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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十七章 幸福の定義

 幸福について考えるようになったのは、いつからだっただろう。


 遼は、机の前に座っていた。


 目の前には、一枚の紙。


 そこに、こう書いた。


 『幸福とは何か』


 それだけだった。


 書いたはいいものの、その続きをどうすればいいのか分からない。


 だから、その下に線を引いた。


 そして、思いついた言葉を並べてみた。


 お金。


 健康。


 愛。


 自由。


 家族。


 仕事。


 安心。


 友人。


 夢。


 若さ。


 成功。


 どれも幸福に関係しているように思える。


 けれど。


 どれか一つを手に入れれば幸福になれる、というものでもない。


 金があっても孤独な人はいる。


 貧しくても笑う人はいる。


 健康でも不安な人はいる。


 病気でも穏やかに生きる人はいる。


 成功しても満たされない人がいる。


 何者でもなくても、自分の人生を好きだと言う人がいる。


 つまり。


 条件だけでは説明できない。


 遼は紙の中央に、大きく書いた。


 『幸福=条件?』


 そして、その横に小さく。


 『幸福=感じ方?』


 と書いた。


「何してるの?」


 真琴の声がした。


 遼は振り返った。


「幸福について考えてる」


「また?」


「うん」


「好きだね」


「うん」


 真琴は紙を覗き込んだ。


「難しそう」


「難しいよ」


「じゃあ、やめれば?」


「どうして?」


「難しいこと考えても、お腹いっぱいにならないから」


「それはそうだけど」


「じゃあ、ご飯食べよう」


 真琴はそう言って、遼の腕を引いた。


 遼は立ち上がった。


 紙は机の上に残したままだった。


   ◇


 夕食は、近所の店で買った弁当だった。


 特別なものではない。


 高級でもない。


 健康的というほどでもない。


 けれど、真琴は嬉しそうだった。


「これ好き」


「知ってる」


「本当に?」


「前にも食べてた」


「よく覚えてるね」


 遼は少し黙った。


 覚えている。


 そう思った。


 けれど。


 本当に「覚えている」のだろうか。


 これまでの世界でも、自分は何かを覚えていた。


 それなのに、世界が変わると、記憶は消えていった。


 それでも残るものがあった。


 感覚。


 癖。


 恐れ。


 好きという気持ち。


 理由のない懐かしさ。


 それらは記憶とは違う。


 ならば。


 人間の心には、言葉になる前の記憶があるのだろうか。


 身体が覚えているもの。


 感情が覚えているもの。


 理屈では説明できないもの。


「遼」


「ん?」


「また難しい顔」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


 真琴は箸を置いた。


「幸福って、そんなに難しい?」


「分からない」


「じゃあ、今は?」


「今?」


「今、幸せ?」


 遼は真琴を見る。


 弁当。


 狭い部屋。


 テレビの音。


 窓の外を走る車。


 そして、目の前にいる真琴。


 何も特別ではない。


 けれど。


「……うん」


 遼は答えた。


「幸せ」


「じゃあ、それでいいじゃん」


 真琴は再び箸を持った。


 遼は笑った。


 まただ。


 また真琴は、簡単に終わらせる。


 けれど。


 もしかすると、真琴の言っていることのほうが正しいのかもしれない。


 幸福とは。


 説明できるものではなく。


 ただ、感じるものなのかもしれない。


   ◇


 食事を終えたあと。


 二人はテレビを見ていた。


 ニュースでは、景気や物価の話をしている。


 別の番組では、結婚についての特集が流れていた。


 幸せな家庭。


 理想の結婚生活。


 夫婦円満の秘訣。


 画面の中では、誰もが「幸福」を説明していた。


 遼は少し違和感を覚えた。


 幸福には、いつから「正解」ができたのだろう。


 良い仕事。


 良い家。


 良い相手。


 良い収入。


 良い生活。


 社会は、人間に幸福のモデルを提示する。


 そして人は、そのモデルから自分の人生を採点する。


 自分は平均より幸せか。


 友人より幸せか。


 同年代より成功しているか。


 結婚しているか。


 子どもがいるか。


 家を持っているか。


 収入はいくらか。


 それらを比べる。


 比較すればするほど。


 幸福は遠くなる。


 遼は、ふと気づいた。


 幸福そのものより。


 「自分は幸福であるべきだ」という考えのほうが、人を苦しめることがある。


「ねえ」


 真琴が言った。


「何?」


「遼は、どんな人生が幸せだと思う?」


 遼はテレビを消した。


 部屋が静かになった。


「……分からない」


「また」


「でも、考えてみる」


 遼は少し間を置いた。


「たぶん、自分で選んだと思える人生」


「自分で?」


「うん」


「でも、人生って自分だけで選べないよ」


 真琴は言った。


「生まれる場所も、家族も、顔も、才能も選べない」


「……そうだね」


「事故とか病気とか、突然何か起きることもある」


「うん」


「だったら、全部自分で選んだ人生なんて無理じゃん」


 遼は黙った。


 確かにそうだった。


 人生には、自分で選べないことがあまりにも多い。


 生まれた場所。


 時代。


 家庭。


 身体。


 社会。


 偶然。


 出会い。


 別れ。


 人間は、自分の人生を自由に設計しているようで。


 実際には、与えられた条件の中で選んでいるだけなのかもしれない。


「じゃあ」


 真琴が言った。


「与えられたものの中で、どう生きるかを選べたらいいんじゃない?」


 遼は真琴を見た。


「それが幸福?」


「知らない」


「真琴も分からないんだ」


「私だって全部分かるわけじゃないよ」


 真琴は笑った。


「でも、分からなくても生きられるじゃん」


 その言葉が、遼の中に残った。


 分からなくても、生きられる。


 幸福の定義がなくても。


 人生の意味が分からなくても。


 自分が何者なのか分からなくても。


 明日の予定が分かれば、明日を迎えられる。


 隣にいる人がいれば、話ができる。


 腹が減れば食べる。


 眠ければ眠る。


 悲しければ泣く。


 嬉しければ笑う。


 人間は、意味を完全に理解しなくても生きていける。


 むしろ。


 意味を求めすぎることが、生きることを難しくしているのではないか。


   ◇


 夜。


 遼は一人でベランダに出た。


 雨は降っていなかった。


 街には無数の明かりがある。


 一つ一つの窓に、人がいる。


 笑っている人。


 眠っている人。


 働いている人。


 喧嘩している人。


 誰かを待っている人。


 誰かを失った人。


 幸福な人。


 幸福だと思っている人。


 幸福ではないと思っている人。


 そして。


 自分。


 遼は思った。


 もし、すべての人間に「幸福度」を数値として表示できたら。


 人生はどうなるだろう。


 八十点なら幸福。


 五十点なら普通。


 三十点なら不幸。


 そんなふうに測れたら。


 人間は八十点を目指すのだろう。


 けれど。


 八十点の人生を生きていても、本人が「もっと欲しい」と思えば、不幸になる。


 三十点の人生でも。


 本人が「これでいい」と思えれば、幸福になれる。


 ならば。


 幸福とは数字ではない。


 他人との比較でもない。


 人生に与えられた条件そのものでもない。


 それは。


 自分が自分の人生をどう受け取るか。


 そう考えたところで。


 遼は、また一つ疑問を持った。


 では。


 もし人間の「感じ方」そのものが変えられたら?


 同じ人生なのに。


 幸せだと思う人と、不幸だと思う人がいる。


 ならば。


 感じ方を変えれば、幸福になれるのではないか。


 それは幸福なのだろうか。


 それとも。


 ただ幸福だと思い込んでいるだけなのだろうか。


「……難しいな」


 遼は呟いた。


 部屋の中から真琴の声がする。


「また一人で考えてる!」


「うん」


「寒いよ!」


「今行く」


 遼は部屋に戻った。


 その瞬間。


 幸福について考えていた頭が、少しだけ静かになった。


 目の前に真琴がいる。


 それだけでよかった。


   ◇


 眠る前。


 遼は机の上の紙を見た。


 最初に書いた言葉。


 『幸福とは何か』


 その下に、今日、一つだけ書き足した。


 『幸福とは、与えられた人生を、自分の人生だと思えること』


 しばらく眺める。


 そして。


 さらに、その下に書いた。


 『ただし、それだけではない』


 何が違うのか。


 まだ分からない。


 紙を閉じる。


 ベッドに入る。


 目を閉じる。


 すると。


 あの声が聞こえた。


『幸福とは何ですか?』


 遼は答えようとした。


「自分の人生を……」


 けれど、途中で止まった。


 違う。


 何かが違う。


 幸福を定義しようとするほど。


 幸福から遠ざかっているような気がした。


『幸福とは何ですか?』


 もう一度。


 声が尋ねる。


 遼は長い沈黙のあと。


「分からない」


 と答えた。


 すると。


『では、あなたは今、幸せですか?』


 遼は少し笑った。


「うん」


『なぜですか?』


 遼は考えた。


 今までなら、理由を探した。


 愛しているから。


 一緒にいるから。


 生活があるから。


 未来があるから。


 けれど。


 今夜は、理由を探さなかった。


「分からない」


 そう答えた。


 声は何も言わなかった。


 ただ。


 暗闇の向こうで、誰かが微笑んだ気がした。


   ◇


 翌朝。


 遼が目を覚ますと、真琴が朝食を作っていた。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れた?」


「うん」


「今日はどうする?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、どこか行こう」


「どこ?」


「知らない」


「真琴らしい」


 二人で笑った。


 朝食を食べる。


 真琴はコーヒーを一口だけ飲んだ。


 遼はそれを見ていた。


 左耳に触れる。


 そして笑う。


 何度も繰り返される仕草。


 世界が変わっても。


 人生が変わっても。


 名前が変わっても。


 何かだけが残っている。


 それが記憶なのか。


 性格なのか。


 心なのか。


 あるいは。


 もっと別のものなのか。


 遼には、まだ分からなかった。


 けれど。


 今は、それでよかった。


 分からないまま。


 真琴と朝食を食べる。


 分からないまま。


 今日を始める。


 そして、分からないまま。


 自分の人生を選ぶ。


 遼は、ふと思った。


 幸福とは。


 もしかすると。


 「幸福とは何か」という問いに答えられることではなく。


 答えが分からなくても、その問いを抱えたまま生きていけることなのかもしれない。


 そのとき。


 窓の外から、雨の匂いがした。


 まだ雨は降っていない。


 けれど。


 遠くの空は、少し暗くなっていた。


 真琴が窓を見る。


「雨、降りそう」


「そうだね」


「傘、持ってく?」


 遼は笑った。


「持っていこう」


 二人は玄関を出た。


 幸福の定義は、まだ分からない。


 それでも。


 今日という一日が始まった。


 それだけは確かだった。


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