦しい生活の中にも明るさがあった。


 沙織とは、嫉妬や自尊心が入り混じっていた。


 和子とは、五十一年の時間があった。


 そして真琴とは。


 よく分からない。


 騒がしい。


 疲れる。


 喧嘩もする。


 けれど。


 気がつけば笑っている。


 それが真琴だった。


「ねえ」


 真琴が歩きながら言う。


「遼は、私のこと好き?」


「うん」


「じゃあ、相性いい?」


 遼は黙った。


「……それは別」


「なんで?」


「好きと相性は違うから」


「どう違うの?」


 遼は少し考えた。


「相性って、たぶん一緒に生活しやすいかどうか」


「じゃあ、好きは?」


「……一緒にいたいかどうか」


「じゃあ、私たち相性悪くてもいいじゃん」


「そうなるのかな」


「だって、一緒にいたいんでしょ?」


「うん」


「じゃあいいじゃん」


 また、それだった。


 真琴は何でも簡単にしてしまう。


 遼が何時間も考えることを、彼女は一言で終わらせる。


 けれど、その単純さは、必ずしも浅さではないのかもしれない。


 人間は、考えすぎることで、本当に大切なものを見失うことがある。


 選択肢を増やしすぎる。


 条件を並べすぎる。


 失敗を避けようとしすぎる。


 そして。


 「幸せになるために何を選ぶべきか」を考えているうちに。


 目の前にある人生を選ぶことを忘れてしまう。


 遼は歩きながら、そんなことを考えていた。


「また考えてる」


「うん」


「何考えてるの?」


「真琴のこと」


「珍しい」


「いつも考えてるよ」


「嘘」


「本当」


 真琴が少しだけ笑った。


「じゃあ、今日は許す」


「何を?」


「考えること」


   ◇


 夕方。


 二人は喫茶店に入った。


 窓際の席。


 外では雨が降り始めていた。


 真琴は窓を見ながら言う。


「雨、嫌い」


「知ってる」


「知ってるんだ」


「前にも言ってた」


「いつ?」


「……分からない」


 遼は答えてから、少し不思議に思った。


 前にも。


 その言葉が自然に出てきた。


 真琴と付き合ってから、そんなに長くない。


 なのに。


 もっとずっと前から知っているような気がする。


 真琴がコーヒーを一口飲む。


 そして、カップを置いた。


 少しだけ残っている。


 遼は見つめる。


 まただ。


 真琴が遼を見る。


「何?」


「いや……」


「また私のこと観察してる?」


「そうかもしれない」


「研究対象?」


 冗談だった。


 けれど、その言葉を聞いた瞬間。


 遼の胸の奥で、何かが引っかかった。


 研究。


 その単語だけが、妙に懐かしかった。


 何かを調べる。


 何かを比較する。


 条件を変える。


 結果を見る。


 そんな言葉が頭の中を一瞬だけ通り過ぎた。


 けれど、すぐに消えた。


「どうしたの?」


「……何でもない」


「本当に?」


「ああ」


 真琴はそれ以上聞かなかった。


 窓の外を見る。


 雨が強くなっていた。


 その横顔を見ながら、遼は思った。


 もし自分が、この人を「相性」という数字で評価していたら。


 きっと、選ばなかった。


 もし「幸福になれる確率」というものが存在していたら。


 もっと条件のいい相手を探していたかもしれない。


 けれど。


 人間は、確率だけでは生きられない。


 幸福は、未来の予測ではなく、現在の実感として訪れることがある。


 そして。


 その実感は、後からしか説明できない。


 「あの人といて幸せだった」


 そう言えるのは。


 たいてい、その時間が終わったあとだ。


   ◇


 帰り道。


 雨はまだ降っていた。


「傘、一本しかない」


 真琴が言う。


「入る?」


「当たり前」


 二人で傘に入る。


 肩が触れる。


 真琴は少しだけ遼のほうに寄った。


「狭い」


「真琴が寄ってきたんじゃん」


「寒いから」


「そう」


「何?」


「いや」


 遼は笑った。


 こんな日が、幸福なのかもしれない。


 けれど。


 そう思った瞬間、別の疑問が生まれた。


 幸福だと思うから、幸福なのか。


 幸福だから、幸福だと思うのか。


 原因と結果が逆転している。


 幸福には、外側から測れる形がない。


 年収でも。


 家の大きさでも。


 恋人の容姿でも。


 性格でも。


 相性でも。


 もちろん、それらは人生に影響する。


 苦しさを減らすこともある。


 選択肢を増やすこともある。


 けれど。


 それだけで幸福が決まるわけではない。


 それなら。


 幸福とは、条件ではなく。


 条件をどう意味づけるかという、人間の心の働きなのではないか。


 遼はそこで、立ち止まった。


「どうしたの?」


 真琴が振り返る。


「いや」


「また?」


「ああ」


「じゃあ、行こう」


「うん」


 二人は再び歩き始めた。


   ◇


 家に着いた。


 真琴は濡れた靴を脱ぎながら言った。


「今日、楽しかった」


「俺も」


「また行こうね」


「うん」


「約束」


「約束」


 真琴は笑った。


 その笑顔を見て。


 遼は、ふと思った。


 「また」という言葉が、好きだった。


 また会う。


 また話す。


 また笑う。


 また喧嘩する。


 また仲直りする。


 また明日。


 人間が未来を信じるとき、使う言葉は案外少ない。


 その中でも「また」は、不思議な言葉だった。


 未来が確実だと保証しているわけではない。


 それでも。


 もう一度を期待している。


 その期待そのものが、人間を明日へ向かわせる。


 遼はリビングの時計を見た。


 十一時五十九分。


 また。


 この時間。


 秒針が動く。


 十二時になる。


 何も起こらない。


 真琴が欠伸をする。


「眠い」


「寝れば?」


「一緒に寝る?」


「……」


 真琴は笑う。


「冗談」


「びっくりした」


「何を?」


「いや」


 真琴は自分の部屋へ向かった。


「おやすみ」


「おやすみ」


 ドアが閉まる。


 遼は一人になった。


 静かな部屋。


 時計の音。


 雨の音。


 そして、飲みかけのコーヒー。


 カップの中には、少しだけ残っている。


 遼はそれを見つめた。


 これまでの世界でも。


 何度も見た。


 同じ仕草。


 同じ量。


 同じ時間。


 違う人生の中で、同じものが繰り返されている。


 偶然ではない。


 もう、そう思い始めていた。


 けれど。


 その理由は分からない。


 分からない。


 だから、怖い。


 けれど同時に。


 分からないからこそ、確かめたいと思う。


 遼はカップを洗った。


 そして、部屋へ戻った。


   ◇


 ベッドに横になる。


 目を閉じる。


 今日のことを思い出す。


 喧嘩。


 笑い。


 雨。


 傘。


 真琴。


 それから。


 「相性」という言葉。


 もし、人間が幸福になるために最適な相手を選ぶのなら。


 恋愛はもっと簡単だっただろう。


 条件を入力する。


 価値観。


 性格。


 生活習慣。


 年齢。


 収入。


 将来設計。


 そして。


 最も幸福になれる相手を選ぶ。


 そんな世界なら。


 誰も恋愛で迷わなくて済む。


 けれど。


 そんな世界で、本当に人は幸せなのだろうか。


 遼は目を閉じたまま考えた。


 自分は真琴を選んだ。


 合理的ではない。


 効率的でもない。


 相性も良くない。


 それでも。


 今日、一緒に歩きたいと思った。


 明日も会いたいと思った。


 それだけで。


 選ぶ理由としては十分だった。


 その瞬間。


 暗闇の中に、あの声が響いた。


『あなたは、彼女を選びましたか?』


 遼は答えた。


「うん」


『なぜ?』


 少し考える。


「好きだから」


『好きとは何ですか?』


 遼は黙った。


 答えられない。


 けれど。


 今回は、以前とは違う。


「分からない」


 声はしばらく沈黙した。


『それでも?』


 遼は目を閉じた。


 真琴の顔が浮かぶ。


 笑っている。


 怒っている。


 呆れている。


 そして。


 雨の中で、自分の傘に入っている。


「それでも」


 遼は答えた。


「一緒にいたい」


 声は消えた。


 暗闇だけが残る。


 遼は静かに眠りへ落ちていった。


 その直前。


 ほんの一瞬だけ。


 自分の記憶ではない光景が浮かんだ。


 白い部屋。


 白い壁。


 白い服。


 そして。


 誰かと向かい合っている自分。


 その相手が言っていた。


「条件を変えてみよう」


 遼は目を開いた。


 けれど。


 もう何も見えなかった。


 夢だったのだろう。


 きっと。


 そう思うことにした。


 ただ。


 眠りに落ちる直前に、ひとつだけ考えた。


 ――もし人生が、選択の連続なのだとしたら。


 ――自分は今まで、誰に選ばれてきたのだろう。


 そして。


 ――自分は、本当に自分で選んできたのだろうか。


 答えはまだ、どこにもなかった。


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