第三十一章 白い部屋
最初に思ったのは、
天井が白い、
ということだった。
ただ、それだけだった。
遼は目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
白い。
あまりにも白い。
病院の天井にも見える。
研究施設の天井にも見える。
何もない部屋の天井にも見える。
けれど、どこか違っていた。
見慣れた白ではない。
影がない。
汚れもない。
時間の経過を示すものが、何もない。
遼は身体を起こした。
頭痛はなかった。
身体も軽かった。
四十歳だったはずなのに、身体が四十歳ではない。
手を見る。
皺がない。
指も細い。
手の甲に、見覚えのない傷もない。
ゆっくり立ち上がる。
足元に床がある。
壁がある。
天井がある。
部屋として成立している。
なのに。
どこか現実ではない。
「……美月?」
声が、白い壁に吸い込まれた。
返事はない。
遼は部屋を見回した。
ベッド。
小さなテーブル。
椅子。
水の入った透明なコップ。
そして、壁に取り付けられた時計。
午前七時十二分。
遼は時計を見つめた。
その数字に、既視感があった。
七時十二分。
どこかで見た。
何度も見た。
けれど、思い出せない。
いや。
思い出したくないのかもしれない。
その瞬間。
胸の奥に、名前が浮かんだ。
美咲。
凛。
玲奈。
千夏。
沙織。
和子。
真琴。
美月。
八つの名前。
八人の女性。
八つの人生。
遼は目を閉じた。
一つずつ、顔が浮かんでくる。
笑っている。
怒っている。
泣いている。
眠っている。
コーヒーを飲んでいる。
左耳に触れている。
雨の日に傘を差している。
そして。
自分の隣にいる。
全部、違う。
全部、同じ。
その矛盾に、遼は息苦しさを覚えた。
もし、すべてが本当に起きたことなら。
自分は何度人生を生きたのだろう。
もし、起きていないのなら。
では、あの感情は何だったのだろう。
◇
扉が開いた。
音は、驚くほど普通だった。
カチャリ。
遼は振り返った。
白い服を着た女性が入ってきた。
三十代くらいに見える。
髪は肩まで。
眼鏡。
手にはタブレット端末。
女性は遼を見ると、少しだけ微笑んだ。
「おはようございます」
遼は答えなかった。
女性は慣れた様子で続けた。
「気分はいかがですか?」
「……ここは?」
「まず、体調について確認させてください」
「美月は?」
女性の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど遼には分かった。
「美月はどこですか?」
「今は別室にいます」
「生きてる?」
「もちろんです」
その答えを聞いて、遼は初めて息を吐いた。
「会わせてください」
「その前に、少し確認があります」
「何を?」
女性はタブレットを見る。
「あなたは今、自分のことを何歳だと思っていますか?」
遼は答えられなかった。
「四十歳……だった」
「だった?」
「分からない」
女性は何かを入力した。
「職業は?」
「無職……」
また入力する。
「家族構成は?」
「美月と……」
そこで遼は言葉を止めた。
「妻です」
女性は顔を上げた。
「美月さんを、奥様だと認識していますか?」
遼は、その質問に違和感を覚えた。
「当たり前でしょう」
「分かりました」
女性はまた入力した。
遼は苛立った。
「何を確認しているんですか?」
女性は答えなかった。
「俺は、何をされていたんですか?」
沈黙。
「俺は……何回、人生をやったんですか?」
女性の指が止まった。
その反応だけで十分だった。
遼は確信した。
――知っている。
この人は、全部知っている。
「答えてください」
女性はしばらく遼を見つめた。
そして静かに言った。
「覚えているんですね」
「何を?」
「以前の世界を」
その瞬間。
遼の中で何かが崩れた。
以前の世界。
その言葉は、
夢だったと思っていたものを、
一気に現実へ引き戻した。
「……世界?」
女性は答えない。
「世界って、何ですか?」
「あなたが経験した人生です」
「経験した?」
遼は笑った。
自分でも奇妙な笑い方だと思った。
「経験したって……」
言葉が続かない。
「じゃあ、あれは全部、本当にあったんですか?」
女性は答えなかった。
遼は一歩近づいた。
「美咲は?」
沈黙。
「凛は?」
沈黙。
「玲奈は?」
沈黙。
「千夏は?」
沈黙。
「沙織は?」
沈黙。
「和子は?」
沈黙。
「真琴は?」
女性は目を伏せた。
「そして、美月は?」
しばらくして。
女性は言った。
「あなたが今、感じていることを大切にしてください」
「質問に答えてない」
「はい」
「じゃあ、答えられないんですか?」
「……答えられないのではなく」
女性は少し間を置いた。
「今は、答えないほうがいいんです」
遼はその言葉を聞いて、
なぜか腹が立たなかった。
むしろ。
怖かった。
◇
女性は部屋を出ていった。
遼は一人になった。
白い部屋。
白い天井。
白い壁。
何もない。
その何もなさが、記憶を逆に鮮明にしていった。
美咲の笑顔。
凛の静かな声。
玲奈の横顔。
千夏と分けた食べ物。
沙織の原稿。
和子と見た古い写真。
真琴との喧嘩。
美月と食べたプリン。
どれも、手で触れられるほど鮮明だった。
けれど。
その記憶のどこにも、
「現実」という印はついていない。
人間の記憶とは、不思議なものだ。
思い出せることと、
本当に起きたことは、
必ずしも同じではない。
夢だって覚えている。
小説の登場人物だって、頭の中では動く。
映画を見て泣く。
誰かの話を聞いて、会ったこともない人間に共感する。
脳にとっては、
「現実だったかどうか」
より先に、
「何を感じたか」
がある。
ならば。
仮に自分が経験した世界が作られたものだったとしても。
そこで感じた悲しみは偽物なのか。
嬉しさは。
寂しさは。
愛情は。
「好きだ」と思った瞬間は。
全部、偽物なのか。
遼はベッドに座った。
そして、手のひらを見つめた。
この手が本物なら、
この手で触れたものも本物なのだろうか。
それとも。
本物の手で、
偽物の世界を触っていただけなのだろうか。
答えは出ない。
ただ一つだけ。
妙に確かなことがあった。
美月と一緒にいた時間を、
なかったことにしたくなかった。
世界が偽物でも。
記憶が作られたものでも。
自分という存在が、
何らかの条件を組み合わせて作られたものでも。
あの朝、
美月が「おはよう」と言ったこと。
プリンを半分にしたこと。
コーヒーを一口だけ残したこと。
雨の日に隣を歩いたこと。
それを思い出したときに、
自分の胸が温かくなったこと。
その感情まで、
誰かに「偽物だ」と言われる筋合いはない。
遼は、ゆっくり目を閉じた。
すると。
声が聞こえた。
遠くから。
それは、あまりにも懐かしい声だった。
「遼」
目を開く。
誰もいない。
けれど、もう一度。
「遼」
今度は、はっきり聞こえた。
遼は立ち上がった。
扉を見る。
そして。
扉の向こうから、
足音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
遼の心臓が強く鳴った。
扉が開く。
そこに立っていたのは――
少し思い出した。
汐里だった。
遼は何も言えなかった。
汐里も何も言わなかった。
二人は、ただ見つめ合った。
やがて汐里が、
いつものように左耳に触れた。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「おはよう、遼」
その一言を聞いた瞬間。
遼は思った。
世界が本物かどうかなんて、
今はどうでもいい。
少なくとも。
この人に会いたかったと思った自分だけは、
嘘ではない。
そのことだけが、
白い部屋の中で、
不思議なくらい確かなものだった。




