↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸せ探しゲーム  作者: 和泉 きよ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/33

第二十九章 それでも隣にいる

雨は、三日続いた。


一日目は、ただの雨だった。


二日目には、少し鬱陶しくなった。


三日目になると、遼は雨が降っていることすら、どうでもよくなっていた。


窓の外を見ても、灰色。


テレビをつけても、同じようなニュース。


スマートフォンを見ても、特別な連絡はない。


仕事もない。


予定もない。


未来も、あまり見えない。


それでも朝は来る。


朝が来るということだけは、人生がどれほど停滞していても変わらなかった。


遼はベッドから起き上がった。


隣には、美月がいた。


眠っている。


その寝顔を見て、遼は不思議な気持ちになった。


以前の世界でも、こうして誰かが隣にいた。


美咲。


凛。


玲奈。


千夏。


沙織。


和子。


真琴。


名前は違った。


顔も違った。


人生も違った。


それなのに、目の前の美月を見ていると、どこかで知っているような気がする。


――また、この人だ。


そんな考えが浮かぶ。


しかし、それが何を意味するのかは分からない。


遼は時計を見た。


午前七時三十一分。


11時59分ではない。


それだけのことなのに、少し安心した。


   ◇


朝食は食パンだった。


二枚焼いて、一枚ずつ食べる。


美月はコーヒーを淹れた。


いつものように、一口だけ残した。


遼は、それを見て笑った。


「何?」


「いや」


「何か変?」


「いつも残すよね」


美月はカップを見た。


「ああ」


「もったいなくない?」


「最後の一口って、なんか飲めない」


「なんで?」


「分からない」


遼は笑った。


「俺も分からない」


「何が?」


「分からないことが」


美月は少しだけ笑った。


それ以上は聞かなかった。


その沈黙が、遼にはありがたかった。


人間は、いつでも説明を求められる。


どうして仕事を辞めたのか。


どうして結婚しないのか。


どうして夢を諦めたのか。


どうしてもっと頑張らないのか。


どうして幸せになれないのか。


問いは、いつも正しい顔をしている。


けれど、正しい問いが、必ずしも人を救うわけではない。


答えられない人間にとっては、問いそのものが重荷になることもある。


美月は、遼に答えを求めなかった。


だから遼は、彼女の前では少しだけ、自分を責めずにいられた。


   ◇


昼過ぎ。


二人はハローワークへ行った。


遼は求人票を眺めた。


どれも似たように見える。


経験。


資格。


年齢。


勤務時間。


給与。


休日。


条件。


人間を、条件に分解していく。


この仕事には、この資格。


この年齢なら、この経験。


この給与なら、この能力。


社会は、人間を比較するための物差しをいくつも持っている。


そして人間は、その物差しを自分自身に当てる。


遼も何度もそうしてきた。


自分には何が足りない。


何が劣っている。


何を持っていない。


何を失った。


何歳なのに、これができない。


四十歳なのに、これしかない。


そんな言葉が、自分の中に積み重なっていた。


ふと、美月が隣に座った。


「見つかった?」


「まだ」


「そっか」


「美月は?」


「私もまだ」


「どうする?」


美月は求人票を眺めたまま言った。


「探す」


「それだけ?」


「うん」


遼は笑った。


「単純だな」


「単純でいいじゃん」


「人生なのに?」


「人生だからじゃない?」


遼は何も言えなかった。


人生を難しくしているのは、人生そのものではなく、


人生に意味を与えようとする自分なのかもしれない。


仕事を見つけなければ。


成功しなければ。


幸せにならなければ。


誰かに認められなければ。


人生を「正解」にしなければ。


そう考えるから、今日一日を生きることまで難しくなる。


美月は、ただ、


「探す」


と言った。


それだけだった。


   ◇


帰り道、二人は公園に寄った。


雨は止んでいた。


ベンチには誰もいない。


濡れた地面に、空が映っていた。


美月が言った。


「ねえ」


「ん?」


「私たちって、幸せなのかな」


遼は答えられなかった。


前も答えられなかった。


今も同じだった。


「分からない」


正直に言う。


美月は少し笑った。


「私も」


「じゃあ、不幸なのかな」


「それも分からない」


「……だよな」


二人は並んで座った。


しばらく沈黙した。


公園の向こうを、親子が歩いている。


小さな子どもが水たまりを避けながら走っている。


父親が笑っている。


母親が子どもの手を引いている。


その光景を見て、遼は思った。


幸福とは、外から見えるものではない。


誰かの人生を見て、


「幸せそうだ」


と思うことはできる。


けれど、その人間が本当に幸せかどうかは、その人間にしか分からない。


そして自分自身でさえ、


「今、自分は幸せなのか」


と聞かれて、すぐに答えられるとは限らない。


幸福は、温度計のように数字で表示されるものではない。


だからこそ、人間は不安になる。


分からないものを、分かろうとする。


比べる。


測る。


定義する。


そしていつの間にか、


「幸せであること」


そのものが目的になる。


遼は、ふと考えた。


もし幸福が目的なら。


今の自分たちは、失敗している。


仕事がない。


金もない。


未来も不安定。


社会的には、成功とは呼べない。


では。


それなら。


美月と別れたほうがいいのだろうか。


もっと条件のいい相手を探したほうがいいのだろうか。


もっと幸福になれそうな人生を選び直したほうがいいのだろうか。


その瞬間。


胸の奥に、はっきりとした感情が生まれた。


嫌だった。


それだけだった。


美月と別れることを考えた瞬間、


「嫌だ」


と思った。


幸福になれるかどうかではない。


条件がいいかどうかでもない。


合理的かどうかでもない。


ただ。


嫌だった。


遼は、自分でも驚いた。


これまでの世界では、いつも理由を探していた。


好きだから。


相性がいいから。


安心するから。


一緒にいると幸せだから。


けれど今は、理由がなかった。


理由がないのに、選びたい。


その感情が、妙に強かった。


   ◇


「美月」


「なに?」


「俺さ」


遼は言葉を探した。


「たぶん、幸せじゃないと思う」


美月は黙って聞いていた。


「この生活が好きかって聞かれたら、好きじゃない」


「うん」


「仕事もしたい」


「うん」


「もっと普通に暮らしたい」


「うん」


「将来のことを考えて、不安にならないようになりたい」


「うん」


「自分のことも、もう少し好きになりたい」


そこまで言って、遼は一度息を吐いた。


「でも」


美月を見る。


「それでも、美月とは一緒にいたい」


美月はすぐには答えなかった。


やがて、少しだけ笑った。


「私も」


「……幸せだから?」


「違う」


「じゃあ、なんで?」


美月は考えた。


左耳に触れる。


そして言った。


「一人でいるより、遼といるほうがいいから」


その答えは、あまりにも普通だった。


哲学でもない。


理屈でもない。


幸福の定義でもない。


ただの比較だった。


一人より二人。


完璧な人生より、不完全な人生を二人で。


それだけ。


けれど遼には、その言葉が不思議なほど深く感じられた。


人間は、必ずしも「最高」を選ぶわけではない。


「最適」を選ぶわけでもない。


時には、


「これでいい」


と思えるものを選ぶ。


そしてその選択を積み重ねることで、


後から人生に意味が生まれることがある。


幸福とは、最初から用意されている目的地ではなく、


選んだ道を歩いたあとに、


「あの道でよかった」


と思えることなのかもしれない。


   ◇


その夜。


二人は家でテレビを見ていた。


美月は途中で眠くなり、先に寝室へ行った。


遼は一人でテレビを消した。


部屋が暗くなる。


時計を見る。


11時57分。


心臓が少し速くなった。


11時58分。


窓の外から、雨の音が聞こえてきた。


11時59分。


ピッ。


あの電子音。


遼は目を閉じた。


白い部屋が浮かぶ。


誰もいない。


何もない。


そして、声。


「あなたは、幸せですか?」


遼は、しばらく考えた。


今までなら、


「分からない」


と答えていた。


でも今日は、少し違った。


「幸せかどうかは、分からない」


声は何も言わない。


「でも」


遼は続けた。


「彼女と離れたいとは思わない」


沈黙。


「幸せじゃないから、一緒にいないほうがいいとは思わない」


また沈黙。


そして。


「それでも?」


遼は目を開いた。


白い空間の向こうに、誰かが立っている。


顔は見えない。


けれど、その仕草だけは分かった。


左耳に触れる。


遼の胸が強く鳴った。


「それでも」


遼は答えた。


「隣にいたい」


その瞬間。


白い部屋に、雨の音が広がった。


   ◇


翌朝。


遼が目を覚ますと、美月はまだ眠っていた。


部屋の中には朝の光が差している。


時計は、午前七時十二分。


遼は、その数字を見つめた。


どこかで見たことがある。


そんな気がした。


けれど、思い出せない。


彼はベッドから起き上がり、台所へ向かった。


コーヒーを二つ淹れる。


一つを美月の前に置く。


しばらくすると、美月が起きてきた。


「おはよう」


「おはよう」


美月はカップを持った。


一口だけ飲む。


そして、いつものように少し残した。


遼は笑った。


「また残した」


「いいじゃん」


「もったいない」


「じゃあ飲む?」


「いや」


二人で笑った。


特別なことは何も起きなかった。


人生が急に好転したわけでもない。


仕事が決まったわけでもない。


お金が増えたわけでもない。


将来が保証されたわけでもない。


それでも。


遼はその朝を、


悪くないと思った。


幸福という言葉を使う必要はなかった。


ただ、


今日も隣にいる。


それでよかった。


そう思った。


そのとき。


テーブルの上に置いたスマートフォンが、突然震えた。


画面を見る。


通知は一件。


見覚えのないアプリだった。


白い画面。


中央に、黒い文字。


――幸福度:計測中。


遼の指が止まった。


美月は、それを見ていない。


画面はすぐに暗くなった。


遼は何も言わなかった。


ただ、胸の奥で、


昨日までとは違う種類の疑問が生まれていた。


――誰が、俺たちの幸福を測っている?


そして。


その問いの答えを探すより先に。


美月が言った。


「今日、何食べる?」


遼は彼女を見た。


「何でもいい」


「じゃあ、卵焼き」


「また?」


「おいしいから」


「そっか」


二人は台所へ向かった。


幸福についての答えは、


まだ見つからなかった。


けれど。


答えが見つからないままでも、


人は誰かと朝を迎えることができる。


その事実だけが、


遼には少しだけ大切に思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。