第三十章 実験終了
結婚について話したのは、雨の降らない朝だった。
窓から差し込む光が、いつもより明るかった。
遼はコーヒーを飲みながら、美月を見た。
「結婚しない?」
美月は、パンを食べる手を止めた。
「急だね」
「うん」
「どうして?」
遼は答えようとして、やめた。
理由なら、いくらでも作れた。
好きだから。
長く一緒にいるから。
一人より二人のほうがいいから。
将来を一緒に考えたいから。
けれど、それらはどれも本当でありながら、どこか決定的ではなかった。
これまでの世界では、結婚にはいつも何らかの意味があった。
幸せの完成。
恋愛の到達点。
人生の安定。
二人の未来。
けれど今は、そんなものを信じられなかった。
「理由は、うまく言えない」
遼が言うと、美月は笑った。
「遼らしい」
「でも」
遼は続けた。
「結婚したら幸せになれるとは思ってない」
美月の表情から、少し笑みが消えた。
「うん」
「結婚しなくても、幸せになれるかもしれない」
「うん」
「それでも」
遼は、美月を見る。
「一緒にいたい」
美月はしばらく黙っていた。
それから、カップを置いた。
「じゃあ、いいよ」
あまりにも簡単だった。
遼は少し拍子抜けした。
「いいの?」
「うん」
「もっと考えない?」
「考えたって、分からないでしょ」
「……そうだけど」
「じゃあ、今分かることだけでいいじゃん」
美月はそう言った。
「今、遼と一緒にいたい。それで十分じゃない?」
遼は返事をしなかった。
十分。
その言葉が、胸の奥に残った。
人間は、いつから「十分」では足りなくなったのだろう。
もっとお金が必要。
もっと広い家が必要。
もっといい仕事。
もっと若さ。
もっと美しい恋人。
もっと高い学歴。
もっと大きな成功。
もっと確かな未来。
幸福というものを、何かの合格ラインのように考えてしまう。
条件を一つずつ満たして、
「これで幸福になれる」
と思う。
しかし条件を満たしたところで、また別の条件が生まれる。
人間の欲望には、終点がない。
だから幸福を条件にしてしまえば、
幸福にも終点がなくなる。
遼は、初めてそのことが分かった気がした。
◇
結婚の準備は、驚くほど簡単だった。
豪華な式はしなかった。
高価な指輪も買わなかった。
二人で役所へ行き、必要な書類を書いた。
窓口の職員が書類を確認する。
名前。
住所。
生年月日。
本籍。
いくつもの欄。
人間の人生が、紙の上に整然と並べられていく。
遼は、その光景を不思議な気持ちで見ていた。
自分の名前を書く。
佐伯遼。
四十歳。
そう書かれている。
けれど、本当に自分は四十歳なのだろうか。
十九歳だった自分。
二十三歳だった自分。
二十九歳だった自分。
三十二歳だった自分。
三十五歳だった自分。
七十二歳だった自分。
全部、確かに自分だった。
ならば。
年齢とは何なのだろう。
名前とは何なのだろう。
記憶とは何なのだろう。
人間は、自分の過去を覚えているから自分なのか。
それとも、
今ここで何かを選んでいるから自分なのか。
もし記憶が全部消えたとしても、
それでも何かを選ぶことができるなら、
その選択をした存在は、
やはり「自分」と呼べるのだろうか。
遼は書類に名前を書いた。
その瞬間だけは、不思議と迷わなかった。
「これで大丈夫です」
職員が言った。
美月が隣で笑った。
それだけだった。
人生の大きな決断というものは、
意外なほど静かに終わる。
◇
帰り道。
二人はコンビニに寄った。
美月がプリンを二つ買った。
「今日は一個ずつ」
「珍しい」
「結婚記念日だから」
「今日から?」
「今日から」
二人は笑った。
店を出ると、風が吹いていた。
雨は降っていない。
空には雲があった。
「ねえ、遼」
「ん?」
「幸せ?」
遼は立ち止まった。
以前なら、答えに迷っていた。
けれど今は違った。
「分からない」
美月は笑った。
「またそれ?」
「うん」
「じゃあ、私も」
二人は歩き出した。
しばらくして、美月が言った。
「でも」
「ん?」
「今、悪くないよね」
遼は笑った。
「うん」
その程度でよかった。
「幸せ」という言葉を使わなくても、
二人の間には何かがあった。
それは幸福と呼べるかもしれない。
呼べないかもしれない。
どちらでもよかった。
◇
夜。
二人は寝室で眠った。
窓の外では、風が静かに木の葉を揺らしている。
遼はなかなか眠れなかった。
隣では、美月が眠っている。
規則的な寝息。
暗い部屋。
小さな時計。
午前十一時五十八分。
遼は時計から目を離せなかった。
やがて。
十一時五十九分。
ピッ。
電子音。
身体が覚えていた。
これまで何度も聞いた音。
心臓が速くなる。
白い光が、視界の端から広がっていく。
遼は目を閉じた。
白い部屋。
何もない。
いつもの声がする。
「あなたは、幸せですか?」
遼は答えた。
「分からない」
「なぜですか?」
「幸福には、たぶん答えがないから」
「では、何を求めているのですか?」
遼は考えた。
金ではない。
成功でもない。
若さでもない。
完璧な相性でもない。
安定でもない。
幸福ですらない。
では、何なのか。
遼は、静かに答えた。
「自分で選んだと思えること」
声は何も言わない。
「そして」
遼は続けた。
「選んだものを、自分の人生として受け入れること」
しばらく沈黙があった。
やがて声がした。
「それが、幸福ですか?」
遼は首を横に振った。
「分からない」
「では、なぜ選ぶのですか?」
遼は答えた。
「分からなくても、選べるから」
その瞬間。
白い部屋に、別の音がした。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
今まで一度しか聞こえなかった電子音が、何度も重なる。
遠くで誰かが話している。
声が複数ある。
「条件、変更」
「記憶状態、確認」
「人格変数……」
遼は眉をひそめた。
言葉の意味が分からない。
しかし。
今まで夢だと思っていたものが、
夢ではなかったのではないか。
そんな感覚だけが残った。
白い空間の奥に、扉が見える。
その向こうには、
誰かがいる。
白衣。
机。
いくつもの画面。
そして。
一人の女性。
顔は見えない。
けれど、その女性が、
左耳に触れた。
遼は息を止めた。
「美月……?」
女性は答えない。
画面の向こうで、
数字が一つずつ変化している。
幸福。
満足。
孤独。
不安。
愛着。
自己評価。
無数の数字。
無数の条件。
人間という存在を、
数値に置き換えようとしているように見えた。
遼は扉に手を伸ばした。
触れた瞬間。
世界が崩れた。
◇
朝。
遼は目を覚ました。
隣に美月はいなかった。
「美月?」
返事はない。
ベッドから起き上がる。
部屋は静かだった。
テーブルの上に、紙が置いてある。
一枚だけ。
そこには、
「30」
と書かれていた。
遼は、その数字を見つめた。
なぜだか分からない。
けれど、
これまでとは違う。
「30」という数字が、
終わりの数字に見えた。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
昨日見たものと同じアプリ。
白い画面。
中央に文字が表示されている。
――実験終了。
遼は息を止めた。
その下に、
もう一行。
――被験者A:佐伯遼。
そして。
――被験者B:汐里。
遼の指が震えた。
画面が切り替わる。
白。
真っ白な画面。
そこに、一つだけ質問が表示された。
――あなたは、幸せでしたか?
遼は、その問いを長い間見つめていた。
そして。
初めて、
笑った。
「……知らないよ」
そう言って、
スマートフォンを伏せた。
窓の外には、雨が降っていた。




