第三十二章 現実の彼女
「おはよう、遼」
その声を聞いた瞬間。
遼の中で、いくつもの時間が重なった。
美咲の声。
凛の声。
玲奈の声。
千夏の声。
沙織の声。
和子の声。
真琴の声。
そして、美月の声。
どれも違う。
なのに、どこか同じだった。
遼は、汐里の顔を見つめた。
四十歳の世界で見た顔とは違う。
服装も違う。
髪型も違う。
表情も違う。
けれど、その目だけは、
知っている気がした。
「……ここは?」
汐里は答えなかった。
「俺たちは、今まで何をしてた?」
汐里は視線を落とした。
「全部、覚えてる?」
「全部じゃない」
「どこまで?」
遼は、順番に思い出そうとした。
最初の朝。
プロポーズ。
結婚。
そして、別の世界。
大学生。
貧しい生活。
老人。
喧嘩ばかりの恋人。
仕事のない四十歳。
何度も結婚した。
何度も、目を覚ました。
何度も、
同じような幸福を探した。
「……八つ」
遼が言った。
汐里の表情が、わずかに動いた。
「八つの人生」
「そう」
「全部、夢じゃなかった?」
「夢じゃない」
即答だった。
遼は息を呑んだ。
「じゃあ……」
言葉が出てこない。
「美咲も?」
「うん」
「凛も?」
「うん」
「玲奈も?」
「うん」
「千夏も?」
「うん」
「沙織も?」
「うん」
「和子も?」
「うん」
「真琴も?」
「うん」
「美月も?」
汐里は、少しだけ間を置いた。
「うん」
「じゃあ、あの人たちは誰なんだ?」
汐里は遼を見る。
「私」
その答えは、あまりにも静かだった。
遼は笑ってしまった。
「……やっぱり、そうなのか」
「うん。でも、違う」
「何が?」
「全部違った」
遼の声が震えた。
「顔も、年齢も、性格も、人生も。俺が好きになった理由だって違った」
「そうだね」
「それなのに、全部汐里?」
「そう」
「どういうこと?」
汐里はすぐには答えなかった。
白い部屋の中央にある椅子へ座る。
遼も向かいに座った。
二人の間に、透明なテーブルがあった。
そこに、何もない画面が浮かび上がる。
数字が並んでいる。
年齢。
収入。
性格。
社会的地位。
健康状態。
記憶。
相性。
幸福度。
遼は、それを見つめた。
「……人間を、こんなふうにできるの?」
「できる」
「じゃあ、俺も?」
「うん」
「俺も作られた?」
汐里は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
遼は、自分の手を見た。
この手も。
この身体も。
この四十歳という年齢も。
全部、与えられた条件だったのか。
そう考えた瞬間。
胸の奥に、妙な空虚さが広がった。
人間には、
「自分は自分である」
という感覚がある。
それは普段、疑う必要がない。
名前がある。
顔がある。
身体がある。
過去がある。
他人から呼ばれる名前がある。
だから自分だと思う。
しかし、そのすべてを誰かが作ったものだと知ってしまったら。
自分というものは、
いったいどこに残るのだろう。
「じゃあ、俺は本当は誰なんだ?」
汐里は遼を見た。
「遼だよ」
「それは名前だ」
「そうだね」
「じゃあ、何が俺を俺にしてる?」
汐里は少し考えた。
「私にも分からない」
その答えに、遼は驚いた。
「分からないの?」
「分からない」
「汐里が作ったんじゃないの?」
汐里は微笑んだ。
「私が作ったわけじゃない」
「じゃあ誰が?」
汐里は答えなかった。
代わりに、画面を指差した。
そこには、
「SESSION 08」
と表示されていた。
「セッション?」
「そう」
「八回目?」
「正確には……」
美月は言葉を選んだ。
「八つの世界を、一つの実験として経験した」
遼は画面を見た。
そして、ふと気づいた。
これまで何度も現れた数字。
11時59分。
一年前。
結婚。
世界の切り替わり。
全部が、
偶然ではなかった。
「結婚したら世界が終わった」
「うん」
「じゃあ、結婚が条件だった?」
「そう」
「なぜ?」
「人生の区切りとして分かりやすいから」
遼は苦笑した。
「俺たち、人間をずいぶん簡単に考えてたんだな」
汐里は少し悲しそうに笑った。
「だから、間違えた」
その言葉に、遼は顔を上げた。
「間違えた?」
「うん」
「何を?」
汐里はしばらく黙った。
「幸福を測ろうとしたこと」
◇
二人は白い部屋を出た。
廊下がある。
ガラス張りの壁。
その向こうに、いくつもの部屋が見えた。
コンピューター。
モニター。
椅子。
白い照明。
研究施設。
そう呼ぶしかない場所だった。
けれど遼には、別のものに見えた。
これまでの世界そのものが、
ここから見下ろされていたような気がした。
「この施設は?」
「研究所」
「俺たちは?」
汐里は立ち止まった。
「研究者」
遼は眉をひそめた。
「俺が?」
「うん」
「汐里も?」
「うん」
遼は笑った。
「全然、覚えてない」
「それが実験の条件だったから」
「記憶を消した?」
「全部ではない」
「どうして?」
「記憶がある状態では、幸福について正しく調べられないと思ったから」
遼は立ち止まった。
それは、理屈としては理解できた。
けれど。
心では理解できなかった。
自分たちは研究者だった。
幸福を研究するために、自分たち自身を実験対象にした。
世界を変えた。
年齢を変えた。
性格を変えた。
社会的な条件を変えた。
そして、そのたびに恋をした。
結婚した。
幸福について考えた。
それを何度も繰り返した。
「じゃあ……」
遼は言った。
「汐里も、全部覚えてなかった?」
「うん」
「俺と同じだった?」
「同じ」
「汐里も、毎回、本当に俺を好きになった?」
汐里は答えなかった。
遼はその沈黙を待った。
やがて。
「そうだよ」
と汐里は言った。
「全部、本当に好きだった」
その言葉を聞いて。
遼は胸の奥が苦しくなった。
なぜだか分からない。
嬉しいのか。
悲しいのか。
安心したのか。
怖いのか。
全部だった。
「でも」
汐里は続けた。
「それが、この実験で一番怖かった」
「何が?」
「私は、あなたを好きになるように設定されたわけじゃない」
「……え?」
「最初は、そう思っていた」
汐里はガラスの向こうを見た。
「条件を変えれば、好きになる相手も変わると思っていた」
「でも?」
「変わらなかった」
遼は黙った。
「顔を変えても」
「うん」
「年齢を変えても」
「うん」
「性格を変えても」
「うん」
「社会的な立場を変えても」
「うん」
「貧しくしても」
「うん」
「裕福にしても」
「うん」
「人生そのものを変えても」
汐里は遼を見た。
「私は、あなたを選んだ」
その言葉は、
これまでのどんな告白よりも静かだった。
そして同時に、
どんな告白よりも恐ろしかった。
遼は思った。
もしこれが実験の結果なら。
もし自分たちが研究者で。
もし、この八つの人生が、
幸福を測るために用意されたものなら。
自分たちが感じた愛は、
研究結果なのだろうか。
それとも。
研究するために作った世界の中で、
研究者自身が予想できなかった何かが生まれたのだろうか。
「汐里」
「うん」
「この実験……成功したの?」
美月は少しだけ笑った。
「まだ分からない」
「どうして?」
「幸福の条件が見つからなかったから」
遼は、その言葉を聞いて、
なぜか嬉しくなった。
幸福には条件がない。
それは、これまでのすべての世界で、
遼自身が感じてきたことだった。
そして今。
それを研究者である自分たちも認めようとしている。
けれど。
汐里は、最後に一つだけ付け加えた。
「ただ、一つだけ分かったことがある」
「何?」
汐里は遼を見つめた。
「条件を全部変えても、変わらないものがあった」
「それは?」
汐里は答えなかった。
ただ。
いつものように、
左耳に触れた。
遼は、その仕草を見た。
そして、初めて理解した。
自分たちが探していたのは、
幸福の条件ではなかったのかもしれない。
もしかすると。
自分たちはずっと、
「人間にとって、本当に変えられないものは何なのか」
を探していたのではないか。
その答えはまだ、
二人の目の前にはなかった。
廊下の先に、
もう一つの扉がある。
その扉には、
「REAL WORLD」
と書かれていた。
遼は、その文字を見つめた。
現実世界。
その言葉を見た瞬間。
これまでの人生で初めて、
遼は思った。
――では。
――今いるここは、本当に現実なのだろうか。




