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幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


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第二十八章 世界08・最悪の一年

目を覚ましたとき、遼は、自分が四十歳になっていることを知った。


知った、というのは少し変な言い方だった。


鏡を見たからではない。


身体が、それを知っていた。


重かった。


朝起きた瞬間から、身体のどこかに昨日が残っている。


二十五歳の朝にはなかった疲労が、肩や腰に薄く沈んでいた。


ベッドから起き上がるまでに、ほんの数秒、時間が必要だった。


その数秒の間に、遼は考えた。


――俺は、誰だ。


まただった。


四十歳。


会社員でもない。


学生でもない。


何をしている人間なのか、自分でもよく分からない。


部屋を見回す。


狭い。


古い。


壁紙の一部が剥がれている。


テーブルの上には、コンビニの袋と、開封されていない郵便物が何通か置かれていた。


テレビはついていない。


時計だけが、やけに大きな音を立てていた。


午前八時十七分。


遼はスマートフォンを手に取った。


通知は、ほとんどなかった。


一件だけ、求人サイトからのメール。


新しい仕事を探してください。


そんな意味の文章だった。


遼は、メールを閉じた。


探していないわけではない。


何度も探した。


応募もした。


面接にも行った。


けれど、うまくいかなかった。


この世界では、それが当たり前になっていた。


「仕事がない」という事実は、最初のうちは出来事だった。


やがて、それは人格になった。


無職。


四十歳。


収入が少ない。


将来性がない。


人付き合いがほとんどない。


ひとつひとつの言葉は、ただの情報のはずだった。


しかし人間は、情報を並べるだけでは終わらない。


そこから意味を作る。


そして、その意味によって自分自身を判断する。


遼はいつの間にか、


「仕事がない人間」


ではなく、


「価値のない人間」


になっていた。


もちろん、論理的には同じではない。


頭では分かっている。


けれど、心は論理だけでは動かなかった。


人間は、自分について繰り返し聞かされた言葉を、いつか自分の声として聞くようになる。


遼はそれを知っていた。


知っているのに、抜け出せなかった。


それが、一番苦しかった。


   ◇


昼前になって、美月が来た。


玄関の鍵を開ける音がする。


「起きてる?」


「ああ」


美月はスーパーの袋を二つ持っていた。


「安かったから」


そう言って、テーブルの上に食材を置いた。


卵。


豆腐。


野菜。


食パン。


そして、安いインスタントコーヒー。


美月もまた、この世界では余裕のある人間ではなかった。


仕事は長続きしなかった。


人間関係が苦手だった。


何度か転職をして、何度か失敗した。


今は短時間の仕事をしながら、遼の部屋に来ることが増えていた。


二人は、恋人だった。


けれど、恋人という言葉が、以前の世界ほど明るく響かなかった。


二人とも疲れていた。


将来の話をすると、不安になる。


過去の話をすると、後悔する。


現在について話すと、何もない。


だから二人は、くだらない話をした。


「卵、十個でこの値段だった」


「安いな」


「でしょう」


「じゃあ、今日は卵焼き?」


「卵焼き」


それだけだった。


それだけなのに、遼は少し安心した。


幸福という言葉を使うほどではない。


嬉しい、と言うのも違う。


ただ、美月がここにいる。


その事実が、部屋の中に小さな重さを作っていた。


人間は、誰かがいることで孤独を感じなくなるのではない。


誰かがいることで、自分の孤独を少しだけ確認できるのかもしれない。


同じ部屋にいる。


同じテレビを見る。


同じ食事をする。


それでも、それぞれの心の中には、それぞれの孤独がある。


けれど、その孤独を完全に一人で抱えなくてもいい。


その程度のことが、人間には案外、大きい。


「遼」


「ん?」


「今日、何かする?」


「何もない」


「そっか」


美月はそれ以上、何も言わなかった。


「何かしたほうがいいかな」


遼が言うと、


「したいなら、すればいいんじゃない?」


「したいことがない」


「じゃあ、何もしなくてもいいんじゃない?」


その言葉に、遼は少しだけ苛立った。


何もしない。


それは楽な言葉ではなかった。


何もしないという選択ではなく、何もできないという現実を、何度も突きつけられてきたからだ。


「そうやって言われると、俺が怠けてるみたいだな」


美月は驚いた顔をした。


「そんなつもりじゃないよ」


「分かってる」


「……怒ってる?」


「怒ってない」


怒っていた。


でも、美月に怒っているわけではなかった。


自分自身に怒っていた。


もっと正確に言えば、


自分自身を嫌っていることに疲れていた。


   ◇


午後、二人は近所のスーパーへ歩いていった。


雨が降りそうだった。


空は薄い灰色だった。


店の入口には、求人のポスターが貼られている。


アルバイト募集。


遼は、その文字を見た。


何も感じないようにした。


けれど、美月は気づいた。


「見てる?」


「見てない」


「そう」


美月は、それ以上言わなかった。


店内では、家族連れが買い物をしていた。


子どもが母親に何かをねだっている。


父親が笑っている。


老夫婦が、どちらがカゴを持つかで小さな言い争いをしている。


どの光景も、幸福そうに見えた。


いや。


幸福そうに「見える」だけだった。


遼は、その違いについて考えた。


人は他人の人生を見るとき、その人生の一部分しか見ることができない。


笑っている家族を見て、


「幸せそうだ」


と思う。


高級車に乗っている人を見て、


「成功している」


と思う。


仕事をしている人を見て、


「ちゃんとしている」


と思う。


しかし、その人の家に帰ったあとまで見ることはできない。


夫婦が何を話しているのか。


子どもが何を悩んでいるのか。


夜、誰が眠れずに天井を見ているのか。


他人の人生は、いつも外側だけが見える。


だから人間は、見えている幸福を基準にして、自分の人生を測ってしまう。


遼もそうだった。


仕事。


収入。


家。


友人。


社会的な評価。


将来性。


それらを一つずつ並べて、自分には何があるのかを確認する。


そして、ないものが多いほど、


自分は不幸だ、


と思う。


けれど。


それは本当に幸福を測っているのだろうか。


それとも、


社会が作った物差しで、自分を採点しているだけなのだろうか。


「遼」


「ん?」


「これ、買っていい?」


美月がプリンを指差した。


「いいよ」


「でも高いよ」


「百円くらいなら」


美月は少し笑った。


「じゃあ、半分こね」


「うん」


その会話が、妙に懐かしかった。


百円。


半分こ。


どこか別の世界でも、そんなことをしていた気がする。


遼は立ち止まった。


――どこで?


思い出せない。


隣にいる美月を見る。


顔は違う。


声も違う。


髪型も違う。


性格も違う。


それなのに。


胸の奥に、知っているという感覚がある。


どうしてだろう。


「どうしたの?」


「いや……」


言いかけて、やめた。


また同じ質問をするところだった。


――君は誰?


けれど、もう聞くのが怖かった。


その答えを知ることより、


自分がその答えを知っているような気がすることのほうが、怖かった。


   ◇


夜。


二人は狭い部屋でプリンを半分に分けた。


テレビでは、成功した若い起業家が話していた。


「人生は、自分次第です」


そんな言葉が聞こえた。


遼はテレビを消した。


「嫌い?」


美月が聞いた。


「何が?」


「こういう番組」


「……うん」


「私も」


二人は笑った。


ほんの少しだけ。


「自分次第って、便利な言葉だよね」


美月が言った。


「うん」


「うまくいった人は、自分の努力って言える。

 でも、うまくいかなかった人は、努力が足りなかったって言われる」


遼は黙っていた。


「生まれた場所も、家族も、身体も、才能も、時代も選べないのにね」


美月は、窓の外を見た。


「全部、自分次第じゃないのに」


その言葉を聞いて、遼は考えていたことを思い出した。


与えられた人生を、自分の人生だと思えること。


あのときは、それが幸福なのかもしれないと思った。


けれど今は、その答えにも自信がなかった。


与えられたものが、自分には重すぎると感じる日もある。


与えられた人生を愛せない日もある。


自分自身を好きになれない日もある。


そんなときまで、


「この人生を自分のものだと思いなさい」


と言われたら、それは幸福ではなく、命令になってしまう。


幸福は、努力目標なのだろうか。


達成すべきものなのだろうか。


もしそうなら、幸福になれない人は、失敗した人間なのだろうか。


遼には、そうは思えなかった。


むしろ。


「幸せにならなければならない」


という考えそのものが、人間を苦しめることがある。


幸せな人生を探し続けるほど、


今の人生が幸せではないように思えてしまうからだ。


   ◇


美月がコーヒーを淹れた。


二つのカップ。


湯気。


静かな部屋。


美月は一口飲んだ。


そして、いつものように。


ほんの少しだけ残した。


遼の胸がざわついた。


まただ。


彼女はカップを置いた。


そして、考え込むように左耳に触れた。


また。


同じだった。


今までの彼女たちと。


美咲。


凛。


玲奈。


千夏。


沙織。


和子。


真琴。


そして、美月。


名前も。


年齢も。


顔も。


人生も。


全部違う。


なのに。


同じ仕草。


同じほんの少しだけ残すコーヒー。


同じ雨。


同じ時刻。


遼は時計を見た。


11時58分。


秒針が進む。


11時59分。


その瞬間。


部屋の中に、かすかな電子音がした。


ピッ。


遼は顔を上げた。


美月は何も反応しない。


「今、音……」


「何?」


「いや」


時計を見る。


11時59分。


遼は急に怖くなった。


まただ。


この時間。


この音。


この感覚。


そして、次の瞬間。


視界が白くなった。


   ◇


白い部屋。


何もない。


壁も。


床も。


天井も。


境界すら分からない。


遼は立っていた。


正面に誰かがいる。


顔は見えない。


けれど、声だけは聞こえた。


「あなたは、幸せですか?」


遼は答えなかった。


これまでなら、何かを答えようとした。


「たぶん」


「うん」


「それでも」


けれど今は。


どれも違う。


幸せだと言えば、嘘になる。


不幸だと言えば、それも違う。


美月がいる。


それだけで救われる瞬間がある。


でも、それだけで人生の問題が消えるわけではない。


仕事がない。


自信がない。


将来が見えない。


自分が誰なのかさえ分からない。


だから遼は、正直に言った。


「……分からない」


声は返ってこなかった。


しばらくして、もう一度。


「あなたは、誰ですか?」


遼は目を閉じた。


分からない。


二十五歳の自分も。


四十歳の自分も。


会社員だった自分も。


学生だった自分も。


老人だった自分も。


小説家だった自分も。


貧しかった自分も。


裕福だった自分も。


全部、自分だった。


けれど、全部が自分ではないような気もした。


では、人間を人間たらしめるものは何なのか。


記憶か。


身体か。


性格か。


名前か。


社会的な立場か。


それとも。


何度人生をやり直しても、


それでも誰かを選びたいと思う心なのか。


遼は、答えを探した。


そして、ふと気づいた。


白い部屋の奥に、


一つだけ扉がある。


その扉の向こうから、雨の音が聞こえていた。


誰かの声がする。


小さく。


けれど、確かに。


「条件を変えてみよう」


遼は、その言葉を聞いた。


そして初めて、


それが夢ではないのかもしれないと思った。


   ◇


翌朝。


遼が目を覚ますと、美月は台所にいた。


「おはよう」


「おはよう」


いつもと同じ朝だった。


コーヒーの匂い。


古いテーブル。


安いパン。


曇った窓。


何も変わっていない。


それなのに。


遼には、昨日までとは違って見えた。


美月が振り返る。


「どうしたの?」


「いや」


遼は少し考えてから言った。


「今日、散歩しない?」


美月は笑った。


「朝から珍しいね」


「たまには」


二人は玄関を出た。


外には、雨が降り始めていた。


美月は傘を開いた。


遼はその隣に入った。


肩が少し触れる。


二人は何も言わずに歩いた。


完全な幸せではない。


少なくとも、遼はそう思った。


けれど。


幸せでないからといって、


この人の隣から離れなければならない理由にもならなかった。


そのことだけが、不思議なくらい確かなものとして、胸の中に残っていた。


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